記者コラム「見た 聞いた 思った」

村上久美子

2006年12月22日

柱1本で変わる組織

 阪神の金本知憲。来年開幕早々には39歳になる。まだ契約更改を終えていないが、来季年俸は5億円以上が確実とされている。日本球界最高年俸(外国人選手除く)は、横浜佐々木の6億5000万円。5億円以上でさえ過去6人しかおらず、金本も頂点に迫る勢いだ。

 高いか、安いか、妥当か-。記者は、長年の阪神ファンのひがみ根性を払しょくした男への謝礼の意味も込めて、妥当と思う。

 02年オフ、広島からFA移籍。2億4000万~2億9000万円の4年契約だった。年俸ほぼ据え置きの中、MVP(05年)打点王(04年)を獲得。2度の優勝に導いた。連続フルイニング出場1024試合の世界記録を更新している。

 数字だけではない。記者(38)が、35歳までに見た阪神Vは1回だけ。その間、最下位は…数えたくもない。いつも首の皮1枚、とか、踏ん張り時、とか、猛虎魂なんて絵空事のように、瀬戸際に弱かった。ダメ虎を金本が変えた。

 楽天野村監督は「自分で決めて、自分を殺せる理想の4番」と評したが、記者は、フルカウント率の高さに感心した。初球から振るタイプで追い込まれるのも早いが、そこからが真骨頂。ボール球を見極め、ファウルで粘り、高確率でカウント2-3まで持っていく。1打席、1打席の粘りの積み重ねが、起死回生の逆転弾、ケガを乗り越える強さにつながると思う。

 今季序盤、若手投手も台頭し、首位を快走していた巨人の原監督は「投手、打線の軸、バランスもとれた。ただ1つ、残念なのはジャイアンツに金本がいないことだ」とコメントしたことがあった。案の定、長丁場のペナント、歯車1つ狂うと失速。2年連続Bクラスに終わった。

 「阪神ファンで悪いかっ」と開き直らざるを得なかった苦汁の時代から、胸を張って「阪神ファンです」と言える今。金本の年俸には、阪神ファンの謝礼額も含まれていいと思う。

 組織を変えた大黒柱に感謝しつつ、同じようなことを、今年7月、吉本新喜劇のロス公演で見たことを思い出した。今田耕司、東野幸治、レイザーラモンHGら、タレントの比重が高い面々に、ベテラン池乃めだからを加えたメンバー。収拾のつかない構成を締めたのは、内場勝則だった。

 派手な立ち回りや目立つセリフ回しはないが、ストーリーの流れに乗った笑いのツボは外さない。役者魂を持った座長が、内場という男。ダウンタウンらと同じNSC1期生だったが、卒業2年後に新喜劇入り。横山エンタツの二男で、名物座長だった花紀京に師事した。岡八郎、間寛平らキャラクター路線とは一線を画し、あくまでも芝居の進行で笑わせたのが花紀で、ロスの内場には、その花紀が一瞬、重なって見えた。

 新喜劇のけいこといえば、短期集中型。当日の朝にけいこして本番というケースもある。その分、緊張感は相当なものがあるが、ロス公演前日のけいこも、息苦しい緊迫感があった。その空気の主は、やっぱり内場で、出番を待つHGが所在なげに、いすに座ることさえ遠慮して、けいこ場のすみにひざを抱えて座っていたのが印象的だった。

 見る者の背筋さえ伸ばす緊迫感。柱1本が組織を変える。逆に、腐ったみかん1つで、すべて腐ることもある。そんな原点を胸に抱きつつ、06年を締め、新しい07年を迎えたい。

December 22, 2006 12:18 PM

2006年12月12日

「無駄な経験はない」

 運命の皮肉-。横浜とソフトバンクのトレードを聞き、まず切なさが心をよぎった。多村と寺原のトレード。WBCの5番打者と、若さが武器とはいえ実績では物足りない投手の不釣り合いさから…ではない。神奈川に生まれ横浜高校から地元球団に入った多村が福岡へ、宮崎・日南学園から甲子園に出場した九州の星が横浜へ…。本人はもちろん、地元ファンは寂しいだろうな、と感じたから。

 とはいえ2人とも、多村は故障がち、寺原は伸び悩み…と、不本意な部分があったから、新天地へ向かうことになったんだと思う。

 そんなことを考えながら、桂三枝が言っていた「今思たら、若いころ悩んだことも、嫌や思うたことも、これまでのことは何一つ、無駄なことはなかった」との言葉を思い出した。

 今年、上方落語協会の会長として、大阪天満宮に悲願だった定席寄席「天満天神繁盛亭」を復活させた三枝だが、この話を聞いたのはもう5年以上前だったと思う。師匠の文枝(故人)ら、戦後の上方落語を復興させた先人の遺志を継ぎ、見事に悲願を結実させる随分前のことだった。

 三枝は文枝の筆頭弟子であったが、テレビ司会者、今でいうタレント的立場で人気を得た。それだけに周囲から「あいつ、落語家のくせに落語できん」と、揶揄(やゆ)もされた。「古典やってこそ落語家か」と悩んだこともあった。

 ただ、柔軟な発想も持ち合わせていて「古典かて、誰かが作ったんや。そん時は新作」と頭を切り替え、大阪のおばちゃんネタやゴルフに明け暮れるオヤジを観察して200本以上を創作。創作落語なる新たなジャンルを生み出した。

 悩み、落ち込み、やけになれば、そこで終わり。葛藤(かっとう)の末に打ち勝ったからこそ「無駄な経験はない」と言い切れる。記者の人生以上の芸歴を持つ三枝の苦労は、若輩者が推し量ることさえ難しいが、1度だけ、三枝の変身を見たことがある。95年の参院選出馬騒動。出馬表明したものの、たった数日で翻意した。家庭の事情で無念の出馬断念となった。

 出馬のうわさが先行する中、取材に行った。確か独演会か何か、芸能活動の会見だったと記憶しているが、終了後、捕まえて直撃した。記者をひとにらみ、不快感を隠そうともしない強い瞳が印象的だった。

 出馬決意から断念、失意を経験した後、三枝があんな瞳をするのを1度も見たことがない。あれから愛人騒動もあった。師匠も、「メル友やねん」とうれしそうに話していた吉本興業の林裕章前社長も亡くなった。それでも、あの目は見せていない。端的に言えば人柄が「丸くなった」ということだが、あの失意の中、また何かが三枝の中で変わったんだろうな、と…。

 でも、一方で、変えない強い意志も持つ人だ。テレビ朝日系「新婚さんいらっしゃい」は、いまだ長寿番組として続くが、収録場所の楽屋は非常階段のように急な階段を上がった所にある。「この階段な、駆け上がられへんようになったら、番組やめんねん」が口癖。今週もまた、あの階段、ちゃんと走って上がれてるんやろか-。変われるたくましさと、変えない強さを併せ持つ三枝の大きさを思いつつ、多村、寺原にも新天地でのめざましい活躍を願ってしまう。

