浅岡真一 独断流

2007年01月16日

少しは手向けの勲章が…

故梶本氏の殿堂入り

 享子夫人が通知書を受け取った瞬間、ふとあの棺の中の安らかな顔を思い出した。昨年9月23日に呼吸不全で逝去、25日に最後のお別れをした。来年こそ、と心の中で語りかけながら…。

 12日、野球博物館(東京ドーム内)で今年の野球殿堂入り選出者が発表されました。競技者表彰で阪急ひと筋、実働20年で254勝を挙げた故梶本隆夫氏が、特別表彰でアマ野球の永年の指導を続けられてきた松永怜一氏が選ばれ、記者発表が行われました。

 私は志願して上京出張、式に出席させていただきました。故梶本氏の享子夫人も御礼の挨拶をされ、その記事は13日付で掲載されましたが、まだまだ書き足りないことがあり、あえて今回のテーマにさせていただきます。

 まず競技者委員会のメンバーは野球記者15年以上を経験した313人で構成されています。候補者の詳しいことは省きますが、10人連記で有効投票数の75%を占めれば選出されるシステムになっています。

 私はかねてから“灰色のブレーブス”と揶揄(やゆ)される中、米田哲也氏(既に殿堂入り)とともにチームを支えた左腕エースが選出されないのはおかしいと主張してきました。同業者の批判にもなるようですが、挨拶で根来コミッショナーが「遅すぎた」と異例の表現をされたのは胸がすく思いでした。

 故人には“正と負の勲章”があります。正は日本初の9連続奪三振(57年7月23日の南海戦)、負は200勝以上投手でただ1敗ですが、負け越し投手。もう一つは66年のシーズン、15連敗を喫したことです。負と記しましたがある意味で正より誇りある勲章です。それだけチームが必要としていたからです。

 15連敗の年、享子夫人から逸話を聞きました。連敗が始まってから、服装を替え、愛車を駆る球場への経路をいろいろ変更してみたとか。「最後の頃は着る服も尽き、通る道も無くなってしまったんですよ」と40年前のことを懐かしそうに話されました。
 そんな梶本氏がことのほか可愛がっていたのが長女の息子さん田村将人君(小学生6年生)だったそうです。3歳ごろからキャッチボールの相手をし、今も野球に熱中しているとか。内定を聞いた9日、その将人君から「じいじいへ」と祝福のFAXが入り、享子夫人は涙したようです。

 その愛孫とは縁が深かったのでしょう。逝去の前日夕、見舞いに訪れ夫人が「ご飯でも食べに行きましょうか」と言うと故人は「オレも一緒に行く」と返したのです。さすがにそれは無理。2人で食事に行き、夫人は寝泊まりしていた病院に帰ってきました。

 異変に気付いたのは翌朝。故人が呼吸していないのに気付き看護師に知らせたのですが時、既に遅かった。ただ、手を握ると温かく「あの温もりは一生、忘れません」と。その温かさを五体に秘め、通知書を共有された。先輩、後輩の球界関係者への感謝を何度も繰り返し「本人もこの名誉を何よりも大喜びしているでしょう」と天国の亡き夫の心情を代弁、挨拶をしめくくられた。

January 16, 2007 12:36 PM

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