2006年02月24日
機先を制するのは鉄則
阪神のツバメ叩き
12球団のキャンプもほぼ終了、オープン戦の時節に入ってきました。いわば“第二の球春”を迎えたわけで、野球ファンの方は、また一段と気持ちが盛り上がってきたと想像しています。
その序章となる練習試合が沖縄で何試合か行われました。その中で私がなるほど……と思ったのは18日に行われた阪神対ヤクルト戦でした。古田体制になって初めての対決。結果は8-4で阪神が逆転勝ちを収めました。1番鳥谷、2番赤星のニュー打線がいきなり先制パンチを浴びせて、岡田監督も手ごたえを感じたようでした。
ただ、私がなるほどと得心したのは試合前の阪神の戦う姿勢のことです。本紙の紙面によれば、朝のコーチ会議で平田ヘッドが「今年も強い阪神を印象付けること」をテーマに掲げ、正田打撃コーチも「監督は代わったけど、ウチが考えるのは開幕の相手であるということ。最初にインパクトを与えないといけないんですよ」と付け加えたということです。
もちろん、指揮官もそういう指示を出したのでしょう。一度は逆転を許した3回の浅井のリードにカミナリを落としました。ポスト矢野へ期待するからこその怒りであり、それまでテンポ良く投げていた先発杉山へのフォローでもあったのでしょうが、何より古田ヤクルトをガツンと言わせたかったから、完封も可能だったのに……の思いが強かったのではないかと、想像しています。
開幕相手へのすさまじい執念。ふと思い出したのはかなり昔、26年前のことです。80年、私は猛牛番で、オープン戦初戦は南海相手でした。当時、近鉄は高知県のほば最西端・宿毛で、南海は中村市よりやや東の大方でキャンプを張っていました。現在もそうですが、キャンプ打ち上げ前のオープン戦は近隣のチームと行うのが慣例で、数年間は同じカードでした。
さて、その80年の初戦。近鉄は南海に大勝。私はゲーム直後、梨田捕手(元近鉄監督、現日刊スポーツ評論家)に取材し「バチっと行ったろうと思っていたやろう?」と尋ねると、即座に「当然ですよ」と答えが返ってきました。
我が意を得たり。「開幕3連勝はもらった」という書き出しで原稿を書きました。当時、近鉄は南海が低迷していたこともあり、カモにしていました。前々年度は17勝5敗4分け、リーグ初制覇した前年度は19勝4敗3分で、今年も、の思いは近鉄勢に溢れていました。
梨田氏は今も26歳だったこの一戦を覚えていて「まず最初にコテンパンにやっつけてやろうと思っていた。みんなそうでしたし、西本監督(当時)からもそれらしきことは言われていた」と述懐しています。だから「阪神の姿勢は当然と言えば当然だし、素晴らしいと思う」と語っています。
ところで、最後にオチを……。4月に迎えた開幕戦。何と近鉄は1勝2敗と負け越してしまいました。私は“誤報”を書いてしまったのです。救いは、その後持ち直し、連覇を果たしてくれたことですが……。
February 24, 2006 02:20 PM | コメント (2) | トラックバック (4)
2006年02月17日
協会幹部はなぜ快挙を称えないのか
早大のトヨタ撃破
久しぶりに友人に会ったら「おめでとう!」と言われました。一瞬、何のことかと思ったら、12日のラグビー日本選手権で早大がトヨタに勝ったことでした。この友人は徳原永宅氏といい、3年前は同大のヘッドコーチを務め、現在は指導委員長の立場にある人物です。
残念ながら同大は日本選手権に出場出来なかったが彼は「いいゲームだったよ。ワセダは本当によく頑張ったね」とライバル校の金星に指導者としてエールを送り、私はラグビーをやっていなかったが、母校であるため、祝福を送ってくれたのでした。
私自身は阪神の宜野座キャンプを取材中、生でテレビは見れなかったのですが、夜のテレビのダイジェストや、翌日の新聞を見てトヨタのサインを解読するなど、あらゆる準備をして試合に臨んだようです。
一方で自身のチームの戦術はこれまでの戦いぶりを基本にしながら、工夫を凝らし、フォワード戦で優位に立ち、タックルも効果的でした。大学選手権では1度しか試みなかったペナルティーゴールを前半3本決め、主導権を奪ったあたりも、対トヨタ用の戦術と受け取りました。