December 12, 2006 11:45 AM

2006年12月02日

弱いから分かる痛み

 来年のNHK大河ドラマは井上靖原作の「風林火山」。武田晴信(信玄)に仕えた名軍師、山本勘助が主人公だ。勘助を演じるのは、舞台でも活躍する俳優内野聖陽。内野は、勘助役にあたり「この男は不遇の人。おれには力がある、と思いながらも、若いころは仕官もかなわず、持て余していた。そういう人だからこそ、信玄に出会い、成功したのだと思う」と、強いこだわりを語っている。

 勘助はそもそも、実在したかどうかさえ不明。軍師ではなく、伝令将校だったとする説もある。ただ、井上靖原作の「風林火山」では、目と足の片方が不自由で「背は低く顔は浅黒い異形の相」だったと記され、それが一般的な勘助像になった。姿形からして、コンプレックスの塊。内野は、それをバネに名を上げた男っぷりにひかれた。

 そういう意味で「風林火山」には、深い傷を自分の手でふさいだ女性も登場する。俳優柴俊夫、女優真野響子の1人娘で、大河で女優デビューする柴本幸が演じる由布姫だ。血縁の晴信に滅ぼされた諏訪頼重の娘。あえて自決せず、晴信の側室になり、男児を出産。後に家督争いを制して武田家を継ぐ勝頼だ。結果的に、諏訪家の血を武田家に残し、本懐を遂げている。

 内野が、柴本が、語る演者像を聞きながら、コンプレックスを乗り越えようとした直後、病に倒れた故若井小づえさんの姿が脳裏をよぎった。

 緑の帽子をかぶって「嫁にもうて~」。決して、ルックスはイケていなかった女性同士のコンビ、若井小づえ・みどりの小づえさんだ。大阪で生まれ育った記者は、子供のころから、よくコンビを見ていた。誤解を恐れず言えば、絶対に結婚できそうにない2人が、ひたすらけなし合い、最後は誰でもええから嫁にもろてくれ、と叫ぶ妙。典型的な関西風の自虐的な漫才だと思っていた。

 女性コンビのトップに君臨したが、あっけなく崩壊する。みどりの結婚。「モテない」ことが売りの両者に走った溝だけが原因ではない。片方が結婚すれば、もう1人に同情が集まる。お笑い芸に同情が入った時点で、客はもう笑えない。

 コンビは解散した。せっかく、ルックスを逆手にとって成功していたのに…。それでも、小づえさんはたくましかった。趣味だったヨガを生かして、兵庫・尼崎にヨガ教室を開校。マンツーマンで、ヨガを教えてもらったこともある。

 甲殻類のように体が硬い記者に、手取り足取り、3時間ほど根気よく付き合ってくれた。「できる人に教えてもしゃあない。できひんから、できるようになりたい思う。性格かてそう。ひねくれた人は素直になりたい思うし。でも、ひねてるから分かる気持ちいうのもあんねん」。

 弱者だから分かる痛みがある-。そう言っているように聞こえてきた。誰よりも弱いから、立ち止まろうとせずに前へ歩を進めてきたんだろうな-などと、あったかい心に包まれた気がしていた。その直後だった。舞台後の打ち上げで小づえさんは倒れ、そのまま亡くなった。手が震えてワープロが打てなかった。

 でも、勘助の、由布姫の生きざまが語り継がれるように、ささやかだけど、小づえさんのハートも記者の中にまだまだ生きている。

December 2, 2006 01:09 PM

2006年11月22日

あったかい歌、言葉

 ヒットドラマ「3年B組金八先生」シリーズなどの主題歌、挿入歌43曲を集めたCD「桜中学音楽大全集」が来月13日に発売される。その中に、01年4月16日に亡くなった河島英五さん(享年48)の「てんびんばかり」も収録されていた。

 世間は平等で、てんびんばかりにのせてみれば、みんな同じように傾くはずなのに、なぜ、そうはいかないんだろうか-。世の不条理を客観的に見て、怒るでもなく、憤るでもなく、ただ「自分だけはそうならないようにしよう」と歌う彼らしい楽曲だった。

 亡くなったのは、49歳の誕生日を1週間後に控えていた矢先のことだった。彼はたった数週間前に、長女でタレント河島あみるの結婚式に出席していた。その年の初めから、体調を崩していて、あみるの結婚式で会った彼は、確かにやせていたけど、目が溶けるような笑顔は健在だった。

 それだけに、桑名正博のマネジャーから訃報(ふほう)の真偽を確かめる電話を受けた時、確実に5秒は沈黙してしまった。

 彼は、不器用とか、男くさい、とか、代表曲の1つ「時代おくれ」のイメージで語られるけど、素顔は永遠の無邪気な少年だった。

 阪神大震災後、義援ライブとして復興の詩を10年続けると誓っていた。「おれらはその時だけで忘れてまうけど、そこで暮らしてる人たちは永遠に復興せなあかんねん。続けることに意味がある」。きれい事のように聞こえるかもしれないが、彼は、マスコミや世間が注目しなくなった3年後も4年後も5年後も、ライブへの集客のため、街角でギター1本、弾き語り、陣頭に立って歌った。

 場所は「若者が集まるから」と、大阪城ホール周辺だった。当時、シャ乱Qらを生み出した通称「城天(しろてん)」と呼ばれた同ホール周辺は、路上ライブのメッカだった。アマチュアたちが歌い、若者たちが群がっていた。そのすぐ近くで、テレビに出ればギャラをもらって歌う彼が、普段着のまま歌っていた。若者たちが素通りしても、お構いなしだった。

 記者も何度も、歌を聴きに行った。通行人が足を止めると、その人の目を見て歌う。チラシをもらってくれると、心からうれしそうに「ありがとう」と言う。分け隔てないあったかさは、今も心に残る。

 そんな彼だから、あみるの結婚式の時、実は立っていることさえつらい状況だったのに、歩いて表へ出てきた。スタッフが体調を配慮して、極力、取材という形のものは避けていたのに…。数分、立ち話をしていると、彼は「ごめん。座ってええか」と言った。あの声の響き、恥ずかしそうな表情はいまだ消えない。

 「桜中学音楽大全集」を見て、いろんな彼を思い出した。亡くなる数日前にライブ会場で歌ってたな~、とか、経営のライブハウスに飛び込みで訪ねたある新聞社の広告マンの意気を買い、自腹切ったこともあったな~、とか…。まだまだ学びたいことはたくさんある人だった。そういえば、初対面だった12年ほど前、彼は「君、貿易風だね~」と言った。意味を尋ねると「アホ、貿易風いうたら、貿易風や」と、いたずらっ子のように笑った。あれからまだ、貿易風の意味の答えは出ていない。

November 22, 2006 10:51 AM

2006年11月12日

プロだからこだわる

 「芸人いうんは、お客さんに育ててもらうもん。吉本の芸人も、みんな(寄席出演で)お客さんに育ててもろてきたんです。生意気なこと、言うようですが、今は、タレントさんはどんどん育ってますけど、芸人さんはイマイチかな、と思うてます」。

 今月4日、吉本興業が寄席興行「浅草花月」をスタートさせた会見で、ベテラン漫才師の中田ボタンが発言したコメントだ。板の上(劇場)を戦場とする揺るぎない芸人としてのプライドを、やわらか口調の滑らかな大阪弁に隠しこみつつ、眼光鋭く正面をみすえた様子が、とてつもなく格好良かった。

