2006年12月26日

李炳圭活躍のバイブルは?:伊藤馨一

 「言葉」の大切さを改めて思い起こした。「韓国最高の打者」こと李炳圭外野手(32=LG)の中日入団が決定。球団では宣銅烈投手(現サムスン監督)、李鍾範外野手(現紀亜)、サムソン・リー(李尚勲)投手(引退)以来4人目の韓国プロ野球選手の入団。李炳圭の「先輩」3人の中で言葉の力で最も劇的に変化したのはサムソンだった。

 長い髪に鋭い眼光。独特の風貌と常にギターを携行するという風変わりな面ばかりが強調されていた当時の「韓国最高の左腕」も来日1年目の98年は故障などもあり、11試合で1勝、防御率4・68という不本意な成績に終わった。自信満々の来日から一転、失意で迎えたその年の浜松秋季キャンプ。浜松市内のホテルで約1時間半話し込んだ。

 片言の英語と日本語、そして筆記を交えた取材。そこで印象的だったのは、サムソンが「日本語を勉強したいと思っている」ということを話したことだった。異国の地で最初の障害となるのは言葉のカベだろう。1年目の失敗で、プライドをかなぐり捨てた。チームメートとも日本語でやり取りを始めた。誇り高き男が復活へ必死になっていた。

 翌99年。こんな声が聞こえてきた時にはびっくりした。「サムソン・リーデスケド、ナゴヤキュウジョウニ、タクシーイチダイオネガイシマス」。彼の日本語は、携帯電話で自分でタクシーの配車を頼むレベルに達していた。その秘密を聞くと「ナガブチツヨシ」とニヤリ。カラオケなどで長渕剛を歌うことで日本語を覚えていったという。

 その年、サムソンは主に中継ぎとしてフル回転。36試合に登板、6勝5敗、防御率2・83の成績を残し、リーグ優勝に貢献した。その原動力となったのは、異国文化(=言葉)を受け入れ、自分のものにしたことだったと思う。日本での成功を目指す李炳圭にとって韓国LGの先輩でもあるサムソンの体験は、活躍へのバイブルになるだろう。

December 26, 2006 09:22 PM 投稿者:伊藤馨一

2006年12月20日

もがくのは格好悪くない:鈴木忠平

 「もがくことって格好悪いことじゃないんですね」-。中日を戦力外となって楽天に入団した川岸強投手(27)の言葉だ。ほんの1カ月前とは比べものにならないたくましくさ。「クビ」というドン底の経験が1人の男を成長させた。

 10月28日、川岸の心は折れかかっていた。名古屋市内の中日球団事務所に呼ばれ、戦力外通告を受けた。「(現役か、引退か)ちょっと考えます…」。言葉に力はなかった。じつは辞めようと思っていた。「ケガばかりで苦しいことが多かったんで…。それにみじめになりたくないという気持ちもありました」。苦しみから解放されたかった。トライアウトを受けてまで野球を続けるのが格好悪いと思っていた。

 だが、すぐに間違いだと気づいた。交際していた高山香織さん(26=メ~テレアナウンサー)は“無職”となった男のプロポーズを受け入れ、現役続行をうながしてくれた。熱海にいる父は「男は何があってもしがみつけ! 家族を守れ!」と叱ってくれた。チームメートもだれ1人「お疲れさん」と言ってくれる人はいなかった。1週間後に迫ったトライアウトを受ける決心をした。

 それからほぼ毎日、社会人・トヨタ自動車時代にランニングした山道を走った。原点に帰るためだった。そして11月6日、フルキャス宮城で行われたトライアウトでは雄叫びをあげながら投げた。「ウオオオッー!」。スマートな殻を破りがむしゃらになった男に楽天・野村監督が救いの手を差し伸べた。

 「格好悪いか、格好いいかなんて周りの人が決めること。どんなことをしてでもこの世界に生き残ってやります」。174センチ、70キロ。小さな体を、熱い心で支えてきた。それが激動の1カ月間でさらに太く、強くなった。新天地での活躍を祈りたい。