社会人の上位チームに大学が勝ったのは18年ぶりのことです。もちろん03年度からトップリーグが創設されてからは初めてで、マスコミをはじめ、ラグビーファンのほとんどが賛辞を送りました。
ところが、残念というか、納得いかなかったのは、ラグビー協会の一部の関係者の反応でした。本紙にも掲載されましたが(当日は休刊日発行のみ)、稲垣純一トップリーグ・パネル議長は「日本最高峰リーグのチームが学生に負けるのはおかしいし、負けてほしくなかった」と試合後、語っていました。
たとえ、議長であってもこの発言はいかがなものか。ラグビー選手は基本的に年数、経験が技量の上達に不可欠ですが、世界に飛躍していくには、底辺の拡大が欠かせないし、若い学生が年長の社会人を破ることは歓迎すべきことではないでしょうか。他の学生や高校生以下にも励みになるはずです。
全く私事で恐縮ですが、亡父は戦前、大阪の天王寺中学(現天王寺高校)でラグビーをやっていました。43年、亡父が5年の時、全国大会で初優勝したのは、自慢でした。後輩には岡仁詩・同大元監督や青井達也・慶大ラグビー部OB会長らがいて、かつては名門だったようです。
そんな家庭に育ちながら私自身は恐怖心に勝てず、ダ円球には無縁でしたが、見る側としては大ファンであの「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」(一人はみんなの、みんなは一人のために)の精神にはずっと共鳴してきました。
だから、専門外のことを取り上げたのですが、協会関係者にはもっと広い視野で見てもらいたいと切に思っています。ただ、救いは本紙に掲載された元日本代表監督の言葉です。彼とは同期で学部も同じ。当時は学内で英雄で、私のような劣等生とは月とスッポン。現在は三井住友銀行の要職にもつかれている方だけに重みがあります。
「他校も目線を上にして欲しい。もちろん社会人にも刺激になったはず。何よりこの勝利が、ラグビー界の層の広がりに結びついてほしい」。
(次回は2月24日に更新予定)
February 17, 2006 11:48 AM | コメント (5) | トラックバック (1)
2006年02月10日
やっと清原の本質が出た
宮古島での明るさ
常に笑顔を絶やさない練習態度に、これが、この男の本来の持ち味なんだなあ……。と感じました。今年オリックスに新加入した清原和博選手(38)のことです。
1日から4日間、同チームの宮古島キャンプへ取材に行ってきました。清原、中村が加わり、話題性が急速にアップしたので、報道陣の数は例年の5倍近く、特に清原への注目度は私の予想を超えるほどでした。
そんなフィーバーの中で、清原の明るさは際立っていました。技術的な課題としては「ボールをしっかり見て、(バットの)芯で捕らえ、強い打球を飛ばすこと」と初日に語っていましたが、その一方で、彼は2つのことを心掛けている、いや自然に出ていると感じました。
(1)チームのPR役としてマスコミへ対応する。
(2)チームの仲間に溶け込んでオリックスの一員に成り切る。
「毎朝、仰木さんの遺影を見て球場へ向かうんですが、その写真を見ると、仰木さんがやってこられたことを引き継いでいかなければ……と思うんですよ」。
あるインタビューで、彼はこう語っていました。やってこられたこととは、アピールを指しています。いろんな話題を提供して、チームをマスコミに取り上げてもらおうとした“故広報部長”。熱心に勧誘されたことへ報おうという思いなんでしょう。
若手、中堅にも積極的に声をかけてもいました。あれだけの実績を誇る選手、若手の方から話し掛けるのはこの世界では難しいものです。そのあたりを配慮できる点でも、彼は一流プレーヤーです。
気配りと言えば、中村監督に「ノリを4番で使ってやって欲しい」と進言したことも、その一つです。中村を立てながら、指揮官に自分のことにあまり気遣いしないようにという気持ちが伝わってきます。
