記者コラム「見た 聞いた 思った」

藤中栄二

2006年12月26日

父と語るクリスマス

 父親から何かを教わったことはありますか?

 自分は迷いなく映写と答える。

 成人するころまで、実家は映画館を経営していた。3階が映写室。子供心に入室することが楽しみだった。映画の内容以上に映写の方法に興味津々。自分の手でスクリーンに映し出した映画をお客さんが観賞する-。想像するだけでワクワク感があふれた。

 14歳の時、初めて映写を教わった。当時、9年ぶりに映画「ゴジラ」が復活。84年に公開された16作目は75年の「メカゴジラの逆襲」以来の作品だった。物心ついた時から映画館に通い、「-逆襲」まで愛着を持って楽しんでいた。その強い願いを知った父が映写の指導をしてくれた。

 覚えることだらけの難しい作業だった。映写機には約30カ所もフィルムを固定する部分があった。破損の防止のため、フィルムに「遊び」を持たせる部分も…。1つでもミスすれば機械は動かない。フィルムを巻き戻す専用機械さえも1つ間違えればフィルムが破損…。14歳の自分にとっては脂汗が噴き出る緊張の連続だった。

 50分以上ある映画はフィルムが数本に分割される。2台の映写機で1本ずつ順番通りに取り付ける。スクリーンの左上に出る「●」のマークが映写機を切り替えるタイミング。ドンピシャで切り替えボタンを押せた時は最高の気分になれた。ゴジラは正月映画。今となっては時効だが、クリスマスに自分の「腕」を見込んだ父から臨時の映写技師を頼まれた。従業員を休ませるためだったが、年末年始に14歳の自分が映写室を任されたことは何ものにも替え難い贈り物だった。

 父は昨年末に他界。晩年は映画館の思い出話ばかりだった。15年も前に閉館したはずだったが、父と自分の唯一の共通の話題でもあった。思えば記者となってから父の教えを受け、世界を目指した何人ものアスリートを取材してきた。父から精神論を学んだ柔道の谷亮子、柔道の手ほどきを受けた井上康生、レスリング指導を受ける浜口京子、ボクシング技術を習う亀田興毅…。世界を目指す厳しい練習に耐えられるのは、父から学び、父と同じ目線で語り合えるからだと思う。

 父子で盛り上がることができる話題はありますか?

 野球、サッカー、ほかのスポーツでもいい。携帯ゲーム、テレビゲーム、将棋、インターネット、釣り、飼育するペットのことでも問題ない。自分たちの世代が幼少時にくぎ付けになったウルトラマンは生誕40周年、仮面ライダーは生誕35周年、ゴレンジャーなどの戦隊シリーズは30作品目を迎えるほど次世代に受け継がれている。父子2代で「はまる」話題は探す意識があれば、いくらでも発見できそうだ。

 今日25日はクリスマス。父と子で共通の話題を探してみてはどうだろう。お互いがコミュニケーションのパスを出し合うことができれば、それが最高のプレゼント交換になると思う。クリスマスが「Xmas」と書くように、12月25日は父子がクロス(X)する日でもいい。メリークリスマスは、恋人たちだけのものではない。

December 26, 2006 09:46 AM

2006年12月16日

答えはロンリーワン

 以前から返答が難しいと思っている質問を受けた。旧知の後輩に、こう尋ねられた。

 後輩 どうしたらオリジナリティーを出せますか?

 頭の中に明確な解決法はない。大体、自分に「オリジナル」の何かがあるという認識も、自信もない。胸の内では「オレみたいな『色』のない人間に聞かないで」と嘆いたが、口から出たのは激励の言葉だった。

 自分 やりたいようにやれば、それがオリジナリティーだよ。

 後輩と別れた後、やはり軽はずみなアドバイスに反省した。自分の情けなさに怒りを感じた。

 社会人として駆け出しだった当時、自分も同じ悩みを先輩に打ち明けている。その時は、こうアドバイスされた。

 先輩 周囲にいる先輩のマネをしたり、観察するといいよ。

 当時は「なるほど」と納得したが、10年以上が経過した今、後輩に同じアドバイスはできない。他人から見習う部分は数多くある。しかし決定的に違う部分を感じる。当たり前のことだが、マネをしても、見習っても、決して同じ人間にはなれないという現実だ。

 今月2日のJリーグ浦和-G大阪戦を視察した鬼武チェアマンは言った。「レッズはJスタート時に『お荷物』と言われたが、努力すれば勝てるところをみせた。ただほかのクラブが同じことをしても意味がないし、見習っても仕方ない」。浦和には日本一のサポーターがいる。6万人収容のサッカー専用スタジアムがある。関東近県のクラブの中でも都内からのアクセスも良い方だ。他クラブがどんな努力をしても持てないベースがある。

 現在のJクラブ経営は入場料収入に頼っている。浦和とは違い、他クラブは集客に苦闘している。あるクラブ幹部は「地方クラブは他県のファンをスタジアムに集めないとスタンドが埋まらない。でも1度、足を遠ざけた県外のファンを呼び戻すのは難しい」とこぼす。新潟も多くの観客動員で注目されているが、当初はチケットを無料で配布していた。地元への地道な働きかけの成果が形になった。首都圏にある浦和とは違うアプローチでスタジアムを埋めている。同じようにどのクラブも企業努力はしているが、ベースが違えば方法も変えなければならない。

 ナンバーワンと同じで、オンリーワンになるのも簡単ではない。無理に奇をてらった、誰もがやっていないような行動が偶然、評価されることがある。その瞬間はうれしいが、その後は大変だ。次は前回以上の成果を挙げなければ満足できない。「らしくない」無理した行動を強いられる。再び「自分にはオリジナリティーが…」と頭を悩ませるだろう。

 独自性を打ち出すには、1人で考えるしかない。他人や周囲に流されず「これが自分の方法だ」と覚悟を決めた時、その人しか持っていない個性が生まれるだろう。独りよがりと言われるかもしれない。孤独感も味わう。だが、答えを出せる人間は自分1人だけだ。「ロンリーワン」になれた人だけが、自らのオリジナリティーをつかむのではないかと思う。

December 16, 2006 12:34 PM

2006年12月06日

思い出に変わる苦悩

 12月2日。浦和が初めてリーグ制覇を決めた時、2人のクラブ首脳は感慨深くチームを見守った。藤口光紀社長と中村修三ゼネラルマネジャー(GM)。2人には脳裏に焼き付いて忘れられない光景があった。

 藤口社長は「13年前」が頭から離れなかった。V決戦をしたG大阪は、93年5月16日のJリーグ開幕戦の相手。万博競技場のアウエー戦だった。当時、事業・広報部長だった藤口社長は「今から思えば昨日のようだ」とまで言った。

 浦和は15本のシュートが1本も入らなかった。圧倒的に攻めながらも、G大阪にわずか4本のシュートで1点を許し、0-1で負けた。ハーフタイム。前日に国立競技場で行われたV川崎(現東京V)-横浜M(現横浜)戦をほうふつさせるショーが展開された。しかし消した照明が後半開始時になっても点灯しない。1度、オフにすると再点灯まで時間を要する照明だった。後半開始は遅れ、調子が狂った。

 藤口社長は振り返る。「運営上の問題で電気も消えたし、試合もひどかったからね。あれがチームの負け続けるきっかけだったし。すごい因縁なんだよね。神様は13年かかって乗り越えるチャンスを与えてくれたのかな」。2日のG大阪戦直前には、のどの痛みを訴え、病院にも行った。風邪というよりは、重圧と緊張で体が弱っていたのではないか。ブッフバルト監督を含め、選手で93年を体験した者はいない。同社長には優勝が監督、選手とは違う光景に見えたに違いない。