December 20, 2006 01:05 PM 投稿者:鈴木忠平

2006年12月12日

苦悩のルーキー藤井、あせらず冷静に!:益田一弘

 中日のルーキー藤井淳志外野手(25)が、長引く左ひざ打撲に苦しんでいる。秋季キャンプ中の11月14日の守備練習で、打球を追ってボールケースに衝突した。

 当初は「打撲だからそんなにかからないと思う」。そして同19日の紅白戦出場を目指して、急ピッチで調整。痛み止めを飲んで練習を強行した。だが本人が考えていたほどの軽症ではなく、紅白戦出場は見送り。負傷は長期化した。若手中心の合同自主トレを控えた4日には「ひざがちゃんと曲がらない。どうしてこんなに治らないのか、不安なんですよ」としきりに首をひねっていた。

 藤井を見て思い出したのは、サッカーの日本代表FW播戸竜二の姿だった。サッカー担当だった05年6月、J1神戸に所属していた播戸は紅白戦で左太ももを負傷した。三木谷オーナー(現会長)が視察する「御前練習」でハッスルしすぎた。当初の診断は全治3週間で7月中旬には復帰予定だった。本人も「軽い肉離れだし早く治して復帰したい」と明るく話していた。

 だがそこからが長いトンネルだった。7月上旬と8月末に、けがを2度も再発させた。復帰をあせった理由は、最下位に沈みJ2降格の危機に瀕したチームへの責任感。結局、試合に戻ってきたのは実に4カ月後の10月下旬。播戸は長引くリハビリで「おれ、このまま引退かな」と言うほどナーバスになっていた。そしてチームは降格し播戸も年間わずか2得点(今季はG大阪で16得点)。復帰への意欲は完全に裏目に出た。

 藤井は、6日に病院で診察を受けて左ひざ近くに血腫が見つかった。手術の選択肢もあったが、リハビリを選んだ。「年内には動けるようにしたい。来年の1月に間に合わないと本当にまずいですから」。今季、新人で開幕スタメンに名を連ねた藤井は2年目の飛躍を狙っている。だがそのためには復帰への意欲をあせりに変えない冷静な判断も必要になる。

December 12, 2006 01:37 PM 投稿者:益田一弘

2006年12月05日

デニーが弟分・松坂に贈るエール:鈴木忠平

 ポスティング制度によって西武松坂との交渉権をボストン・レッドソックスが約60億円で獲得した。このニュースを見た時、すぐにあるベテラン投手を思い出した。05年、同球団へ移籍したが、メジャー登板できず今季から中日に入団したデニー友利だ。

 「スイ~ト、キャ~ロラ~イン♪…」。デニーがマウンドがブルペンから出てくると、ナゴヤドームにはテンポのいい洋楽が流れる。大阪本社の先輩カメラマンに教えてもらったのだが「スイート・キャロライン」は米国の歌手ニール・ダイヤモンドが1969年に全米でヒットさせたナンバー。レッドソックスの本拠地フェンウェイパークでは毎試合必ず流れるいわば“球団歌”のような曲だという。

 しかし、なぜ日本に戻ってきてまでボストンを思い出すような曲を流すのか? 先輩カメラマンのリクエストもあって本人に聞いてみたことがあった。

 「あれはマイナーでも流れる曲で、うちの家族が大好きなんだよ。でもね…。オレにとってはボストンでの悔しさを忘れないためでもある」。

 レッドソックスが本拠地とするボストンは米国の支配層が住む街だ。白人以外の人種には今だに差別的思考が強い。米国人の父と日本人の母を持つデニーも「差別された」と感じることがあった。マイナーで成績を残したと思っても、メジャーからお呼びはかからない。「×××!」。時には心無い野次も浴びせられたという。

 「差別なんてクソくらえだと思ったよ…」。

 純粋に実力で夢破れたなら「スイート・キャロライン」は登場曲に選ばなかったかもしれない。ただ“差別のにおい”を感じ取ったから悔しさが残った。

 松坂とは西武時代から兄弟分だった。「頑張って欲しいよね」。その言葉には野球だけでなく、ボストンという街とも戦って欲しいというメッセージが込められていたに違いない。

December 5, 2006 01:16 PM 投稿者:鈴木忠平