 安易に使われる「芸人」という言葉。記者は、どうも引っかかっていた。中田カウス・ボタンのように、なんばグランド花月(NGK)など劇場出演をライフワークとする人は「芸人」、テレビ出演へのウエートが高い人は「お笑いタレント」と記す。「漫才コンビ」と「お笑いコンビ」も、板かメディアか、で使い分ける。

 お笑いブームと言われる中で、ホンマの芸人てなんや-。そう問い掛けたボタンを見ていて、いまだ多数、ボタンには追っかけグループがいることを思い出した。大阪で記者をしていた時代、本拠地NGKの東側駐車場入り口に、女性数人が出待ちしていれば「今日はカウボ(カウス・ボタン)さん、出てんねんな」と分かった。もちろん、テレビ局など、彼らの行く先々では、ほぼどこでも見かけられる光景だった。

 そう、カウス・ボタンといえば、アイドル的人気を誇った漫才師の走り。今でこそ、お笑いタレントのルックスも良く、アイドル化するケースも多いが、彼らこそ初の漫才師アイドルだった。コンビ結成は69年。当時、漫才師といえば定番スーツがお決まり。そんな中、デニム姿でネタを演じて革命を起こしたと聞く。

 ボタンには「奥さん」と「嫁さん」がいて、借金で首が回らない-のが、コンビの王道ネタ。実際、ボタンはかつて「昔の話やけどな、借金取りいうたらな、田んぼの中、走って逃げて、そのまま国道出て、必死で走ったん覚えとるわ。ま~あ、よう走ったで」と話したことがあった。

 容易に光景が浮かび、思わず笑った。やんちゃぶりとともに、修羅場をくぐり抜けた肝の据わりっぷりが、いつまでもこの人を輝かせるんだ、とも思わされた。

 コンビは、NGKで大トリ(出番の最後)を飾る大御所。芸歴37年となっても、勢いは衰えない。カウスがボタンの借金、女ぐせの悪さをからかい、ボタンがノリツッコミを入れるテンポ、間合いは、子供のころ見たまんまだ。先日の浅草では、カウスが「おまえ、顔色悪いな」とからかい、ボタンが「昨日な、風邪ひいて寝てたんや」。即座にカウスは「アホか~、おまえ、寝るのに風邪ひいてどないすんねん。ひくんは布団やろ」。何度も聞いた風邪引きネタ、分かっていても笑わされた。

 これが芸人、いや、プロや-。プロだからこそ、肩書、言い方1つにこだわる。そういえば、以前、五木ひろしに「僕は演歌歌手じゃない。流行歌を歌ってきたんだ」と、まばたきせず言われた時の目も思い出した。プロだからこそ、こだわる自分の“顔”を持ちたいと思った。

November 12, 2006 11:23 AM

2006年11月02日

新庄に見た「超二流」

 有言実行。プロ17年、打撃タイトルを1度も取ることはなかった新庄剛志が、華々しく野球人生を終えた。彼の言った通り「記録より記憶に残る」選手だった。26日の日本シリーズ第5戦。涙の最終打席を見ながら、いったい、新庄は一流だったのか、二流だったのか-。頭を悩ませた。

 というのも、関西で活躍するタレントで上方落語家、月亭八方の「超二流論」を思い出したからだった。

 八方とこんな会話をしたのは、5~6年ほど前だったか。「オレの持論はな」と語り始めた超二流論。「超一流なんて神様が決める。一流になれんのかて、限られた人間だけや。あとは一流気分か、二流ばっかりや。でも知ってるか? 超二流には、努力すりゃだれでもなれんねんで」。

 野球好き、究極の阪神ファンとして知られる八方は、野球選手を例えに出した。「みんな、松井(秀喜)やイチローになりたい思うても、なれん。でもな、和田(当時阪神内野手)にはなれるかしれん」。メジャーで活躍する超一流の2人と、暗黒時代タイガースの唯一の“プロ”だった和田豊を引き合いに語った。

 和田といえば、一・二塁間にショートまで3人が入る和田シフトをはね返し、徹底した右打ちで単打を重ね、プロ生活17年で通算1739安打。タイガース生え抜きでは藤田平、吉田義男に続き歴代3位の安打数を残した。88年には、日本記録の56犠打(当時)も達成したが、91~93年まで規定打席に到達しながら本塁打0の珍記録も持つ。同時期には新庄もタイガースにいた。背走キャッチにスーパー補殺、敬遠球をサヨナラ打…華やかさは新庄に譲ったが、堅実な守備、重くしたバットを球にぶつけるように打ち、非力をカバーした泥臭い打席の和田に、記者も共感していた。

 八方の言う通り、凡人には松井のように放物線を描くアーチを連発することも、イチローのように全身バネのような肉体も持ち得ない。でも、和田にはなれるかもしれない-。あの時、いたく感銘を受けた。

 背景には、八方が体験した挫折がある。漫才ブーム以後、明石家さんま、島田紳助らが続々と東京進出に成功していた。八方もかつて、東京に拠点を移したことがあった。しかし、仕事は皆無。吉本興業の幹部は「あんな、東京だけが仕事ちゃうで。人には合う合わんがある。もういっぺん、大阪でやり直してみい」と言ったという。

 その後、再び故郷の大阪に拠点を移し、1週間ほとんどの曜日でレギュラーを持つまでの売れっ子になった。あの時、八方は決めたそうだ。「東京が一流、大阪が二流やったら、一流の中で下の方、ウロウロするより、二流を極めたろ。超二流になったんねん」。ある時期、毎日、関西のどこかのテレビ局に出演していた八方は、まさしく有言実行したのだった。

 昨年4月、東京に転勤となった記者は、電話であいさつし、車を近畿道から名神、東名へと走らせた。「そうか、一流やな」とちゃかされたが、東へ進むほどに、二流のプライドと、超二流への誓いがふつふつと沸き上がってきた。それでも1年半のうち、熱さが冷めていたのも事実。そんな中、新庄が涙しながら三振した最終打席、それでもチームが日本一になる強運を見せられ、この男も超二流だったと思った。八方の言葉が脳裏によみがえった。超二流の道はまだまだ遠く、険しい。

November 2, 2006 11:23 AM

2006年10月23日

源はコンプレックス

 人を大きくするのはコンプレックスか-。今季のプロ野球、セ・リーグの優勝争いを見て思った。10月10日、東京ドーム。中日は巨人を破りリーグ制覇。落合監督は、8月末から驚異的勝率で追い上げた2位阪神の粘りに「70年以上の歴史の中で、球史に残る追い上げだった」と語った。

 その粘りの核をなしたのが金本だった。03年、広島からFA移籍。鉄人の不屈の精神力がチームを変えた。それまでの阪神は戦力以前の問題で、瀬戸際にことごとく弱かった。

 10月8日の巨人戦。もう1敗もできない中、彼の2発で快勝。その日の夜、スポーツ番組に生出演した楽天野村監督は「おれの時に金本がいればな。チームは1人、軸がおれば、変わるんですよ」とつぶやいた。翌9日の巨人戦は金本が沈黙。負けた。ソフトバンクの王監督が言う「勝敗の責任を背負う4番」を痛感するとともに、金本なら仕方ない-。チームもファンも、どこまでこの男を頼りにしているのか、計り知れない存在になっていた。