 一方、中村GMは「5年前」が頭から離れなかった。01年12月、広報部長から強化部長へ。就任あいさつの時の選手らから刺すような視線。のちに退団した某コーチには無視された。「広報が急に強化になったわけだから。選手はオレにというより『会社は何を考えているんだ』と感じたんじゃないかと思う」。

 今季の同GMは息子の活躍を活力にしていた。青学大サッカー部2年のFW中村祐人。関東大学リーグ2部で17得点を挙げて得点王を奪取した。同時にチームもリーグ2位となり、来季の1部昇格を決めた。「息子の昇格は縁起が良い。うちも優勝するよ」と口にしながら優勝へのプレッシャーを和らげていた。

 それでもG大阪戦当日は寝れずに朝4時には起床。朝日を浴びながら散歩して緊張を紛らわせた。優勝後は「感動というよりは安堵(あんど)感」と肩をなで下ろした。中村GMが強化に携わってからのチーム戦績は、過去の強化トップの誰よりも高い。もはや今は現場から刺すような視線はないだろう。5年前、冷たかった選手の目が今は温かく思えるに違いない。

 優勝をささげたい人は誰ですか? この質問に闘莉王は「ボクらの見えないところで、たくさんサポートをしてくれている人に」と答えた。悲劇の歴史が多い浦和。藤口社長、中村GMとは違い、表舞台に出てこないチームの「貢献者」たちが、さまざまな思いで優勝を見届けたと思う。これからは歓喜の歴史が待つであろう浦和。強い思い入れがあるからこそ、悔しい過去が良い思い出に変わる。

December 6, 2006 11:18 AM

2006年11月26日

フリー=自由ではない

 「フリー」と呼ばれる地位は本当に自由なのか。

 11月15日、北海道・札幌で行われたサッカーの日本-サウジアラビア戦直前の練習。MF中村憲剛(川崎F)が10対10のゲーム形式練習で1人だけ違う色のビブス(背番号の入ったゲームベスト)を着用した。常に攻撃チームの味方としてボールに絡む、その役割はフリーマンと呼ばれる。

 オシムジャパンではゲームメーカーを務める選手が、この役割になることが多い。中村は「とにかくフリーなのでミスがないようにトライしました」と照れ笑いを浮かべた。フリーはフリーでも、周囲の流れを強く意識する「制約」がある。その中で中村は独自性を打ち出そうとしていた。

 サッカー取材で最初に耳にしたフリーマンとはDFのことだった。主に3バック守備でDFの中央に入る選手のことを意味した。イタリア語で自由を示すリベロとも言われる位置。このDFはマークする相手選手が存在しない。「フリーの状態」ということが語源だ。しかし他のDFの誰かが抜かれた時、代わりにマークしてボール奪取に向かわなければならない。また積極的な攻撃参加も要求される。本来のプレーは自由とは言えない。

 最近、新聞社を辞める記者が少なくない。筆力と取材力のある記者ほど、フリーライターやフリージャーナリストとして羽ばたいていく。一見、まぶしく輝いてみえるが、先輩フリーライターにこう指摘された。「今の記者の給料をフリーでキープするつもりなら今の給料の3倍は稼がないと同じ手取りにならないよ」と。会社員と違い、フリーは交通費、取材費は当然のように自腹を切る。取材で使用した携帯電話の通話料、ノートやペンにしても諸経費は自分で購入する。そんな細かい重ねが、実は大きな支出となっている。

 また同年代のライターには、こう嘆かれた。「フリーは採用してくれる媒体がなければ一銭にもならない。自分の考えと編集者が一致すればいい。大体、一致しない。その時は、編集者が要求する原稿を書かないと採用されない。フリーだからって本当に書きたいことなんて書ける人はほんの一握りさ」と。フリーは自分の「思い通り」を貫いては生きていけない。自分の主張を封印し、時には意思を曲げてまでペンを握る。あるいはパソコンに向かわなければならない。ライター、ジャーナリストのフリーにも自由がない。

 フリーが意味する自由とは何をしてもいいということではない。誰よりも周囲を観察し、全体を把握できる能力=「空気を読む」という力がなければ、自由な立場に到達することは無理だろう。読者の皆さんの周りにも、自由人と見られる人物がいると思う。実は結構、無理をしているのかもしれないと想像できる。

 何のものにも依存せず、依存されない立場に到達することは簡単ではない。本物の「フリー」とは決して誰かに与えられるものではない。しいて言えば勝ち取るものか。少なくともフリーの肩書を持つ人物は制約や制限の中で、責任を背負って生きている。フリーとは相当、疲れそうだ。

November 26, 2006 08:48 AM

2006年11月16日

理想と現実に苦しみ

 カラオケに行った。最初に、1度歌ってみたかった曲を入力した。「約束の場所」。自分の歌唱力がいまいちなことを除き、人気男性デュオ「ケミストリー」の最新曲は、詞も曲も心地よいナンバーだった。鉄棒のあった小学校のグラウンドの風景や少年時代の思い出が頭に浮かんだ。

 ★「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」。

 このサビ部分が、きっかけだった。ご存じの通りの「盗作騒動」。漫画家の松本零士氏が自身の漫画「銀河鉄道999」で登場する以下のセリフと合致すると主張した。

 ☆「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」。

 松本氏は「創作家同士のプライドの問題。男同士なら分かってほしい」と本人の謝罪を要求している。

 一方の「約束の場所」の作詞・作曲者となるシンガー・ソングライター槙原敬之も反撃する。「松本氏の作品『銀河鉄道999』について、私の個人的な好みから、1度も読んだことがありません」と完全否定。逆に「約束の場所」が起用されたCM放送休止のダメージから謝罪を要求している。松本さんの発言通り、2人はプライドを懸けて「オリジナル」であることを主張し続けている。

 スポーツ新聞の記者は創作家ではない。ライターやリポーターとも違う。ジャーナリストという言葉が的確だろうと思っている。現場で感じ取った雰囲気、取材を通じて得た情報を記者自身のフィルターを通して整理。記事のイメージを考え、紙面を編集する上司に伝える。主観や独自の視点、主張をぶつけあって記事が完成する。記者が妊婦ならば、直属の上司は助産婦といったところだろうか。特に自分自身の腹を痛めて生んだ記事には一層の愛着がわくものだ。

 読者の皆さんは、仕事で必ず理想と現実に苦しむことがありませんか? スポーツ新聞の記者も頭の中には理想の文章の流れが浮かんでいるにもかかわらず、いざパソコンに向かって打ち出した原稿がイメージと違う場合が数多くある。記者でさえ、記事に対して思い悩む。創作家であるならば、想像以上のプレッシャーであろうと推測できる。

 松本氏の作品も、槙原の作詞も、身を削る思いで生み出した作品に間違いない。DNAが入っていると言ってもおかしくない。作品=子供である以上、愛着も強いし、執念深くなる。自分は創作家のレベルには遠く到達することはできないが、主張をぶつけ合う、譲れない気持ちに強く共感してしまう。

 カラオケで「約束の場所」を歌った後、仲間が次に入力したのはゴダイゴの「銀河鉄道999」だった。創作家2人の意思とは関係なく、今回の盗作騒動を通じて、できてしまった曲と漫画の接点。当の2人はお互いのプライドが傷つけられ、盗作騒動は収束に向かったとしても「しこり」として残るだろう。しかし、マイナスだけではない。「約束の場所」で「銀河鉄道999」を連想する。その逆もある。2つの作品が最高のものだからこそ、その先には相乗効果もある。

