2006年11月29日
2度目の縁も…中日と小笠原:伊藤馨一
やはり縁がなかったということなのだろうか。日本ハムからFA宣言していた小笠原が巨人に移籍することが決まった。中日は落合監督の要望もあって、当初は獲得の可能性を探っていたが、資金面などの問題から14日に断念を表明。落合監督の現役最後のまな弟子の獲得はかなわなかった。「FAには手を出さない。(小笠原が)外野手ならとりに行っていた」というコメントが記憶に新しい。
中日が小笠原どりを検討したのは、実は2度目だった。1度目は95年。当時の星野監督から捕手を1人獲得して欲しいという要望を受け、スカウト部がリストアップしていたのが当時、NTT関東に在籍していた小笠原だった。だが、諸事情により指名を断念。その年のドラフトでは3位で大阪学院大の藤井優志捕手を指名した。結局、小笠原は翌96年に日本ハムの3位指名を受けて入団した。
「あの時は、NTT関東さんとお話をさせてもらったんですが(小笠原の)残留を決めていたということだったので」。当時の事情を知る中田スカウト部長はこう振り返った。その後も中日は小笠原のマークを続けたものの「バッティングは素晴らしいものがありました。ただ、キャッチャーとしては厳しいかなと…」(中田部長)。これにより、最初の小笠原の中日入りの可能性は消えた。
物事、特に勝負の世界では「たら」や「れば」は禁物であることは分かっているつもりだ。それでも、考えてしまう。「もし、あの時、小笠原をとれていたら」。未来が予測できないからこそ楽しみがあるということもあるが…。ちなみに小笠原指名の可能性が浮上した95年の1位指名は、PL学園・福留。日本を代表する好打者2人がチームメートになる可能性があったこともまた興味深い。
November 29, 2006 02:28 PM 投稿者:伊藤馨一
2006年11月18日
カラオケ室で実感、プロスポーツの大原則:益田一弘
ずんずんと歩く中田スカウト部長の後をついていった。11日の横浜高・福田永将捕手の仮契約が行われた横浜市内の高級ホテル。高校生ドラフト3巡目の金の卵。だがホテル1階ロビーの案内板に会見場所の説明がない。着いた先はホテルの7階に設置されたカラオケルーム。8人部屋で1時間6000円。中田スカウト部長は「テレビ局も来ないようだし、あまり広すぎても寂しいでしょ。ここで交渉と会見をやるよ」。きれいな派手なひな壇を予想していただけに驚いた。
プロ野球は華やかな世界だと思っていた。西武松坂に対するレッドソックスの入札金額が60億円。サッカーで言えば、Jリーグ一の人気と動員力を誇る浦和レッズの年間予算(約58億円)とほぼ同額だ。J1クラブの平均年間予算の30億円の2倍。平均年間予算が約10億円のJ2ならば、6クラブは運営できる。J2は13クラブだから、半分近くが60億円でまかなえる計算だ。
選手の年俸もとび抜けている。中日は今季、実に11選手が年俸1億円以上だった。大相撲の横綱朝青龍でも優勝賞金を含めて年収は2億円程度。ボクシングでは日本の過去最高ファイトマネーは元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎の約1億7000万円。世界王者の相場は3000万円、日本王者にいたっては100万円。防衛戦は年間2~3試合が限度で1億円は高嶺の花。他のプロスポーツに向けて金銭的に恵まれている。
それだけに1時間6000円のカラオケ室とはギャップが激しい。仮契約を終えた福田も、球団旗もない部屋に入った6人の報道陣を見て面食らっていた。「ここでやるとは思いませんでした…」。横浜がよく利用する同ホテルの会見場(25人収容)は利用料5万円。だが中田スカウト部長は「別に問題ないでしょう」と平然としていた。現在の注目度以上の過剰演出は必要ないのかもしれない。グラウンドで活躍すれば金も名誉も手にできる。小さなカラオケ室で、その大原則は他のスポーツと変わらないのだと実感した。(金額は推定)
November 18, 2006 01:07 PM 投稿者:益田一弘
2006年11月10日
