2005年09月13日
厳しく、やさしい大正生まれの母親がまた一人…
故梨田栄子さんを悼む
その死に顔は安らかで、やるべきことはやりました……と語っているように感じました。献花をし、頬を撫でながら、涙が溢れて仕方がありませんでした。「ありがとうございました。本当にお世話になりました」と何度もつぶやいていました。
さる7日の夜、近鉄最後の監督、現日刊スポーツ評論家の梨田昌孝氏の実母・栄子さんが死去されました。享年84歳。2日ほど前から病状が悪化し、遂に帰らぬ人となられたのですが、私は天寿を全うされたと思っています。
栄子さんの夫・豊さんは1967年10月8日に旅立たれました。昌孝氏が中学2年生の時でした。兄と姉と3人兄弟、栄子さんは一家の大黒柱として、パートに働きに出るなどして、3人の子供さんを立派に育て上げ、息を引き取られ時は8人の孫と1人のひ孫がいらっしゃいました。昌孝氏は母の背中姿を見て、新聞配達のアルバイトをしたこともあったそうです。
その後、昌孝氏は浜田高校に進学、3年では春夏の甲子園大会に出場、秋のドラフト会議で近鉄に2位指名されました。当時の強肩ぶりはすさまじかったと聞いていますし、ある大学からは破格の条件で誘いがあったそうです。しかし昌孝氏は「母を少しでも早く楽にさせたかった」とプロ入りを決意しました。
その契約交渉時のいかにも栄子さんらしいエピソードを二つ挙げてみたいと思います。まず契約条件については「ウチの子をお預けするのするのですから……」とスカウトの提示に一切口を挟みませんでした。また、取材に駆けつけた記者に「遠くからお越しいただいたのですから、ウチに泊まっていってください」と配慮の言葉をかけたとのことです。
ただ、やさしい側面ばかりではありませんでした。幼少の頃、昌孝氏のイタズラが過ぎた時、物置小屋に何度も閉じ込められたと述懐しています。それと「自分がされてイヤと思うことは絶対、人にするな」と事あるごとに教育していました。この母の教えは「ずっと守ろうと心掛けてきた」と昌孝氏は語ります。
その後、近鉄の寮を彼が出るとすぐに大阪へやってきて一緒に生活を始めました。食事、洗濯などの身の周りの世話をし、野球に専念させたい、との親心だったのでしょう。癒着と受け取られるかもしれませんが私はマンションによく訪れ食事をご馳走になったり、お酒もいただきました。そして「昌孝が間違った方向へ行きそうになったら、遠慮なく注意してくださいね」との言葉も受けました。私ごときが注意するような人格ではないのですが、あえて言われたのでしょう。 遺影は01年の祝賀会の着物姿でしたが、この時も会場の片隅にひっそりとイスに座り、祝福に訪れる方々に頭を下げ「皆様方のお陰です」と頭を下げてられていました。
数多くの苦労をされたはずですが、そんなグチは一度も聞いたことがありません。大正生まれの気骨、やさしさ、感謝の気持ちを持ち合わせた母。世の中には不遇の身の方もかなりおられると思いますが、梨田栄子さんの生き方が少しでも励みになれば……と鎮魂歌を書かせてもらいました。
September 13, 2005 01:11 PM
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