November 16, 2006 10:22 AM

2006年11月06日

変わると変えたの差

 Jリーグは浦和が首位を走る。残り5試合となってG大阪、川崎Fなどと優勝争いを繰り広げている。熱狂的なサポーターで有名な赤いチームは、今や実力でJリーグの中心にいる。04年、05年は全大会で常に4強を確保した。そんな浦和に接し、3年前、自分が抱いた考えは間違っていたことを、あらためて思う。

 03年11月3日、現場で衝撃が走った。浦和がナビスコ杯決勝で鹿島を下した。初タイトルを手にした直後、取材していた同僚記者から「会見でオフト監督が今季限りの退団を表明した」との報告に驚くしかなかった。決勝前に犬飼社長(当時)がオフト流に限界を感じ、契約更新しないことを決断。なぜか森GM(当時)が決勝前に同監督に伝えていたことで起きてしまった「事件」だった。

 辞めたがっていない優勝監督を変える必要があるのか。前日本代表監督のジーコ氏も言っていた。「勝っている時は何も変える必要がない」と。選手起用もチーム編成も同じだろう、と疑問を抱いた。当時のオフト監督は浦和の強化3年計画の2年目。タイトルを手にし、来季は飛躍の年になるはずだった。後任監督となったブッフバルト氏は当時、トップクラブの監督経験がなかった。しかし犬飼社長は、迷いなく変えた。

 現在の浦和を見れば、変えたことが「節目」になったことが分かる。現ブラジル代表のドゥンガ監督も言っていた。監督はもちろん、コーチ経験もない同氏は「では、経験があれば勝てるのか」と言い放った。まさに、その通り。経験がないブッフバルト監督が浦和を常勝軍団につくり上げた。過去のデータや指導経験は監督業に関係ない。変えたことで浦和が強くなったことも証明してみせた。

 今の浦和を見れば代表クラスがそろう。一部には「オフト体制とは違い、大型補強で選手層が厚くなったから」との声もある。ただ自分は、その意見に否定的だ。96年の磐田も代表選手の集合体だった。中山、藤田、名波は日本代表、服部、鈴木、田中は五輪代表だった。さらにスキラッチ(イタリア代表)ドゥンガ(ブラジル代表)ファネンブルグ(オランダ代表)もいた。各国代表が主力だったが、タイトルには縁がなかった。この磐田を指揮していたのは皮肉にもオフト監督だった。

 変えることは簡単ではない。仕事や生活の環境を変えれば、慣れるまでに時間が必要になる。不透明な未来を感じながら、知らない世界に飛び込むことはストレスと不満が伴う。好調な時ほど、なおさら変えることを躊躇(ちゅうちょ)してしまうものだ。ただ03年と06年の浦和を比較すれば、あらためて大胆に変えることの意味が分かる。

 今月から自分も取材先が大きく変わった。格闘技の世界を離れ、サッカーを担当することになった。自分の意志ではない。変わったのであって、変えたわけではない。担当替えを知り、以前、恩師から聞いた言葉が思い浮かぶ。

 「変えるは一時の苦労、変えぬは一生の苦労」。

 自分も変わったのではなく、変えたと思いたい。いつか笑顔で振り返るような「節目」にしたい。

November 6, 2006 12:02 PM

2006年10月27日

採点の模範解答ない

 模範解答が欲しいのは、自分だけだったのか。そう思った瞬間、笑ってしまった。きちんとした答えが必要なんて、誰も決めてはいない。最初から「ない」と思えば、深く考えることではなかったのかもしれない。

 9月27日、東京・後楽園ホールで世界ボクシング協会(WBA)の東京総会の一環として開催された審判セミナーを取材した。WBA世界ライトフライ級王者の亀田興毅が8月の初世界戦で微妙な判定勝利をしたことを契機に現在の採点法が注目を浴びた。クローズアップされた採点基準。そんな世界戦を見極めるプロの目を体感できる絶好のチャンスだった。

 セミナーは実戦形式で行われていた。WBA審判委員会の幹部が音頭を取り、リング上で2人の選手がさまざまなケースの試合展開をデモンストレーションした。そのリングサイドで世界各国のジャッジが独自の採点を記入していた。当然、採点には「ばらつき」が出る。司会に指名された各ジャッジは自らの採点理由を堂々と発表した。数人のジャッジが発言した後、固唾(かたず)をのんだ。ついにWBAの採点基準=解答が示されるに違いない。しかし、大きく予想に反する展開が待っていた。

 WBA審判委員会は発言した各ジャッジの採点理由をすべて支持した。赤コーナーを10-9にしたジャッジに「確かにその通りだ」。青コーナーを10-9にしたジャッジには「なかなかいいところをついている」。あるいは10-10にしたとしても「そんな考え方もあるね」とすべて尊重し、そのままセミナーは終了した。さまざまなケースを実戦で見せながらもWBA側
の基準=模範解答は1度もなかった。

 なぜケース別の基準を示さないのか。ルイス・パボン審判委員長に取材した。

 パボン氏「世界の地域によって採点にばらつきがある。このセミナーをやることで採点基準を統一する1ページにしていく」。

 だ・か・ら、ケース別の基準はないの?

 同氏「いろいろな採点を意見を出してボクシングの見方が違うと認識することが第1歩になる」。

 世界戦ルールで明記した以上の基準は示さず、細部はジャッジ全員で統一するように努力すればいい、ということだった。

 セミナーで世界各国のジャッジから細かい採点基準を求めるような声は出なかった。「さまざまなケースがある」と認め合う雰囲気を感じた。世界戦を裁くプロが気にしていないということを何度も質問したところで明確な返答はない。だんだん取材している自分が「おかしい」と感じてきた。模範解答を求めていた自分に笑いがこみ上げた。

 ある読者から匿名で「8月2日は採点方法がおかしいのではなく、亀田戦の判定に疑惑があるのだ。論点のすり替えだ」との手紙をいただいた。あの8月2日から2カ月以上が経過したが、疑惑の判定とした一部のメディアも具体的な疑惑を明示も究明もしない。そして、採点方法には具体的な模範解答がない。微妙だったかもしれないが「さまざまなケースがある」。それでいいのではないか。

October 27, 2006 11:05 AM

2006年10月17日

見えて冷めたブーム

 コンビニエンスストアで「あの」光景を目撃することはなくなった。飲料水を冷やす冷蔵庫の扉を開けっ放しでおまけ付のペットボトルを購入する客とコンビニ店員の口論である。

 コンビニ店員「冷えなくなるので商品を選ぶのをご遠慮下さい。店長から言われていますので…」。

 購入客「商品を探しちゃいけないわけ? 長時間、扉を開けちゃダメだって書いてないでしょ!」。

 おまけシリーズを全部そろえるため、ペットボトルの上に付いた袋を手で触って中身を探る購入客。それをやんわりと断ろうとする店員…。こんなバトルに出くわしたころが懐かしい。

 ちょうど1年前のこと。05年10月、公正取引委員会(公取委)が「不当景品類及び不当表示防止法」に基づき、ドリンクキャンペーンに付くおまけに何が入っているのかを明記するよう飲料水メーカー側に注意を出した。それまでは、おまけは全商品に付いていれば景品とされ、最大で60種類ものおまけがあるシリーズも展開されるほどの人気があった。ここで公取委は数多くの商品を買っても全種類を集められるかどうかが運に左右されることを指摘。「消費者の射幸心をあおる」と景品ではなく、懸賞品と認定した。