 連続フルイニング出場の世界記録を日々、更新する鉄人の源は何か-。芸能記者の私には、推測でしかないが、大学受験失敗や、同期入団、ドラフト1位の町田へのライバル心が支えになっていたに違いない。

 あれこれ推測するうち、コンプレックスをバネにした漫才師を思い出した。大阪の夫婦漫才、宮川大助・花子の大助。彼は、しゃべくりの命、滑舌が悪く致命的欠点を持っていた。自宅近くの公園で、毎日毎日、のどから血を流しながらしゃべりの練習。それでも、持って生まれたコンプレックスは消えなかった。花子が言っていた。「もう毎日、毎日、ネタ合わせ、練習や。ホンマ、朝から晩までやで。ホンマに毎日な」。夫の努力に向き合おうとするものの、やっぱりつらい。何度も涙したという。

 幾度となく涙を流すうち、逆転の発想で出たのが「しゃべれんなら(滑舌の悪さを)武器にしたらええ」(大助)。花子が機関銃のようにしゃべり、つっこみ、大助が「あわわ、あわわ…」と慌てる現在のスタイルにたどり着いた。

 上方漫才界の頂点でもある上方漫才大賞も取った。しかし、好事魔多し。花子が胃がんを患った。「神様もようできてるわ。有頂天なったらアカンいうて、教えてくれた思うで。今となったらな」(花子)。がんを克服したものの、体力の低下は否めない。

 漫才のほか、座長公演などで全国を回る多忙な日々。順調な仕事の一方で、疲労がたまると、すぐ体調不良に悩まされた。しかし、お笑い芸人にとって、客に同情されるのは致命傷。「つらい時にこそ笑える強さを」と、数年前、ホノルルマラソンに初挑戦した。完走直後、記者の携帯に「通知不可能」の着信。ホテルから無事完走したことを知らせてきた。涙声だった。達成感と、安堵(あんど)の涙だった。

 あえて苦行に挑戦し、克服して自信に変える。金本の護摩行も同じだろう。ただし、帰国直後に会うと、花子は大好きなショッピングも堪能していた。お土産をもらい、その気持ちもうれしかったが、なんとなく、ただキレイ事だけで走りに行っただけではない人間味も感じて、ほのぼのとした気持ちに包まれた。

October 23, 2006 11:48 AM

2006年10月13日

人間は誰も変われる

 今季のセ・リーグは、142試合目で中日が優勝。すでに、パのプレーオフが開幕していた。8月末から43日間、23勝5敗1分と驚異の勝率でドラゴンズを追い上げたタイガースを見て、変われば変わるもんだ-と、感心した。

 きっかけは8月27日の巨人戦、甲子園での藤川の涙のお立ち台。前日まで5連敗とふがいない虎ナインに、痛烈なヤジが飛び、それへの悔し涙だった。あの涙で、虎は息を吹き返した。

 そんな話を阪神ファン仲間と語るうち、ある放送局の社員が「あの藤川と、今の藤川が同一人物とは思えない」と、しんみり言った言葉を思い出した。あの藤川? 藤川は98年、ドラフト1位で高知商から入団。松坂世代の逸材として虎党の期待も高かった。

 あの藤川…とは、ある番組のゲスト出演をめぐっての事だった。「2年目のオフだったですかね? 番組に出てもらおうと声を掛けていたのに、連絡がつかなかった」。つまり、番組をすっぽかしたわけ。忘れていたのだという。

 ただ、以前の藤川に闘争心を感じなかったのも事実だ。2年目には1軍登板していたが、素人ファンから見ても、無理…と。カーブはいいけど、直球はほとんど139キロ。線が細い。それに、マウンドでの「気」は皆無だった。

 その後、故障続きで解雇の危機。中継ぎに転向した04年、久々に見た藤川は、見違えるような「気」を持っていた。ストレートも目を見張った。今年、47回3分の2イニング連続無失点の記録を作り「待っていても打てないストレート」と絶賛されたが、ずっと見てきたファンにすれば、04年のニュー藤川の方がよっぽど驚いた。

 自信は大きい。変わる。昨年から続く清原との因縁対決を、直球勝負で制し「(成長は)清原さんのおかげ」と、憎いセリフ。別のインタビューでは「相手打者によって(リリースの)ポイントを変えている」とも語っていた。底からはい上がった男の強さを見た。
 藤川の変身に、タイガース終盤の粘りを重ねつつ、1人の落語家を思い出した。松鶴一門で鶴瓶の弟弟子、笑福亭小松(49)。頻繁に事件を起こし、派手な女遊び…どうしようもない男が、97年、進行性胃がんの末期で「余命3カ月」を宣告された。胃、ひ臓を全摘、すい臓の半分を摘出。命の限界を悟り、悪行を悔い、小学校低学年だった2人の子供を思い涙した。

 人生をリセットするかのように、4カ月以上かけて日本列島徒歩縦断の旅に出た。なぜか、がんの進行は止まっていた。

 98年ごろ、奈良の彼の家を訪ねた。「女はアクセサリーの1つ」とうそぶいていた男は、記者の前で男泣き。「いまさら…何言うても…信じてくれんかも…。でも、あと何年生きられるか分からんけど、もう恥ずかしいことしたない。子供に『ああ、お父さんの子でよかった』思われたい」。喫茶店で、駅まで送ってくれた車中で、彼がポロポロ流した涙は忘れられない。

 小松はすでに発症から5年を過ぎ、医師に完治と言われている。奇跡が起こった。現在は、講演会で全国を回り、自分がやんちゃだったこと、死の恐怖におびえたこと、第2の命を懸命に生きようと思う今を、包み隠さず話している。恥ずかしい過去もさらけ出せる強さは、底を知った男にしか持ち得ない宝だ。

October 13, 2006 09:14 AM

2006年10月03日

女の心動かす正直さ

 プレーボーイと名をはせた羽賀研二(44)が、15歳年下の山田麻由さん(29)と結婚する。先月27日、長野県松本市内へ結婚報告会見に行った。本音連発の羽賀らしい会見だった。麻由さんとの出会いを聞かれた羽賀は、梅宮アンナと破局した直後の6~7年前だと言い「(借金2億4000万円が原因で、アンナにふられ)見事なふられっぷりで、すごく落ち込んでましたから…」と、話し始めた。

 恋人を失い、借金だけが残った傷心時代、献身的に尽くしてくれたのが麻由さんだった。麻由さんへの感謝の言葉が続くと思うと、違った。「今でも彼女(アンナ)を引きずってないと言えばウソになりますし、何かにつけて(行動が)目に入るし、頭の中をよぎります」と言った。

 相変わらず正直な人-。感心せずにはいられなかった。誰にでも、ほれ抜いた相手は1人はいるし、時が流れるほど思い出は美化されていく。麻由さんとの出会いを聞かれた羽賀の脳裏に、当時を思い出すうち、アンナとの恋がよみがえった。それでいて、麻由さんに「申し訳ない伝わり方になりますけど」と前置きもしていた。底辺だった自分を支えてくれた麻由さんへの感謝は絶大だし、何よりも大切。でも、心に元カノが残っているのも事実。すべて本音だった。