“番長”とか、恐持てだと受け取れていた部分もありますが、長く彼に接してきた本紙の記者は「本当はシャイで、やさしい男なんです」と。本紙評論家の梨田昌孝氏も「もともと純粋な選手なんだよ」と評していました。
純粋--と言えば、思い出すのが、87年の日本シリーズ。3勝2敗で迎えた第6戦。ほぼ日本一が決まりかけた9回の守り。2死を取ったところで、清原は号泣し始めました。二塁の辻が声をかけても、溢れ出る涙を止めることは出来ませんでした。
当時は「打倒巨人」が彼のテーマでしたから、いろんな思いが込み上げてきたのでしょう。覚えてられるファンもおられるでしょうし、当時、阪神担当だった私もテレビで見て、目元が熱くなりました。
二十歳の涙--。人間の本性なんて、そう変わるものではないでしょう。生まれ育った地に帰ってきて、恐らく最後のチームとも思っているはず。本来の“人間・清原”が、より輝きを放つ最高の環境に身を置いたな、感じました。
February 10, 2006 11:14 AM | コメント (1) | トラックバック (5)
2006年02月03日
思えば野球界も変ぼうしたものだ
松中の7年契約
球春到来。古い言葉ですが、いよいよ12球団のキャンプが始まりました。いろんなニュースが飛び込んできています。そんな話題は次回以降にさせていただくとして、その直前、私がビッグニュースと感じたのはソフトバンク・松中信彦選手の長期契約です(1月27日)。
09年までは基本年俸5億円プラス出来高。残り3年については再度見直され、最大50%減のマイナス出来高がある。10年以降で故障や契約に見合う活躍ができないと判断された場合、規約を解除できる選択権が球団側にある-というのが日刊スポーツの紙面の骨子です。
07年にFA権を獲得する松中に対して、ホークスが先手を打ったとの見方が穏当で、さらに将来の“指導者手形”を渡したことも角田代表は認めていました。私は選手の給料に新聞記者が口をはさむべきでないと考えていますが、それにしてもソフトバンクは随分、思い切った契約をしたものです。過去、巨人が高麗大の趙成民と8年契約を結んだことがありますが(結局7年で退団)、日本人選手では最長です。
私が記者として駆けずり回っていた頃は、複数年契約などありませんでした。あの長嶋、王でさえ…。時代の流れを感じさせらました。一体、いつ頃から、始まったのか、古い資料を調べてみました。
あれは93年のオフ。巨人・槙原がFA宣言しました。球団は慰留に躍起。当時の長嶋監督も必死で17本のバラとカスミソウを持って槙原投手宅を訪れたのを覚えている方もおられるでしょう。結局この熱意に動かされ、3年4億円(年俸1億2千、功労金4千万)で契約したのです。
それまでは、実行委員会の「申し合わせ事項」として複数年契約はしないことになっていたのですが、選手会の要望、FA制の導入に供い球団側にもメリットがある判断されました。さらに米大では常識にさえなっている波が押し寄せたこともあるでしょう。
野球協約では決して認められていないのですが、逆にノーという条文もありません。要するに曖昧にしているので、覚え書きを交わすのが、一般的だと聞きました。
ただ、選手によってはデメリットになる場合もあります。例えば、阪神の金本選手。02年オフにFA宣言し、阪神入りしましたが、その時点で4年12億円の複数年契約を交わしたのです。だから、今年度の年俸は現状維持の2億9千万円で更改せざるを得なかったのです。
昨季、打点王に輝いた今岡が3億3千万円を勝ち取ったのに、リーグ優勝に甲乙つけ難い大きな貢献をし、MVPに選ばれた金本選手が3億手前というのは、単年契約では、恐らくありえなかったでしょう。阪神が金を惜しんだとは思っていませんが、先に書いた「球団側のメリット」の典型的な例でしょう。
私は本来あるべき制度は単年契約だと考えますが、各球団にはそれぞれ事情があって止むを得ないかもしれません。ただ、選手の年俸の右肩上がり、いずれ、検討しなければならない時期がくると思っています。
※金額はすべて推定。
February 3, 2006 11:43 AM | コメント (3) | トラックバック (4)