 中身が分からなければ不当景品となる可能性が高まったため、飲料水メーカーも自主的に動いた。「ブラインド形式」のおまけ付き飲料水は昨年末までに店頭から消えてしまった。代わりにおまけの入った袋に中身が何かが明記されるか、あるいは袋が透明化される「オープン形式」へと移行していった。ちなみに約20年前にもロッテの「ビックリマンチョコ」が公取委で同じような注意を受けた過去がある。

 ブラインド形式だった当時、紹介されているおまけの全種類以外に「シークレット」と呼ばれる隠されたおまけが人気を集めた。しかしオープン形式となったことで「シークレット」の存在が自然消滅。大量におまけ付き飲料水を購入していく現象を「大人買い」と呼ぶ新たな言葉まで生まれたが、そんなコレクター客の心理をくすぐる販売戦略は崩れた。オープン形式の影響で販売量が伸び悩み、飲料水メーカーにとっては大打撃だったに違いない。

 小さいころ、ガチャガチャ(現在はガシャポンと呼ばれる)から何が出てくるのかワクワクした思い出を持つ人は少なくないだろう。現在もゲームセンターではUFOキャッチャーが流行している。景品のぬいぐるみ獲得に燃える人も多い。お金を支払ってでも、景品のぬいぐるみや欲しいガチャガチャのフィギュアを欲しい人もいるだろうが、大多数はギャンブル性を触発されて「はまった」のではないだろうか。

 1年前の公取委の注意を契機に、おまけ付き飲料水にはコレクター客の心理をくすぐるギャンブル性はなくなった。「中身が見えるからすぐに全部がそろうし、ありがたい」と思っているコレクター客は多くないだろう。一時は数百億円市場とも言われたおまけ付飲料水の人気。暑かった夏が終わるように、単なる一ブームとして忘れ去られようとしている。

October 17, 2006 02:49 PM

2006年10月07日

損か得か!!「●●似」

 イタリアサッカー・セリエAのメッシーナMF小笠原満男が今月1日、リーグ戦で初めてフル出場を果たした。得点に絡んでいないが、早速、積極的なプレーを評価されたようだ。イタリア紙では6・5点、あるいは6・0点と高い採点となった。Jリーグ鹿島で3冠を達成した00年以降、常にイタリアの複数クラブから興味を示されてきた攻撃的MF。今は実力を試すことの喜びを感じているに違いない。

 イタリアで小笠原の存在が知られるようになったのは「師匠」のおかげにほかならない。00年から鹿島を率いた元ブラジル代表MFトニーニョ・セレーゾ監督は現役時代、サンプドリアなどでプレー。同クラブのホームタウンとなるジェノバに別荘を持っており、静養のためにイタリアを往復することが多かった。当時、同監督は「向こうにいると、サッカー関係者から『日本人で良い選手がいるのか』と聞かれるので、小笠原を紹介しておいた」と公言していた。

 サッカー担当だった03年9月、サンプドリアに移籍したFW柳沢敦の取材をした時のことだった。同クラブのGMだったマロッタ氏も「セレーゾ監督から『中田英寿に似た良い選手がいる』と聞いた。実際に見てみたい」と強い興味を持っていた。イタリア紙の移籍市場の欄に小笠原の名前があった時も、寸評部分は「中田に似たタイプ」となっていた。当時からセレーゾ発言が独り歩きし、イタリアのサッカー関係者は小笠原のイメージを膨らませていたに違いない。

 その場に不在の人間を紹介する時、有名人に例えるのが手っ取り早い。「○○似の」と言われれば、顔でも雰囲気でも何となく想像できる。それはサッカーのプレースタイルもまったく同じことが言える。イタリアで以前から小笠原の存在を知っていた人間は間違いなく中田英が動くイメージを抱いているに違いない。イタリアでは中田英のプレーをダブらせて見ている人も少なくないだろう。

 確かに中田英と小笠原には因縁めいたものがある。02年W杯日韓大会では、日本代表トルシエ監督がトップ下に入る中田英のバックアップ選手として小笠原を据えていた。昨季限りで中田英は引退し、今季から小笠原が欧州クラブに飛び出したのも、単なる偶然ではないだろう。ただしプレーが似ていると言われただけで、小笠原は中田英ではない。プレーだけならまだいい。常に絶頂期の中田英と同じ活躍まで期待されたとしたら、たまったものではない。

 「○○に似ている」という言葉。状況によっては嫌な気分になる。例えば、似ていると言われる人間のマネをしているというような受け取り方ができる。イメージだけが先走り、実際に会ってがっかりされてしまうのも悲しいものだ。当然、メッシーナ幹部は純粋に小笠原のプレーを評価していると思われる。だがイタリアで一番成功した日本人選手に似ているという先入観は残っているだろう。「中田英似」というセレーゾ発言が、今季の小笠原を苦しめるのではないかと心配でならない。

October 7, 2006 12:46 PM

2006年09月27日

ミス挽回する「遊び」

 取材で新日本プロレスの創始者アントニオ猪木から聞いた言葉がある。「プロレスは人間の生活に似ている。アマレスとは違い、両肩をついても、すぐにフォール負けにはならない。1、2、3のカウントの途中で返して、逆転することができる。常に挽回(ばんかい)するチャンスがある」。ミスがあったとしても、すぐに再挑戦できる猶予がある。時に法を犯してしまうような大きな失敗をしても、深い反省と更生で再起する機会がある-との意味だった。

 確かに反則も5カウントまで許されている。思わず「一理ある」と深くうなずいてしまう話だった。

 プロレスは90年代後半まで人気が高かった。テレビのゴールデンタイムで放送される時代もあった。猪木の言葉を借りれば、プロレスのテンポが日本人の生活リズムと重なった=感情移入できたからだと思う。しかし00年以降はプロレスよりも、K-1やPRIDEに人気が集まっている。深夜枠で放送されるプロレスに対し、ゴールデンタイム枠で平均15%の視聴率をマークする。

 フジテレビの中継が撤退したPRIDEだが、9月10日の無差別級GP(さいたまスーパーアリーナ)では4万7410人もの観衆を集めた。一方でプロレスは東京ドーム級の興行がなくなった。

 K-1、PRIDEは、たった1発のパンチやキックで試合終了する場合が数多い。勝敗が決するまでに感情移入する時間は少ない。今の格闘技は非常にスピーディーかつ瞬時の決着が好まれていると言っていい。確かに日本人の生活リズムは変わりつつある。仕事は常に効率性や利便性を求められ、高速処理に追われる。失敗も決して許されず、ミスする人間は2度とチャンスが与えられないような環境さえある。猶予の時間が少なくなった日本人には瞬時に決着する競技の方が人生のリズムにマッチしているのかもしれない。

 人間の感情は論理や効率性だけでは片付けられない部分が多い。たとえ理解はできても、共感するには心の余裕やゆとりが必要である。どこかに無駄や不必要な手間、悩む時間や猶予がなければ、ストレスや欲求不満が爆発するに違いない。

 例えば自動車のハンドルにある「遊び」は大切。ボルトの締めすぎに注意しなければ事故の原因にもつながる。どんなに効率性や利便性が必要でも、人生に行き詰まった時、ミスした時には友人と雑談したり、好きな飲食を楽しんだりする「遊び」が不可欠だろう。以前に比べ、日本人に乏しくなってしまった要素ではないだろうか。

 もちろんK-1、PRIDEは面白い。だが再び猪木の言葉を借りれば、プロレスのテンポには現在の日本人が忘れかけている生活リズムがある。効率性や利便性だけでは解決できない「遊び」がファイトにある。たとえ人生で1度、マットに両肩をつけてしまったとしても、3カウントまでに片方の肩を上げ、逆転を狙えばいい。反則も1カウントでおしまいではない。行き詰まった時、ミスや失敗をした時、プロレス観戦で挽回のきっかけをつかめるかもしれない。