 この瞬間、01年6月、大阪・関西テレビで、番組出演後に羽賀を直撃したことを思い出した。アンナの結婚直後だった。記者は1人、地下のタクシー乗り場に潜んでいた。この手の取材は、空振りの確率が高い。無言か、スタッフに遮られるか、違う出口から逃げられるか。テレビカメラが回ると、愛想だけで答える芸能人は多いが、テレビもいない。空振り必至だった。

 ところが、羽賀は記者を制止するスタッフを遮ってまで「(アンナは)今でも好き。自分が幸せにしてあげられなかったから、幸せになって欲しい」。自分にも意中の人がいると明かした。「すごくいいなと思ってる人はいます。まだ手も握ってないし、一緒にご飯を食べたり映画を見たりするだけですけど。でも、本当にごく普通の一般の人なんで、そっとしておいて欲しい」。よくある元カノ結婚へ意地? とも思えるが、乗りかけたタクシーを降りてまで、一生懸命話す姿からは、そんな空気は少しも感じなかった。

 聞かれたことに答えずにいられない性格。だから、目の前に女性がいれば鼻の下も伸ばすだろうし、優しくしたくもなる。「男からふることはあってはいけない」というのが、羽賀のポリシー。そんなにいつも体当たりでぶつかってこられたら、心が動かない女性はいないだろうな。タクシーを見送り、そう思った。

 そんな羽賀の初取材は約10年前。ボーイッシュで、身も心もとんがっていた記者は、ほぼ確実に男と間違われていた。他紙の記者が「男と思ったでしょ?」とちゃかすと、羽賀は即座に「こんなきれいな指の男性はいない」。ただ「細い」だけの指を「きれい」と瞬間的に言い換えたのは、対女性への天才的な処世術だった。

 羽賀は宝石ビジネスで借金を完済した。50万~80万円が相場のジュエリーは、安い買い物ではない。でも、おばさま方がついうっかり、買ってしまう気持ちも分かる。「いや、私も買うな」と苦笑してしまった。

October 3, 2006 10:33 AM

2006年09月23日

あんぱんと内助の功

 数日前、故三橋美智也さんの内妻で、最後のマネジャーだった二条弘子さんから電話があった。二条さんは最近、パソコンを扱うようになったそうで、先日このコラムで、ソフトバンク王貞治監督が三橋さんの自宅へ弔問で訪ねた話を紹介したが、その記事を目にして、懐かしく思い電話をくれた。

 思い出話は続いた。王監督の夫人が亡くなった時、二条さんが葬儀に参列すると、監督は深々と頭を下げ「あれ(弔問)から、顔を出せなくてすいません」とわびたそうだ。最愛の妻をなくした悲しみの最中でさえ、相手を思いやれる大きさに、いたく感心した事などを話していた。

 そんな中、必然的に会話の流れは、三橋さんの盟友だった歌手仲間の故村田英雄さんへと向かった。ちょうど10年前。96年9月20日、村田さんは大阪市内の病院を退院した。村田さんは前年の95年夏、心筋梗塞(こうそく)で倒れ緊急入院。心臓バイパス手術、糖尿病からくる壊疽(えそ)により右足を切断していた。

 95年に芸能担当になったばかりだった記者は、この1年半の間、病院へ通うのが日課になっていた。ただ、病院内のレストランでくつろぐ御大のもとへ、コーヒーを飲みに行くだけだったけど。ある時、おなかを壊して顔面真っ白なまま、いつものようにレストランへ行くと、いつものコーヒーではなく、あったかいうどんが出て来たことがあった。「ちょっとでも、何か食べないかんで」。御大は瞬時に察したようだった。ただ、あったかいだけのうどんではなかった。きつねうどんだった。

 その場で交わされたたわいもない話。「ほれた女にマンション買ったった」とか逸話の真偽をぶつけると、御大は笑い飛ばしながら、出身の九州の女性にほれマンションを買い与えた話などをした。結果的に寿命を縮めた糖尿病でさえ「地方行った時、ぽったん便所でな、おしっこしたら、ありんこがたかったんだよ。あれ? とは思ったよ」。あの時、酒を断ち、食事も節制していれば…それでも「そんなんでやめられるかよ」。豪快な“本物の”村田節をよく聞かされたものだった。

 一方で、大阪府内の自宅へ帰ると、食事制限で空腹に耐えきれず、夜中に冷蔵庫周りをあさって、家人に怒られてもいた。よく、真夜中に、あんぱんを食べようとして家人に発見され、しかられたそうだ。その話が出ると、御大は「腹が減るんだよ」と、ぶっきらぼうに口をとがらせた。

 そんな御大がひっそりと、奈良・橿原神宮でステージに立って歌ったことがあった。公式的に復帰する少し前のことで、客席から「夫婦春秋」を歌う御大を見た。家族の絆(きずな)歌う詞の中に、あんぱんをほお張る御大をしかり飛ばした家人の内助の功あって、今がある-との叫びが聞こえてきた。確かに、声量は全盛時のものではなかったが、歌は心で歌うもの。02年6月に亡くなるまで、岡山、佐賀…と、各所で歌を聴き、そう思った。今でもはっきり、歌詞の締め♪なあ、お前~♪ の最後の声が震えていたことは覚えている。

September 23, 2006 01:24 PM

2006年09月13日

きん枝に学んだ情

 日本テレビ系「笑点」でピンクの着物でおなじみの三遊亭好楽(60)が芸道40周年だという。記念公演(19~21日、よみうりホール)の会見に、出席した。

 照れたような人なつっこい笑顔に、いたずらっぽさを携える。同席していた三遊亭小遊三は、好楽を「自然と人が集まる」人柄と表した。66年に8代目林家正蔵に弟子入りし、27回も破門宣告を食らったという。「なるほど、やんちゃ坊主な顔。失礼ながら、かわいい。でも、どっかで見たな、この雰囲気…」。

 まじまじと観察していると、思い出した。上方落語界で5代目桂文枝(故人)一門、2番弟子の桂きん枝(55)だった。若いころは、かつての人気番組「ヤングおー!おー!」で、桂文珍、月亭八方、林家小染(先代、故人)とともに「ザ・パンダ」として活躍した。

 彼も好楽と同じく、仲間に慕われる、いや、いつも誰かが助けたくなる人柄。度重なる事件で破門されたこともあったが、師匠筋の6代目笑福亭松鶴(故人)が取りなして復帰した。

 30代の記者は、彼がベテランの域に入ってからしか知らないが、悪い印象は1つもない。横山ノック前大阪府知事が女子大生セクハラ事件を起こした時、親しいタレントは、全員が固く口を閉ざした。親派の1人だった彼も、事務所の対応によると、しゃべらない〝はず〟だった。

 その日、彼はうめだ花月シアター(当時)に出演しており、劇場外へ出た時に声を掛けた。「お、何かあったん? おれ、何も悪いことしてへんで」。目的を知っていて、場を和ませるように笑った。その後「言えることは言うたるけどな」と、話し始めた。

