2007年11月19日
努力で壁乗り越えた、東洋大・大場翔太
「はい。プロでやってみたいです」。日本一をつかみ取った直後、東洋大・大場翔太投手(4年=八千代松陰)はトレードマークの笑顔で宣言した。こう言い切れるまでには想像以上の努力を積み、壁を乗り越えてきた。
チームのエースなら誰もが経験する挫折。大場の苦悩も下級生時代から注目されてきたがゆえに並大抵のものではなかった。何をどうしていいのかわからなかった時期がある。大学2年春に2試合連続で完封勝利し5勝。150キロに迫るストレートに2年後はドラフト上位候補だと持てはやされた。これが試練の始まりでもあった。
「まだまだっていう自分と自信を持っている自分がいて、それが葛藤していました。状態が良いときはまだまだって思うし、逆に悪いときは落ち込むんじゃなくてそれを見せたらダメなんだって。オレはすごいんだと言い聞かせていた。そうしないと自分を見失っちゃいそうで。悪いときに悪いことを自分で認めちゃったら、どん底まで落ちる気がしてたんです(苦笑)」。
どん底はすぐに来た。2年秋以降、勝利目前で同点タイムリー、逆転サヨナラ本塁打などの悲劇を繰り返した。打たれてマウンドに座り込んでしまったこともある。3年秋は安定感の無さからエースの座を降ろされた。しかし、ボールのスピードはコンスタントに速くなっている。結果が伴わないこの悪循環は何なのだろう…。「うまく投げようとしてるんじゃないのか」と自分を疑い、向き合うために性格の本を買った。1冊だけではない。気づくと積み上げられるくらいに増えていた。
「でも、自分らしく飾らずにこのスタイルのままに投げればいいんだと思った。だから3年秋のインターコンチ(インターコンチネンタル杯)でも思うように投げられたんだと思う。それもちょっと自信になって、いろいろなことを経験した分が“ピッチングの引き出し”(4月12日のブログを参照)になったんだなあと気づきました」。
そのヒントをくれたのも本ではない。応援に来てくれる友人たちの『何、小さくなってんだよ。おまえらしくないよ』という率直な感想だったという。今秋は“引き出し”を完全に使いこなせるようになった。特に優勝決定戦となった駒大戦では自分の持ち味を別の形で生かした。130キロ台後半の遅いストレートでわざと球が走っていないと思わせた。スピードボールを待っていた相手の裏をかく見事な投球術。かと思えば先ほどの明治神宮大会の決勝戦、6回1死二塁の場面では7球連続でストレート。最も速いボールでも145キロ止まりだったが「速さはそれくらいでも指のかかりからして大丈夫」と、2者連続の三振に抑えた。前日の試合で「最初から飛ばしていたけど真っ直ぐとスライダーで十分だった」と決勝戦へわずかながら余力を残していたのも事実。「大学選手権は1勝しかできなかった。秋こそ大舞台で結果を残したかった」というこだわりもあり、最初から3連投を見込んで投げていたのだった。
野球人生で初めての日本一。東洋大は第1志望の大学ではなかった。「やっていけるか不安だった」とは入学当時のこと。それが今、プロへ挑戦する151キロ右腕にまで成長した。
「もっと思い通りに投げられたら楽しいと思う。伸ばしていけるところはまだまだある」。
どのユニホームを着ても、これからも自分らしさを見失わずに理想を追ってほしい。
◆大場翔太(おおば・しょうた)1985年(昭60)6月27日生まれ。東京都足立区出身。小学3年のときに西保コンドルで野球を始める。足立十四中では軟式野球部。八千代松陰では3年春の県優勝が最高。東洋大では通算33勝で410奪三振はリーグ新記録。春のリーグ戦から大学選手権、日米大学野球、北京五輪プレ大会に召集されるなどフル稼働のラストイヤーになった。明治神宮大会では3連投(2完封)で有終の美を飾る。182センチ、79キロ。右投げ右打ち。
November 19, 2007 06:39 AM | コメント (6)
2007年11月14日
151キロ!早大の救世主・大石達也
<神宮大会:早大3-2八戸大>◇3日目◇13日◇大学の部準決勝◇神宮
秋の救世主・大石達也(1年=福岡大大濠)。春秋リーグ戦、大学選手権と4冠を狙う早大を2年連続の決勝へ導いた。
寒空の中、びっしりと埋ったネット裏からどよめきがあがった。スコアボードには151キロ。大台表示を背に大石は悠々とベンチへ走っていった。当の本人は「ちょうど後ろを向いたら数字が見えて“あ…出た”と思いました」と他人事のように振り返った。周囲の興奮とは逆にひょうひょうとしているこのギャップも大石らしい。
これまでの最速は149キロ。しかし、この日の大石は150キロに向かってカウントダウンしているような投球だった。6回からマウンドに登り、初球147キロをマークするとその後も140キロ台後半を連発。「ブルペンのときから真っ直ぐの調子や指のかかりが良かったんです」。2イニング目に入っても球威は落ちない。6番・道広伸一(3年=関西創価)の打席で最速タイを計測すると、151キロで空振り三振を奪った。「本当に出ているのか?」と電話で確認し合うスカウトの姿も。「どうやら本当に出ているらしい…。すごいね。これで低めに決まってくればいいよね」と1年生の成長に期待した。