September 27, 2006 09:20 AM

2006年09月17日

等身大の平山に期待

 その怪物には「期待に応える」という瞬間を2度も見せてもらった。最初は、サッカーのオランダリーグ・ヘラクレスを退団したFW平山相太が長崎・国見高3年だった04年1月の高校選手権準決勝。平山が優勝と得点王の2冠獲得が目前まで迫り、周囲の注目が最高潮に達していた試合だ。そんな重圧のかかる滝川二高戦で、平山はいとも簡単にハットトリックを達成してみせた。取材をしながら全身に衝撃が走ったことを覚えている。

 2度目は、その翌月だった。同2月9日、アテネ五輪を目指すU-23(23歳以下)日本代表候補のイラン戦。同候補入り後の「デビュー戦」で初ゴールをいきなり決めた。「怪物」と呼ばれるにふさわしい活躍だった。既に03年秋にU-20日本代表に「飛び級」で入り、ワールドユースに出場。この年も「2階級特進」でアテネ五輪代表メンバーに入った。190センチの長身。高校生ながら若手Jリーガーと一緒にいても存在感は十分で、常に上の世代の中に入っても「期待に応える」華やかさが印象的だった。

 その後もJリーグを「飛び級」し、昨年8月にヘラクレスに入団した。筑波大を退学し、欧州リーグに専念。31試合で8得点の活躍をみせた。ヘラクレス退団後、すぐにJ1東京と契約を結んだ。本場欧州のオランダリーグでプロデビューしてJリーガーになった異例のケースである。

 目立つがゆえに期待は高まり、平山もゴールを奪ってきたはずである。しかし、東京加入が決まったと同時に「Jリーグで楽にプレーできると思ったら大間違い」「これからは厳しい目で見られる」と言った声が一部からあがっていると聞く。ただし冷静に考えてみると、21歳でJリーガーになったことに何の不自然さもない。

 高校を卒業するのが18歳。Jリーグのクラブに入ってプロに慣れるまで最低2年はかかるとされる。3年目の21歳からやっと頭角を現して定位置をつかむ。それが本来の出世路線だ。平山は下積み期間を欧州で過ごし、きっちり結果まで出してしまった。やっと本来の路線に戻ったが、やはり周囲は「飛び級」の活躍を期待してしまうということか。

 本人に強い意識はないと思うが、周囲の期待に応えようとするあまり、無理に「背伸び」をしていたのではないか。17歳あたりから常につま先だってプレーを続け、8日にオランダから日本に戻ってきた。「海外生活になじめなかった」との理由も耳にする。その苦悩は本人だけにしか分からないこと。日本ではしっかりと地に足をつけたプレーができるはずだ。

 そろそろ平山を見守る側も「飛び級」の目をリセットしたらどうだろうか。「背伸び」ばかりしていたら疲れてストレスもたまる。活躍を心待ちにしつつ、21歳のJリーガーであることも受け入れる。欧州リーグで培った経験は大きな下積みとなってJリーグで発揮されるに違いない。そして2年後の08年には本来の世代である北京五輪が待っている。平山の「期待に応える」姿が待ち遠しい。

September 17, 2006 10:27 AM

2006年09月07日

オシム語録は「財産」

 サッカー日本代表を率いるオシム監督の発言や行動が面白い。思わず「なるほど」とうなずいてしまうような名言、本当の意味を読まなければならない難解な台詞(せりふ)…。今年6月、史上最強と言われたジーコジャパンがドイツで1次リーグ敗退を喫した。未達成感のある日本のサッカーファンにとって、目の前に登場した名将の言動が新鮮に感じられるだろう。

 オシム監督はボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボが生まれ故郷である。自分は同じ土地で生まれた選手を98年の長野五輪で取材したことがある。同国ボブスレー代表のゾラン・ソコロビッチ。当時、彼の言動にも引き込まれた。

 「ビルとビルの間で練習する。そうすれば戦闘機から見えないだろう」。

 それは、衝撃的な話だった。92年にボスニア内戦が始まり、ユーゴスラビア人民軍が故郷サラエボを包囲した時のこと。この内戦でソコロビッチの双子の兄スラビアさんが砲弾を受けて亡くなった。享年26。ボブスレーは、その兄に誘われて始めた競技だった。生きることさえも必死の環境である。が、激しい爆撃で1度は避難したものの、すぐに戻って練習したそうだ。

 攻撃を避けながら、ひび割れた道路での練習。地雷をよけ、廃虚となった練習場からそりを持ち出す離れ業をやってのけた。それも「いつか平和になったら、兄のためにも滑ろう」との夢だけで体が動いた。当時の同国ボブスレー代表はセルビア人、クロアチア人らで編成された。内戦を繰り広げてきた民族が一緒に戦っていた。95年12月に和平協定を結ぶまでの約3年半で約20万人の死者と、200万人の難民を出す悲惨な内戦だったが、ソコロビッチは「民族や宗教、国境は関係ない」と胸を張っていた。

 自分の目には、長野五輪開会式でのボスニア・ヘルツェゴビナ代表が誇らしげに映った。青地にボスニアの地形を表した黄色い三角形と欧州連合(EU)旗にならった白い星をあしらった新国旗が鮮やかだった。ソコロビッチが吐露していた「兄のため、国のため、そして世界中の平和のために滑りたい」の言葉が、自分の胸に染み込む瞬間でもあった。

 オシム監督の言動にも、ソコロビッチの時と同じような「感触」がある。同監督自身、ボスニア内戦時に家族と生き別れた。当時はユーゴスラビア代表と同国リーグ所属のパルチザン・ベオグラードの監督を務める皮肉な環境下に置かれた。日本人では想像のつかない苦しみ、悲しみ、そして経験の数々を味わったはず。やはり戦争に巻き込まれ、戦火を肌で感じた人間は言動に重みがある。

 94年W杯米国大会アジア予選で日本代表を指揮したオフト監督は「サッカーにマジックはない。ロジックだけだ」が口癖だった。オシム監督も、昨年のJリーグ千葉でナビスコ杯Vという初タイトルを奪取したのは就任3年目のこと。サッカーに即効性のある強化法はない。結果を求めるのは、もっと後でいい。今はオシム監督の言動から多くを学び取ることも、大きな財産になるのではないか。

September 7, 2006 09:18 AM

2006年08月28日

難しい「長く続ける」

 長く続けるのは難しい。好きでもない物事は特にそうだ。ダイエットのためのジョギング(運動療法)や食事制限。禁煙や食事療法など健康管理上、やらなければならないこと。仕事上で必要になりそうな英語学習、自らのHPで展開し続けるブログ、主婦の方ならば家計簿を書き込むこと…。何を持ってゴールとするのか。その目標を明確にしておかないと、すぐに挫折してしまうものばかりだ。

 長く続ける極意もさまざま。ジョギング→決して無理をしないこと。食事療法→細く長く、少ない量をゆっくり食べる。ブログ→何でも良いから短く書く。英語学習→毎日、少しずつリスニングテープを聴く。家計簿→無理せず、手を抜く。計算違いの端数は目をつぶる-。無理や我慢を強いられない環境でしか、長く続けることができないという結論に到達する。それって極意とは言わないような気がするのだが…。

 長く続ける仕事選びも簡単ではない。社会人になって14年間で6回も転職している友人がいる。理由は会社の方針に疑問を感じ、イライラした末の結論である。会社のグチは社内の人間には言えない。かといって社外の人間には仕事内容を説明するのに時間が必要となって、共感してもらうには時間がかかる。何と言っても自分が納得できなければ前に進むことができない。悩んだ末に「こんな会社はつぶれるから」と辞表を出してきた。