 分け隔てなく接し、情には情で返すのが人の道、と学んだ。人柄としては最高なのだが、兄弟弟子が優秀過ぎる不運もあった。

 師匠の文枝は戦後、没落しかけた上方落語を桂米朝、桂春団治、松鶴の4人で復興させ、上方落語四天王と呼ばれた大名跡。筆頭弟子は上方落語協会会長の桂三枝、次がきん枝で、3番目が古典への取り組みでは類を見ない桂文珍だ。

 この桂3兄弟。よく「しっかり者の長男、やんちゃ坊主の二男、ちゃっかり者の三男」と称されるが、まさにそのまま。タレント活動と並行し、新たなジャンルを生み出そうと創作落語を手掛けたのが三枝で、正統派路線を歩み、師匠から最も怒られなかったというのが文珍だった。

 師匠の文枝に後継問題を聞いた時「それはさておき、誰がかわいい言うたら、1も2もなくきん枝」と、これだけはきっぱり言い切った。女性の弟子もとり、弟子がタレント活動を優先しても放任主義だったが、最も迷惑を掛けられた二男坊がかわいくて仕方なかった。実際の親心と同じ。

 こんなことを思いながら好楽を見ていると、江戸も上方も、情でつながる師弟の世界は共通-。当たり前のことを思った。が、しかし! たった1つ、決定的な違いがあった。会見の最後の3本締め。「打~ちましょチョ、チョン…い(祝)おうてさんど(3度)チョン、チョン、チョン…」の大阪締めに慣れきっている記者は、最後まで手を打てなかった…。

September 13, 2006 12:30 PM

2006年09月03日

韓国映画から学んだ

 韓国で史上最速観客動員1000万人を突破した映画「グエムル 漢江(ハンガン)の怪物」が、きょう2日から日本でも公開される。少女を奪った怪物を追いかける家族の姿を描いた作品だが、ポン・ジュノ監督によると、怪物は、日本の俳優竹中直人をイメージし、ちょっと間抜けな一面もあるキャラクターに仕上げたそうで、今夏の韓国映画の話題をさらった。

 一方で、この夏、「グエムル」とともに、韓国のスクリーンをにぎわせた超話題作があった。南北朝鮮と日本の対立を描く「韓半島」だ。エンターテインメントとシリアス。韓流ブームによる日本側から見た韓国への親近感と、依然として根強く韓国に残る反日感情。対照的な作品が同時期に公開されたことで、日本と韓国の間で渦巻く2つの相反する“心”を象徴しているかのように感じた。

 「韓半島」の舞台は、近未来の朝鮮半島。韓国と北朝鮮を結ぶ京義線が開通し和平ムード広がる中、イージス艦が姿を見せる。日本は、南北和平を阻止すべく、韓国近海に海上自衛隊を出撃させる。

 映画は、03年公開の「シルミド」で、秘密裏に養成された金日成暗殺部隊を描いたカン・ウソク監督の作品。記者が映画を知ったのは、韓国公開の2週間ほど前、6月末だった。映画は、韓国国防省の協力で、実際の軍艦や戦闘機の撮影が許可されている。まさしく、国家あげての映画! 韓国の本音を突き付けられたように思った。

 というのも、公開のタイミングが絶妙。問題の京義線は実際に、00年の南北首脳会談で連結合意し、工事に着工。今年5月には試運転が行われるはずだったが、見送られている。南北共同事業が宙に浮いた直後の公開だった。

 映画の中では、南北和平に水を差すのが日本。なぜかというと、1910年に締結された日韓併合条約の中に「日本に鉄道の所有権がある」との条項があるからだという設定。その条項が実在したかどうかはさておき、「なんでいまさら…」と言葉を失った。

 もっとも、カン・ウソク監督は、日本のメディアに「この映画を反日という視点でのみとらえたとすれば、本質を理解できなかったということだ」と、反日映画としての製作意図を否定。一方で「映画の中の感情は、韓国が100年間抱いていた悲しみの感情だ。日本は文化的、社会的に近い国だが、その間、正確に知ることのなかった韓国人の悲しみの感情を理解してくれるよう望む」と、率直にコメントしてもいる。

 実際、この映画の存在を知った時、日韓問題の繊細さを痛感すると同時に、記者の心には、日本で2回も“核実験”をしたアメリカへの嫌悪感がわき上がった。

 足は、踏まれた側しか痛みを覚えていない。過去を振り返り、必要なら反省することも重要だが、その先も肝心。相手の立場に立ち、心情を理解した上で、どうすれば事はうまく進むのか-。国家間の壮大な問題ではなくとも、小さな小さな個人と個人、人間関係でも同じことが言える。たった1作品が、そんなところへも、考えを及ばせたのも事実だった。

September 3, 2006 11:20 AM

2006年08月24日

渡瀬と球児つなぐ歌

 夏の高校野球は早実の初優勝で幕を閉じ、球児は甲子園を去った。そして今週末、聖地に違う球児が戻ってくる。首痛などで抹消中だった阪神の藤川球児が1軍復帰。タイガースは長期ロードを終えると、25日から本拠地に巨人を迎える。

 直球を待つ打者に快速球を投げ込み、三振に斬(き)る。彼こそ「金払う価値のあるプロ」だ。5月28日、西武インボイス。試合は阪神のサヨナラ負けだったが、球児は2イニングで6打者連続の空振り三振。もう、それだけで満足だった。

 球児の復帰で阪神ファンは夢と誇りを取り戻す。甲子園には、おなじみの勝利の凱歌(がいか)「every little thing every precious thing」(リンドバーグ)が帰ってくる。
 そう、球児の甲子園登板時に流れるあの歌。渡瀬マキのハイトーンボイスで耳に残る♪あなたがずっと追いかけた夢を一緒に見たい…奇跡のゴール信じて今大地を踏み出した♪ 球児は04年に中継ぎ転向し、一軍定着してから、ずっとこの曲を使い続けている。その縁で、曲を作詞した渡瀬に取材する機会があった。

 渡瀬の第一声は「バラードですし、すごくテンポのいい曲というわけでもないのに、どうしてあの曲を使ってくれてるんですか」。楽曲は96年制作で、球児はまだ高校生だった。渡瀬に夫人との思い出の曲だから、との理由を伝えた。

 「うれしい。本当にうれしい」。渡瀬は何度も繰り返した。渡瀬は三重出身で、父が40年来の阪神ファン。父に球児のすごさを聞かされ、興味を持った。

 「中継ぎとか、抑えとか、いつ出るか分からないんでしょ。その中で、毎回毎回、ベストパフォーマンスをやれるなんて、ものすごい精神力ですよね」。女性ボーカルのバンドとして、90年代の音楽シーンを引っ張ったリンドバーグ。渡瀬も、数々のステージに立った。観客の拍手に身震いをした者だからこそ、球児の偉大さを思い知る。