斎藤佑樹(1年=早実)フィーバーの影で大石の株は徐々に上がっていた。春の新人戦の立大戦で中継ぎとして神宮デビュー。しなやかなフォームから146キロを2球計測し、大石自身もしっかりアピールしていた。高校時代からプロも注目していた評判の右腕。一方で大舞台とは全く縁がなく、2年秋の九州大会は試合直前に右肩痛。最後の夏はサヨナラ暴投で初戦敗退だった。早大入学後は打力を生かして遊撃手に専念していた。だが、投手へのこだわりを捨てきれず仲間から「ショートせえ」と冷やかされながら投手メニューをこなしていたという。
「でも、この秋が終わってからはそういうことを言われる回数も減りました(笑)。応武監督からも“おまえはストレートを思いきり投げることに集中しろ”と言われています」。
秋のリーグ戦、東大2回戦で先発して初勝利を挙げ、リリーフを中心に抜群の安定感を披露。終わってみるとチーム最多の9試合に登板していた。規定投球回数には届かなかったが防御率0・75を残した。斎藤佑や松下建太(2年=明徳義塾)の活躍が目立っていた春。しかし、この秋は大石の好投無しではリーグ優勝はなかった。今回も1点のリードを守りきり、4回を1安打7奪三振に抑え込んだ。ピンチになっても白い歯を見せてニコニコしている姿が印象的。「焦りやプレッシャーとかないんです。笑ってしまうのはクセみたいですね」。
チーム初の明治神宮大会制覇へ、151キロ右腕が王手をかけた。
◆大石達也(おおいし・たつや)1988年(昭63)10月10日生まれ、福岡県出身。小学2年で野球を始め、中学ではボーイーズリーグ「大野城ホークス」に所属。3年時には投手と外野手を兼任。福岡大大濠入学後、2年秋から本格的に投手に専念する。直後も秋季大会でノーヒットノーランを達成し注目を浴びるようになった。早大では1年春の大学選手権からベンチ入り。今秋は9試合に登板、24イニングを投げて2勝1敗、防御率0・75。182センチ、76キロ。右投げ左打ち。
November 14, 2007 10:01 AM | コメント (9)
2007年11月12日
「1番投手」の明豊・今宮が大活躍
<神宮大会:明豊14-6下関商>◇初日◇11日◇高校の部1回戦◇神宮
第38回明治神宮野球大会が開幕した。高校の部では初出場の明豊(大分)が登場。エース・今宮健太(1年)が4安打を放ち投打に存在感を残した。
試合開始のサイレンが鳴り止まぬうちに中前安打を放った。「初回の初球を絶対狙う」という今宮にとって、してやったりの一打。これをきっかけに明豊は3点を先制、チームの流れを作った。すぐさま今度はマウンドへ走った。171センチの小さな体で小気味良いピッチングを披露。今宮はエースで1番という2つの顔を持っていた。
「新チームになったときにピッチャーをやる上で打順はどこがいいか聞かれた。自分から1番を志願しました」。明豊中時代はエースとして全国大会に出場した実績を持つ。しかし、高校へは遊撃手として入学した。打撃のほうが自信があるからだ。1番については「打席が多いほうがいいから好き」とか「自分が最初に打ちたいから後攻より先攻がいい」など、物事をはっきりと答える姿が印象的だ。夏の間、大悟法久志監督(59)からピッチャーへの転向を言い渡された。九州大会では3試合に先発し、自己最速の138キロも計測。沖縄尚学(沖縄)との決勝戦は2-1で競り勝った。
この試合で今宮は沖縄尚学のエース・東浜巨(なお=2年)が投げていたツーシームに注目。「東浜さんみたいにボールを軽く落としてみたい」と、見様見まねで覚えた。このツーシームを下関商打線に試したところ効果的だった。スライダー、カーブと持ち球を織り交ぜ要所を締めた。
「ピッチャーをやるようになってから大悟法先生を胴上げしたいと強く思うようになった。バッティングも好きだけど残りの2年間も『1番ピッチャー』でやっていきたい」。
大きな夢に向かって、今宮はまた1歩前進した。
◆今宮健太(いまみや・けんた)1991年(平3)7月15日生まれ。大分県別府市出身。野球を始めたのは大平山小入学前から。明豊中時代にエースで全国大会出場し初戦敗退。明豊へは遊撃手として入学した。50メートル走は6・3秒。球種はストレート、スライダー、カーブ、チェンジアップ、シンカー、ツーシーム。171センチ、64キロ。右投げ右打ち。
☆…「1番・投手」というオーダーについて、来春センバツ出場候補の中では興譲館(岡山)のエース、酒井佑輔(2年)が中国大会で打率5割3分3厘を残しています。また阪神浜中も南部高(和歌山)時代、「1番投手」として活躍したそうです。
November 12, 2007 06:38 AM | コメント (0)