 長く続ける気持ちはあるのだ。先の友人は言う。「結局、辞めたどの会社もつぶれていない(笑い)。やっぱりオレには我慢や忍耐力が足りないのかな…。家庭を守るために頑張るという人もいるけど、独身でも長く同じ会社で働き続ける人もいるわけだし。長く続けるコツとかないものかな」。彼は転職できる実力の持ち主だから、うらやましい。転職にこそ我慢や忍耐力が必要で、転職なんて考えない。同じ会社で仕事を続けるよりも転職する方が、普通は多くのパワーが必要だと考えるはずである。

 長く続ける弊害も出ている。30代を中心に「心の病」が増加している。確かに、自分と同じ30代でうつ病や神経症などを患い、長期休養に入っている人が多いと聞く。この世代は上司と部下に挟まれた中間管理職が多い。上司の指示に従い、自分の仕事に集中することで精いっぱい。部下の仕事にまで目を配ることは許容範囲を超えているという悲鳴も耳にする。既に「心の病」が多発している以上、我慢や無理をすればいい、というだけでは解決できない。

 長く続けるには? 一生懸命やらないことか。それとも「それをしなければ気持ちが悪い」と思うまで我慢し、習慣として定着させることか。即効性のない地道な作業になるからこそ、自分自身に対する負荷の「かけ具合」が難しいところ。我慢や忍耐には限界がある。万人に通用するような特効薬を探すことは難しい。最後は自分だけに効く極意を発見するしかない。

 長く続けるコツ。皆さんは持っていますか?

August 28, 2006 12:26 PM

2006年08月18日

柔道支援に金の力を

 毎年夏に注目する数字がある。特に担当記者を離れた翌年から、いつも気にしてチェックを続けている。まず、確認して欲しい。

 ◆02年度=20万6705人。

 ◆03年度=20万2529人。

 ◆04年度=20万3175人。

 ◆05年度=20万3116人。

 これは全日本柔道連盟の個人登録数の推移。04年度に微増しているのは、アテネ五輪で8個も金メダルを獲得した効果があったのだろうが、この4年間は20万人台が続く横ばい傾向だ。

 この個人登録数の推移では分からない深刻な問題が起きている。中学校の柔道部の減少である。この15年間で全国的に3割以上も減った。五輪で活躍する柔道選手にあこがれ、小学生が町道場で柔道を始めたとしても、中学校に柔道部がない。現在の中学生は町道場で練習し、中学体育連盟主催の大会に出場している場合が多いが、この町道場も減少傾向にある。

 現状打破へ、全柔連も対策を練り始めている。毎年、五輪金メダリストらが参加する柔道教室「JUDOフェスタ」を開き、昨年は全国5カ所で約6000人の小、中学生を集めた。また「柔道ルネッサンス」と題した普及活動の一環で、中学校の柔道支援を打ち出した。柔道を指導できる体育会系の学生の中学教員志望者を増やす活動も行うなど底辺拡大へ必死だ。

 柔道界とは別世界の総合格闘技界では、92年バルセロナ五輪金メダルの吉田秀彦が底辺拡大に貢献している。02年4月の全日本選手権を最後にプロ柔道家に転向。PRIDEで活躍する一方、東京・梅丘(世田谷区)に吉田道場を設立したのを皮切りに、神奈川県には青葉台(横浜市)と川崎、東京では杉並、大泉学園(練馬区)、千葉県市川と計6道場を運営中だ。来月には埼玉県にも進出し、川口市内に道場を開く。

 吉田も1カ月に1回、全道場の選手を集めて指導に当たっている。また試合の合間を縫って定期的に無料の柔道教室「VIVA!JUDO!」も開いている。指導料だけでは限界があるため、道場運営資金には、プロ活動での収入などを充てている。しかしプロ転向の影響はある。全柔連の規定により柔道界とは決別を強いられた。

 吉田の例を見るまでもなく、五輪金メダリストの道場は人気がある。全柔連は今後、五輪金メダリストの道場設立をサポートしたらどうだろうか。金銭的支援に加え、コーチなどの人的支援は大きな助けとなる。吉田とともにPRIDEで活躍するシドニー五輪金メダリスト滝本誠も将来的に道場設立の夢を持つ。この制度が確立されれば、道場設立を考える金メダリストも増えるだろう。

 五輪では柔道が金メダル量産の競技として期待される。その最高の舞台で頂点に立った選手が第2の金メダリストを育てる。これまで金メダリストを発掘してきた全国の柔道家たちは経済的な理由で町道場を泣く泣く閉めていった。そんな彼らへの恩返しと彼らの思いを継承するのが、五輪金メダリストではないだろうか。

August 18, 2006 09:54 AM

2006年08月08日

無我に感じる理想像

 2年前は新日本プロレスの担当記者だった。期間はわずか約6カ月間と短いものだったが、当時の社員たちのアグレッシブさには驚かされた。宣伝とソフト事業部の部長を兼務していた沼谷幸氏は連日午前0時まで社内で残業していた。マッチメークを担当していた渉外部長の上井文彦氏は車中で夜明けを迎えるほど多忙を極めていた。渉外、営業、宣伝、ソフト事業部の若い社員たちが競い合って働いていたのが好印象だった。

 その社員たちの半数が今、新日本プロレスには残っていない。理由はいろいろあったのだろうが、おのおのが辞表を提出し、次々と転職していった。昨年10月から数え、退社した社員は役員を含めて24人にものぼる。あのパワフルなライオンマークの元社員たちはどこに行ってしまったのだろう? 寂しい思いをしていた矢先に、彼らが新団体の名のもとに集結していた。

 横浜アリーナで亀田の世界戦が行われていた8月2日、後楽園ホール。6月30日に新日本を退社した藤波辰爾による新団体「無我ワールド・プロレスリング」のプレ旗揚げ戦だった。若手の元社員6人が臨時スタッフを務めた。パンフレットやグッズの売店には藤波の夫人、田中リングアナウンサーの夫人、参戦していたプロレスラーの吉江豊の夫人が立った。

 また今年3月いっぱいで退社した木村健吾元スカウト部長や元取締役の姿もあった。同興行では同1月に51歳で急逝したブラック・キャットさんの追悼セレモニーも合わせて行われ、蝶野正洋、天山広吉、永田裕志ら新日本プロレス所属選手も自主参加。既に2年前の10月に退社していた上井氏は「控室をみれば自分が新日本にいた当時の人たちばかりだったね」としみじみと懐かしがっていた。

 現在は「無我ワールド・プロレスリング」の運営に携わる沼谷氏は集まってくれた元社員らの気持ちに感謝していた。「団体との目指すプロレスの方向性の違いから退社した社員たちが、お金に関係なく、志だけで集まってくれたと思う」。同氏によれば、平日夜の興行時間でなければ辞めていった十数人の元社員が手伝いに来てくれるはずだったという。

 故ジャイアント馬場さんの全日本プロレスの流れは、今の全日本プロレスにはない。三沢光晴率いるプロレスリング・ノアの三沢イズムに受け継がれている。アントニオ猪木の新日本プロレスの流れは、現在の新日本プロレスに残っていると言える。あくまでも「無我ワールド・プロレスリング」は藤波イズムである。後楽園ホールのプレ旗揚げ戦は1825人のファンが集まった。9月15日からは福岡を皮切りに地方シリーズも始まる。真価が問われるのは、この9月だろう。

