2008年02月22日

ノート

センバツ出場校訪問記・沖縄尚学 その2

 比嘉監督はコーチ、副部長を経て06年6月に監督に就任しました。

 愛知学院大を卒業して、わずか3年目のこと。99年センバツ優勝左腕への期待とは裏腹にプレッシャーを感じていた。恩師・金城孝夫元監督(現・長崎日大高監督)、角田篤敏前監督(現・作陽高監督)というベテラン監督の後。2人ともコンスタントに甲子園出場を果たしている実績がある。

「監督が自分に代わって“出られなかったら、どうしよう”というのがあったんです」。

 間もなく、監督の胸中を知らずに不祥事が起こる。06年9月、部内暴力により対外試合禁止処分に科せられた。センバツを狙っていたが秋季県大会へも出場できなくなった。

「試合に出られない時点で負けることよりも強烈でした。勝ち負け以前に基本的な部分が足りなかったんだと」。

 この一件が監督の掲げる“思いやりのあるチーム”作りの原点になった。今日も練習前も、道具を出しっぱなしにしていたことを注意。「道具、帽子、シャツ、スパイク。親に買ってもらったものだ。ぐちゃぐちゃにしたままとか、感謝の気持ちがない証拠だよ。1つの物をきれいに置く、そこまで気を配ってやることで感謝が形になるんだろ」。寮でも上級生全員がゴミ分別係、ネット修繕係など何らかの役職につき責任感を持たせるようにしている。

 「グラウンドでは威圧感があって厳しい。褒められることは少ない」と話す選手。しかし、比嘉監督は「甲子園を決めて選手には本当に感謝しているんです」と何度も繰り返している。
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 就任と同時に指導体制も総入れ替えした。宮古島出身の伊志嶺大吾副部長は大卒1年目で3兄弟全員が甲子園経験者、石原昌彦コーチもOBだが、普段は会社員だ。平日は仕事を終えてからグラウンドに直行している。その話に触れると、神妙だった顔つきが一変する。「石原コーチとは誕生日が6月29日で同じなんですよ。副部長の伊志嶺は教育実習のときに連絡先を聞いたら、携帯番号の下3ケタが一緒。僕も伊志嶺も番号変えられないですよ(笑)。2人とも運命を感じました」。

 自身も監督になれたのは運命だと話す。卒業後1年間は県内の大学で地歴の教員免許修得に励んでいた。「そのときにたまたま大城(英健)部長から声がかかっただけなんです」。その幸運をも引き寄せる比嘉監督。実力と行動力が備わっていたからこそ得られたものだ。ライバルである興南高の我喜屋優監督、浦添商高・神谷嘉宗監督は「公也は沖縄の宝だ」と温かく見守っている。

 比嘉監督は優勝当時中学生だった私にとって大ヒーローだ。さまざまな人物像を思い描いて、この日を楽しみにしていた。取材前日は卒業式で準備から慣行まで大忙しだった。カレンダーにはたくさんの取材予定日が書き込まれてある。きっと同じことを何度も何度も聞かれているに違いない。それにも関わらず、1つも嫌な顔せず丁寧にいろいろなことを教えていただいた。監督に抜擢された理由、ベテラン監督たちが“公也、公也”とかわいがる理由がわかったような気がする。
(つづく)

February 22, 2008 12:42 AM


コメント

沖縄まで行ってるんですね(凄)

道具類を大事に!!!
基本ですね
中学校で野球部の面倒を見てるんですが今の子供はみんな良い道具持ってますわーー
大事に使ってる子もいれば毎回ベンチに置いてく子も(苦笑)
困ったもんです
親がどれほどの苦労しているか・・・・親になるまで真からはわからんのでしょうね
うちの長男も・・・・・とほほ

投稿者 BB : 2008年02月26日 19:54

初めてコメントします。矢島さんと同じ昭和59年世代です。毎回楽しみに拝見させていただいております。

99年の沖縄尚学は懐かしいですね。初戦の比叡山戦も好ゲームでしたが、最も印象に残っているのは準決勝でPL相手に見せた粘り強い試合運びです。

当時は比嘉寿光主将の方がむしろ教員志望だった気がしますが、いつの間にか比嘉公也監督に・・・比嘉監督、一直線な感じが好印象です。沖縄尚学伝統の厳格なベンチ前円陣がさらにピシッとしそうですね。

投稿者 かなけい : 2008年02月27日 03:08

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