日本シリーズ、オレ流強攻策の裏に:鈴木忠平
記者席にも、落合監督の苦悩が伝わってきた。日本シリーズ第3戦、中日はついに1度もバントをしなかった。やれる機会は少なくとも3度はあった。それでもベンチは頑なに強攻。第4戦に敗れて王手をかけられるまでそれは続いた。
1勝4敗。「シーズン中と同じ野球を貫いたヒルマン監督。貫けなかった落合監督」。シリーズ敗退の後は評論家から厳しい指摘を受けた。なぜバントをしなかったのか? 指揮官はこう話す。
「あれはな…。ことごとく(バントを)失敗する確率の高い選手のところに打順がまわったんだよ。それにシーズン中に(バントを)失敗して、何回も(打線の雰囲気が)重くなったことがあった。ああなると、なかなか打線の勢いは戻らないんだ」。
監督としてオレが間違っていたなどとは絶対に口にしないが、バツが悪そうだった。自分のサイン1つで打線が乗るか、落ちるか。強攻策の裏にはシーズンを通して苦悩してきた者にしかわからない感覚があったという。
一生悔いが残る-。落合監督がそう振り返るのが8月20日の巨人戦(東京ドーム)だ。5回無死満塁の場面で打席に向かう投手佐藤充に「振らずに三振してこい」と指示。併殺を防ぐための作戦だったが、1死となって重圧のかかった次打者・荒木は遊ゴロ併殺で無得点に終わった。ベンチの“消極策”が打線を金縛りにした一例だった。
送りバントやスクイズを失敗するたびに、中日打線は停滞した。落合監督はシーズン中、このナイーブな波を操ることに苦心してきた。そして日本シリーズ第2戦。山本昌の投前バントが相手の好守に封じられ、井上のバントは捕邪飛になった。落合監督は2つの失敗を「停滞」の兆候と見た。「シーズン中なら打線が重くなってもまだ取り返しはつく。だけど短期決戦は1度、重くなったらもう取り返せないんだ」。そしてDH制となった第3戦・札幌ドームからバントを控えたのだ。
皮肉にも積極的な強攻策を取った中日打線が停滞し、手堅い送りバントの日本ハム打線が波に乗った。来季開催されるPSG(ポストシーズンゲーム)も短期決戦。落合監督の胸には今季の反省と、打開策が渦巻いているはずだ。
November 10, 2006 02:15 PM 投稿者:鈴木忠平
2006年11月01日
森本&田中賢の日ハムコンビ、実は…:伊藤馨一
複雑な気持ちでグラウンドを見ていた。日本ハムに1勝4敗で敗れ、52年ぶりの日本一を逃した日本シリーズ。1番の森本が出塁して、2番の田中賢がバントで送る。そんな攻撃でチームを波に乗せた2人にやられたシリーズでもあった。それだけならこんな気持ちにはならなかっただろう。こんな気持ちになったのには理由があった。実はこの2人、中日とはちょっとした「縁」があったのだ。
あれは2年前。04年のオフだった。当時、落合中日は野口をトレード要員として公表。目玉としてトレードを画策していた。99年のMVPなど抜群の実績を誇る左腕は当時30歳。年齢的な衰えはなく、先発左腕を求めるパ・リーグ球団からはこぞって申し込みがあったという。その中には日本ハムも含まれていた。その交換要員候補の中に森本、田中賢の名前も入っていたことを覚えている。
当時、2人は期待の若手選手ではあったが、1軍と2軍を行ったり来たりする「エレベーター選手」。それだけに、出血覚悟の日本ハム側としても絶対に出せない選手ではなかった。交渉はまとまらず、話は流れた。球団関係者は、ため息交じりにこう話す。「今となっては、もう無理だね。あの2人は、欲しかったなあ…」。現状の若手野手の伸び悩みを見れば、そんな言葉も当然だった。
あれから2年。森本は新庄の後継者として全国区の人気者となり、田中賢は今年、規定打席に到達して3割をマークした。イキのいい若手の存在がチームを活性化していた。放出した選手に活躍され、獲得した選手が活躍できないなどトレードには「明」と「暗」がくっきりと出る場合が多いが…。ちなみに田中賢は99年のドラフトでも競合の末にクジを外していた。逃した魚は大きかった。
November 1, 2006 01:12 PM 投稿者:伊藤馨一