 沼谷氏は「プロレス業界の経営が厳しいのは分かった上で会社を辞めた。無我をインディー団体では終わらせない」と熱く語る。2年前。自分が新日本プロレス担当の時に感じていたパワフル&アグレッシブさはどちらにあるのか? 今は「無我ワールド・プロレスリング」にあると思う。

August 8, 2006 10:43 AM

2006年07月29日

有言実行が男の強さ

 先日、プロ野球楽天の野村克也監督夫人、沙知代さんを取材する機会があった。対面するやいなや、注意を受けた。相手の返答をもらわないうちに思わず「はい」と口走る記者のクセを「話し方がなっていない」と厳しく指摘された。当然、この取材は序盤から逆風の展開になったことは言うまでもない。予想通り? の強烈な個性と主張、オーラに圧倒されてしまった。
 さらに、私が「長嶋さん、王さんが病魔に倒れられ、順番としてご主人の体調は大丈夫なんですか」と聞いた時には返す刀で「その順番が違うのよ」とピシャリ。4年前の自らの脱税事件を引き合いに出し「本当はうち、長嶋さん、王さんの順番でしょう。うちは体じゃなくてお金の方だったけど」。こちらがどんな顔をしていいのか、思わず反応に苦慮してしまうほど明るい口調で言われてしまった。最初から最後までサッチー節に翻弄(ほんろう)されっぱなしだった。
 強い沙知代さんだが、なぜか強くなりつつある女性像を嘆いていた。夫が育児休暇を取得し、妻が深夜まで働くような逆転現象は子育てに悪影響を及ぼすと危ぶむ言葉を続けた。「例えば夫が月30万円しか稼ぎがないからパートに出るのはいいでしょう。子供を学校に送り出し、帰宅するまで働くのはいいけど、子育てを放棄するのは最低ですよ。だったら最初から子供を産むなよと言いたい」。さらに、こう続けた。「母親が安心と安全を子供に与えないといけない。安住、安全、安心が失われている時代。子供には母親が必要。母を訪ねて三千里はあっても父を-はないでしょ」。
 働く妻を支えるために夫が家事をする。もはや、それが珍しくなくなった時代である。仕事も育児も料理も仕事も家事もできる男が格好いい、みたいな風潮さえある。仕事一筋で家事をしないなんて逆に時代遅れだといわれる世の中になってきた。それって夫=男性が弱くなったからである。では、男の強さとは? 沙知代さんは「自分が言ったことに追いつかないといけない。最近は『ほら吹き男爵症候群』という病気があるそうだけど、それではダメなのよ」と分析した。有言実行こそが男の強さを証明するということだった。
 そういえば…上司からの指示に対し、簡単に「はい」と答えている自分に気が付いた。しかし本当にその「はい」と言った通りに仕事をしているのだろうかと不安に思ってきた。自信がなければ「頑張ります」と言うにとどめ、あとは全力を尽くすしかない。「はい」と言ってできなければ有言不実行という烙印(らくいん)を押されることになる。難しいのは有言実行になっているかどうかを判断するのは、まずは自分自身であるということ。ジャッジするのが自分であればこそ「まあこの辺でいいか」と甘えが出てしまう。今は「はい」という一言の重さをひしひしと痛感している。
 そこで質問です。自分の胸に手を当てて振り返ってみてください。あなたは有言実行していますか?

July 29, 2006 08:57 AM

2006年07月19日

一流の「言葉」を望む

 ジダンとマテラッツィ。サッカーW杯決勝という最高の舞台で戦った2選手が「言った」「言わない」でピッチ外乱闘を続けている。頭突きしたジダンはマテラッツィの母や姉への侮辱発言に我慢できなかったことを明かした。一方のマテラッツィは姉の侮辱を認めながらも母への発言は否定した。揚げ句の果てには親族までもが登場して舌戦を展開。国際サッカー連盟は2選手を事情聴取し、処分を決定するという事態にまで発展してしまった。

 敵を怒らせる。サッカーでは当然の作戦であることは周知の事実。中心選手の冷静さを失わせ、本来の動きを消すことも勝つためには重要だ。イタリア・セリエA、ドイツ・ブンデスリーガを取材した時、ある外国人DFはプレーや言葉で挑発することが仕事の1つであることを口にした。元日本代表DFにも「世界で戦い、勝っていくには挑発は当然」と聞いたことがある。頭突き問題も、この延長線上で起こった。絶対に負けられない舞台だったからこそ、エスカレートしてしまったのだろう。選手はプレーだけでなく言葉でも厳しいせめぎ合いをしていることを感じさせられた。

 世界で戦うスポーツ選手には、彼らだからこそ口にできる言葉があると思う。00年シドニー五輪取材の際、大会直前に故障した女子柔道の田村(現姓・谷)亮子は「神様は、乗り越えられない人に試練を与えない」と言って心配する周囲を勇気づけた。サッカー担当の時には、日本代表のFW柳沢敦が「物事は見方考え方次第。負のことさえもやがては去る」と紙に書いて心を落ち着けたことを知った。さらに「努力に勝る自信はない」と後輩を激励していた姿を見たこともある。一流選手は逆境をプラスに転換するスイッチのような言葉を持っている。

 自分も選手の言葉に助けられた経験がある。男子柔道の92年バルセロナ五輪71キロ級金メダリスト古賀稔彦氏は30歳をすぎてから好んでファンへのサインに「新風」と書き込んでいた。「新しいスタート、新しい風を取り入れる意味を込めた」と聞いた。既に全日本の中心的な存在ではなく、全日本合宿に自費参加していた立場にあったが、五輪出場と金メダル獲得をあきらめなかった。当時28歳だった自分は気落ちすると「ここは新風だな」と気持ちを切り替えるきっかけにしていた。

 最近、その古賀氏から信念をつづったというTシャツをもらった。「克己とは、体力の差でも、知識の差でもない。意志の違いだ」。己(おのれ)に克(勝)つ。現役時代から「自分に勝つことが当たり前になって、やっと世界で勝てる」と発言し続けていた同氏らしい言葉だ。もしジダンが感情を抑える=自分に勝つことができていればマテラッツィの侮辱発言に耳を貸さなかったのではないかと思う。体力でも知識でもない。意志の違いで自分自身に勝つことができる。それはジダン自身も分かっているに違いない。選手同士による衝突や舌戦は見ていて面白いが、それだけでは夢も希望もない。周囲の人間やファンには心を強くする言葉を発信して欲しい。それが一流選手だと思う。

July 19, 2006 09:12 AM

2006年07月09日

魔裟斗に求めること

 もしK-1のトップ戦線で活躍する日本人ファイターがボクシングのルールで戦ったら。今までありそうでなかった興味深い話をする人物がいる。「浪速の闘拳」亀田興毅の所属する協栄ボクシングジムの金平桂一郎会長はK-1中量級エースの魔裟斗のボクシング挑戦を提案している。「彼のボクシング技術は非常にいいものを感じる。本人の意思さえあればボクシングの試合を組みますよ。K-1、ボクシングの交流という意味でやってみるのもいいのではないか」。そう語る表情は真顔だった。

 王座奪取した実績のある日本人トップボクサーがK-1に転向した例はいくつもある。97年9月、元東洋太平洋ウエルター級王者の吉野弘幸が挑戦。昨年10月にはK-1 MAX代々木大会で、日本スーパーウエルター級王座を10度防衛して引退した大東旭、元日本ミドル級王者・鈴木悟が参戦した。吉野以外の2人はいずれも完敗しているが、逆にK-1 MAXの看板選手がボクシングに挑戦した例はない。金平会長は「ボクシング界のトップ選手がK-1に出ることでボクシングファンも注目した。逆に魔裟斗選手がボクシングに挑戦すればK-1のファンがボクシングを見てくれる。お互いのファンが増えると思うんですよ」と熱弁を続ける。