 そこで、渡瀬は球児との接点を見いだした。2人は、ともに1男1女を持つ親。渡瀬は、子供服のオリジナルブランド「Ontembaar」のインターネット販売を始めている。オリジナルサウンドにこだわり続けたアーティスト活動同様に、子供服1つを完成させるのも、生地選びから2カ月以上をかける。デザインはシンプルでも、丈夫さにこだわるという。球児との縁を感じ、渡瀬のひそかな夢が増えた。「藤川投手に私の子供服をプレゼントしたいな。子供に着せてもらえるかな」。

 縁は縁を呼ぶ。いつか、どこかで実現するかもしれない。昨年9月29日、阪神がリーグ優勝を決めた夜、大阪・えびす橋に六甲おろしとともに繰り返し、繰り返し、響いたのは「Every Little Thin…」だった。

 これを聞いた渡瀬は、半信半疑だったという。10年前の楽曲が、いまや阪神ファンには聖歌となっている。記者は5月28日の西武インボイスで、イニング交代時にシーツが投げ入れたボールを幸運にも手にした。毎夜、寝る前にボールを握る。すると、耳に♪あなたがずっと追いかけた夢を…♪と流れる。はい、すっかり愛唱歌になりました。渡瀬と球児がつながる日も遠くないかもしれない。

August 24, 2006 09:15 AM

2006年08月14日

KAMIKAZEは

 俳優今井雅之(45)が監督・主演した映画「THE WINDS OF GOD-KAMIKAZE」(26日公開)を見た。映画は現代の米国人が1945年8月に日本人となって時空移動し、特攻隊員として太平洋戦争末期を過ごすストーリー。先日の試写会で、今井があいさつした。

 もともとは舞台用に今井が27歳の時に作ったもので、これを映画化した。今井は、100人以上の元特攻隊員に話を聞いた。

 「なぜ死ねるのか-と。テレビや映画の見過ぎで、お国のため、とか、そんな気持ちでなぜ、若い命を散らすことができたのか、と分からなかった」。

 今井が問うと、答えは単純だった。「みんなね、命令を受けた時は『頭が真っ白になって、出てくるのは母ちゃんの顔だった』と。で、すぐに『母ちゃんが目の前で殺されるのは嫌だと思った』と。そして言うんです。『誰だって、自分の母ちゃん、守りたいと思うだろ? 僕らはただただ、母ちゃんを守りたかった。それだけだ』って…」。

 そして、ある元特攻隊員は、仲間の出撃を見送った前夜の思い出を話してくれたそうだ。「酒を飲みながら『この時代に生まれたことを恨んでいこう』と言い合った」。母の見舞いを受けた隊員の中には、何時間も母の手を握り「死にたくない」と泣き続けた者もいたという。しかし、その隊員も出撃命令を受けると、任務完遂に旅立った。

 残念ながら、特攻兵たちの体当たりは、そう確率が高くなかった。南洋上に、無念にも沈んだ者も多くいた。特攻出撃の際には、成果を確認し基地に戻る役目を果たす機も同行し、万一、敵前逃亡する機があれば、それを撃ち落としたという。

 悲壮としか言いようのない作戦だったが、兵士の素顔はごく普通の若者だった。だから今井は「等身大の特攻隊員を描こうと思った」と語る。撮影場所には、飛行場のあった鹿児島を選んだ。1カ月以上、鹿児島ロケを敢行し、鹿屋市でも撮影。特攻戦没者の慰霊祭にも参加している。

 「兵士が見た最後の故国をスクリーンで伝えたかった」。この言葉を今井から聞く前に、上映を見たのだが、飛行場のシーン。青々とした緑の山、たくましい日差し、風のにおいを感じさせる大地…に、鹿児島が浮かんでいた。

 こんな風景をニッポンの記憶として、南へ南へと操縦かんを-と、スクリーンに見入った。そして、この映画にはもう1つ、鍵がある。全編、セリフが英語。あくまでも、主人公の特攻兵士の“心”は、現代に生きる米国人青年。日本敗戦を知っているし、特攻出撃を「無駄死に」だと思っている。1歩引いた立場から本を書いたことで、等身大の若者像を際立たせようとした狙いもあったのだろう。

 そして今井は、セリフを英語にしたことで、もう1つの野望を抱く。全世界公開だ。ただ、それは…。30代の記者でさえ、毎年、8月になると、あの戦争への怒り、悲しみ、兵士の愚鈍な純粋さに複雑な感情を持て余す。そんな心が、どんなふうに伝わるのだろうか。

August 14, 2006 11:58 AM

2006年08月04日

足を止めず前へ前へ

 リヤカーマンとは、別に変身する特撮ヒーローではない。今年度の植村直己冒険賞を受賞した冒険家の永瀬忠志さん(50)のニックネームだ。リヤカーを引き歩きオーストラリア、アフリカ、南米など世界の大陸を踏破。その総距離が4万3107キロにも及び、これが世界一周に相当するとして、受賞に至った。

 永瀬さんは、19歳の時に「ふと歩いてみよう」と思い、約2カ月かけて宗谷岬から佐多岬までの列島徒歩縦断に成功した。以来31年間、旅を繰り返し、今月1日、通算20回目の旅に出た。今度は、ブラジルのアマゾン地帯900キロ踏破を目指すという。出発前日、永瀬さんは「いつも出発前は、どんどん不安が大きくなる。そして『やめたい』『帰りたい』と思う」と、口にした。

 ならば、なぜ旅に出るのだろう-。

 「旅の途上で、人と出会い、景色だったり、自然に感動する。何を話すわけでもないけど、集落の人たちが笑顔で迎えてくれると、良かったなと思う。また行こうって気持ちになる」。

 きれい事すぎる。本当のところはなぜだ-。1対1のインタビューではなかったため核心まで迫れず、自分なりに考えてみた。そして、ふと思い当たった。

 永瀬さんは冒険家。冒険するのが仕事だ。そこで、しゃべるプロ、噺家(はなしか)の桂三枝(63)を思い出した。彼は「スケジュール帳が予定で真っ黒やないと不安」と言っていた。若くしてテレビで人気者となった三枝は、落語家としても、100本以上の創作落語を生み出してきた。複数本のレギュラーを持ち、創作を作り、かつ、本拠地のなんばグランド花月(NGK)にもレギュラー出演し、さらには落語会や独演会もある。1年365日、予定が埋まるのも当然だ。

 彼は父親の顔を知らず、かつて「母は旅館に住み込んで身を粉にして働き、自分を大学まで出してくれた」と話してくれたことがある。大阪のある放送局の彼と同世代のプロデューサーは「お母さんの背を見て育ってますからね。働ける環境にあることに素直に感謝する気持ちが今につながってるんじゃないですかね」と言った事もあった。

 そういえば、上方漫才界に今いくよ・くるよというベテラン女流コンビがいる。この人たちも「仕事を断らない」事では有名。和泉元彌が仕事のダブルブッキングで騒動を醸した当時、彼女たちは「NGKの出番、2~3時間ほどの間にテレビ収録するのはざら。合間に岐阜とか地方に行くこともあるし」と笑っていた。

 ベテランと呼ばれるようになっても、駆け出し時代の屈辱が彼女たちの仕事への活力源になっている。ウン十年前、手見せ(オーディション)で酷評され「お嬢ちゃん、もう帰り」と、吉本興業社員に言われたことがあったそうだ。「お嬢ちゃん」。これが胸に刺さった。「女でもやれる、言うとこ見せたんねん」。2人は誓い走り続けている。

 三枝、いくよ・くるよ…理由は違えども、一瞬でも足を止めれば、次の1歩が踏み出せないという不安をかき消すために、前へ前へと歩を進めてきた。永瀬さんを旅に駆り立てる原動力の1つも、実はそうなんじゃないか、と思わずにはいられない。

August 4, 2006 09:04 AM

2006年07月25日

「相方」思い流した涙/村上久美子

 お笑いコンビ「極楽とんぼ」で活躍していた山本圭一(38)が、少女(17)に飲酒をさせ、みだらな行為をしたことを理由に、所属の吉本興業を解雇された。人気タレントの電撃解雇-。相方の加藤浩次(37)にとっても、寝耳に水の衝撃だった。

 山本が事件を起こしたのは、16日夜から17日未明にかけての間。吉本は18日午後9時すぎ、山本の解雇を発表した。相方の加藤に知らされたのも、同日夕だった。相方が起こした事件の詳細を聞かされると同時に、解雇の事実も知った。

 山本解雇の翌日、テレビ出演した加藤が涙を流して「気持ちの整理がつかない」と語ったことを、芸能人のウソ泣き、ととらえる声もあったが、あれは本物の悔し涙ではないかと思う。

 それから数日後、深夜ラジオに生出演した加藤は「会社は山本さんを解雇し、コンビ解散という人もいるけれど、解散を決めるのは2人の問題」「山本さんもやっちゃいけないことをやった。今は、どれだけの人に迷惑を掛けたか、しっかり受け止めて欲しい」。一方で「擁護していると言われるかもしれないけど、しっかり(罪を償い)反省して、いつかまた、山本さんとやれる日が来たら、と思う」とも語った。

 素直に、ありのままをさらけ出した言葉だったろう。山本と加藤は16年前、もう1人の友人とともに劇団で役者を目指していた。役者の卵だった3人は、大成の道を探り、加藤と山本が2人で劇団を飛び出し、お笑いの道へ入った。コンビの看板を二人三脚で築き上げてきた。

 そんな絆(きずな)があるのも事実。だが、きれい事だけではない現実もある。お笑い、漫才コンビにとって相方とは、兄弟でも恋人でも友人でもなく「自分の体の一部」だからだ。

 よく「コンビは普段、仲が良うないほど芸はおもろい」と言われるが、確かに、大阪で長く芸能担当をしてきた記者は、中田カウス・ボタン、オール阪神・巨人、コメディNO・1、西川のりお・上方よしおら今も活躍する多くのベテランコンビを見てきたが、ほとんど舞台後は別行動。各人とも、口をそろえて「好き嫌いちゃう。家族とか、守るもんでもない。飯食うていくための手段やねんから」。あくまでも、相方あってのコンビ。私たち、新聞記者で言えば、話を聞くための耳、理解する頭、記事を書く手…そんなところなんだろうと考えている。

 つまり、飛躍して考えれば、相方を思う気持ちは自己愛の一部だとも思う。板の上でネタを演じて初めて仕事が成立する漫才コンビと、相方以外の誰か、もしくは単独でも仕事ができるお笑いコンビでは、多少、相方の持つ重みも変わってくる。それでも、やっぱりこう思う-。加藤は特殊な形の自己愛から、テレビで情けない“自分”に悔し涙を流し、ラジオでは、事件は捜査中でなおかつ、会社が解雇という決断をしたにもかかわらず「またいつか」の発言につながったに違いない、と。

July 25, 2006 01:43 PM

2006年07月15日

王監督のあったかさ

 ソフトバンクの王貞治監督(66)が今月5日、突然の休養宣言をした。その日の深夜、鷹党のタレント間寛平さん(56)は「また『監督』として戻ってきて欲しいと思うけど、ぜひぜひ無理はなさらないで欲しい」と語った。

 これしか言えんな-。そう思った。今年2月、宮崎キャンプに寛平さんと一緒に王監督を訪ねた。昨夏、タレントに公約を掲げてもらう連載で、そのアンサー企画だった。寛平さんは「ソフトバンクが日本一にならなかったら、王監督の前でギャグをする」との公約を掲げていた。

 ソフトバンクは昨年、プレーオフに敗れ、寛平さんの王監督訪問が実現。WBC監督でもあった王監督は、その数日後にはチームを離れる日程だったが、貴重な時間を割いてくれた。

 グラウンドで寛平さんと並んで2ショット撮影。他社カメラマンが集まる中、本紙カメラマンとは連絡が行き違い、記者はコンパクトカメラを手にシャッターを切った。性能上、1枚しか撮影できず、ぼう然。王監督は「肝心の日刊さん、大丈夫?」。世界の王に気遣われ、ずうずうしくも、ベンチに戻った監督と寛平さんに「もう1回、お願いします」。2人をグラウンドに押し戻し、無事に撮影できた。

 王監督は、練習の合間を見て、私たちを監督室に招き「もうチームを離れないといけないので、時間がなくて申し訳ない」と深々と頭を下げた。勝手に企画して押し掛けた立場としては、恐縮しきりだった。
 恐縮しながら、96年1月に亡くなった歌手の三橋美智也さんの事を思い出していた。生涯レコード売り上げ1億600万枚という日本記録を持つ三橋さんは晩年、マネジャーでもあった大阪市西成区の内妻、二條弘子さん宅で過ごし、大阪市内の病院で亡くなった。三橋さんの死後、家族トラブルがあり、親交があった王監督は弔問を遠慮していた。

 その数週間後。王監督はキャンプイン前日、二條さんとの約束を守り、弔問に来た。6畳ほどの部屋に三橋さんの位牌(いはい)は置かれていた。数分、目を閉じ、手を合わせた王監督は、記者が取材に来ていることに驚きながらも、とうとうと語った。投手で入団しながら失敗。打者転向もすぐに芽が出ず「三振王」とヤジられていたころ、いかに三橋さんの歌に勇気付けられたか、と。三橋さんの死後、弟子だった大物歌手が姿を見せなかったのに比べ、王監督の律義さに感心するしかなかった。

 王監督休養-のニュースを見ながら、わずかな王監督との触れ合いを思い出すうち、宮崎からの帰り、寛平さんにおごられた焼き鳥屋でのやりとりが頭をよぎった。「昨日な、家の近くの店行ってんけど、亭主が帰してくれんねん。眠いわ」。記者が「そんな、おいしいんですか?」と問うと「いや(笑)。(店主は)ええ子やねん。オレくらいしか常連おらんから、行けへんだら店つぶれるやん。せやから、時間あったら行ったんねん」と言った。

 寛平さんも苦労人。石原裕次郎にあこがれ、歌手を目指して上京したが、失敗。吉本新喜劇で人気者になった。成功もつかの間。バッジ製作をめぐり6000万円の借金を抱え、一念発起して東京進出しタレントに転向した。人は傷を負った分だけ人に優しくなれる-。人のあったかさに心が温まりながらも、やっぱり、1日でも早くユニフォームを着た王監督を見たい-。そう思ってしまった。

July 15, 2006 09:05 AM