 魔裟斗は今年、K-1 MAX優勝賞金の倍増を訴え、1000万円から2000万円にアップさせることに貢献した。またテレビ視聴率20%超えを狙うことを宣言するなどステータス面を意識する主張が多かった。この発言にも金平会長は敏感に反応し「ボクシングは稼げる」と口にした。ジム所属選手の亀田は昨年11月のプロ9戦目の段階で、既に推定1500万円のファイトマネーを手にした。8月2日の世界戦の報酬は1億円と推定されるだけに説得力がある。さらに金平会長は「魔裟斗選手が本気ならこちらもお金を出しますよ」と付け加える。

 ボクサーは実績が認められればK-1デビューできる。しかしK-1ファイターのボクシング挑戦は容易ではない。ライセンス取得のためにプロテストを受験しなければならない。合格するのは4回戦までのファイトが許可されるC級ライセンス。当然、デビュー戦も4回戦となるが、金平会長は「魔裟斗選手は既にボクシングのトレーナーに指導を受けているし、プロテストも合格するでしょう。あの知名度と人気があれば、デビュー戦からテレビのゴールデンタイムで放送できるんじゃないか。放送権料が入ればファイトマネーも、さらにアップするでしょう」と好待遇になる可能性を強調している。

 ボクシングとK-1。ともにリング上でグローブを装着して戦う。見た目だけは似ているが、まったく違う競技である。スキーのジャンプ選手がアルペンに挑戦、あるいはフィギュアスケート選手がスピードスケートに挑戦するようなもの。同じような道具を使っていてもルールの違いは大きい。「ボクシングとK-1のどちらが強いのかを決めたい訳じゃない」と金平会長。今回の提案は「ボクシング→K-1」の一方通行ではなく、相互交流で格闘技界の人気の活性化を図りたいという願いが込められている。

July 9, 2006 10:28 AM

2006年06月29日

オシム監督発連鎖を

 日本にJリーグが開幕した93年以降、サッカーW杯の優勝国と日本代表監督には偶然の「連鎖」がある。94年米国大会はブラジルが優勝したが、その直後、日本代表の監督には元ブラジル代表のロベルト・ファルカン氏が就任した。98年フランス大会でフランスが優勝すると、日本代表監督にはフィリップ・トルシエ氏が就いた。ブラジルが優勝した02年日韓大会もしかり。ジーコ監督が指揮を執った。日本サッカー協会はW杯期間前から代表監督の選考に動いており、単なる偶然が続いたと言っていい。しかし今回は4度目の偶然がなさそうだ。

 次期監督にはJ1千葉のイビチャ・オシム監督の就任が確実になった。オシム氏は旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身。現在、ドイツで行われているW杯の決勝トーナメントどころか、出場32カ国にも入っていない。4度目の「連鎖」がなくなるであろうことが、心なしか寂しいと思う。ただオシム氏には心の底から日本代表の監督になって欲しいと思っている。90年イタリアW杯でユーゴスラビアを8強入りに導いた名将。欧州での実績も十分で、千葉で選手育成、チーム強化を証明しており、日本人のメンタリティーも熟知している。そして何と言っても現在65歳という高い年齢が好印象だ。

 現在、日本人は「高齢」という言葉に敏感に反応している。某生命保険会社は「50(歳)60(歳)、当たり前」というようなテレビCMを流し、高齢者を対象にした割安商品を展開する。最近、某コンビニチェーンは和菓子や白髪染めなど高齢者向けの商品を増やした新しいコンビニを出店することを発表した。煮物の和風弁当や日本茶などを扱い、店内にテーブルやマッサージチェアを用意し、飲食や会話を楽しめるスペースを設ける計画だという。20代、30代を対象としてきたコンビニが変わりつつある時代。53歳のジーコ監督よりも12歳も年上になるオシム氏は、今の日本社会を反映しているような監督とも見える。

 監督だけではない。選手にも同じことが言える。新しい若い選手が台頭してこなければ日本代表の未来はないが、今の代表の中心選手が4年後、さらにグレードアップして10年南アフリカW杯を目指して欲しい。小野、稲本、高原、中田浩ら黄金世代と言われる79年組は4年後、31歳になる。ドイツで学んだことを、次のW杯で生かすためにも彼らの経験が必ず必要になってくる。

 オシム監督が設定するスタミナと体力さえ若手と同じ、あるいは、それ以上であればいいだけだ。簡単に言えば動けるか、動けないか。心身ともに走ることさえ辞めなければいいのである。もし順調に10年南アフリカW杯まで指揮していれば、オシム監督は69歳になる。監督の高齢化が、選手にも「連鎖」反応することを希望したい。高齢化社会が叫ばれる日本のサッカー代表がベテランと言われる監督、選手が中心で戦っていてもおかしくはない。年齢通りに老け込む必要なんて全くないのだから。

June 29, 2006 11:44 AM

2006年06月19日

勝利支える守備の人

 ブラジル撃破の呪文(じゅもん)は「なかたなかわぐち」だと思っていたのだが…。サッカーW杯の話である。この言葉の意味はのちほど説明するとして、日本代表からDF田中が負傷で離脱したことが残念でならなかった。96年アトランタ五輪。1次リーグ初戦でブラジルを1-0で撃破して「マイアミの奇跡」を起こした1人。今回の代表入りの時も「マイアミの奇跡を演出」が彼の肩書となっていた。ドイツW杯メンバーに名を連ねたことを知り、自分はちょうど10年前に取材した時の話を思い出していた。

 21歳だった田中はブラジル戦を迎える数週間前から悩んでいた。仮想ブラジルで迎えた壮行試合(ガーナ五輪代表)で3バックが通用せずに1-2で敗退した。田中が相手FWをマークする松田と鈴木の後方をカバーして守っていた。しかし松田、鈴木との間に生まれた少ないスペースを相手FWに利用されて2失点を喫した。米国入り後、田中は五輪代表・西野監督、山本コーチに相談したが答えは最後まで出ずじまい。結局、ホテルで同部屋の松田に相談を持ちかけ、当時の横浜で採用されていた3人が水平に並ぶ3バック陣形への変更を勝手に決めた。現地でのメキシコとの練習マッチで試しただけの新しい守備だが、五輪ではタイミング良くオフサイドトラップを仕掛け、ブラジルを完封できた。伊東のゴール、川口の好セーブ、前園、中田英、城の活躍ばかりが目立ったが、田中はDF3人で完封できた喜びをぐっとかみしめていた。

 マイアミの奇跡を演出した選手の中で、ドイツW杯には中田英、田中、川口が入った。MFに中田英、DF田中、GK川口。このラインを名字でつなげば「なかたなかわぐち」。これは単なる偶然じゃない、ドイツW杯のブラジル戦の呪文に違いない-と勝手に想像していた。その矢先に田中の離脱が決まった。

 3人がそろわなければ勝てないと言っているわけではない。アトランタ五輪時の田中の苦悩を知っていた。10年後。今度はW杯の大舞台で中田英、川口とのラインで強敵相手に何かをしてくれそうだ、と個人的に期待していただけに、落胆も大きかった。

 とかくDFというポジションは注目されにくい。得点するFW、ゲームメークするMF、好セーブするGKに比べ、主将でない限りは登場が少ない。完封という言葉はGKの方が何となく似合うし、DFは数字で好プレーを証明しにくい。最高のパスを信じてゴール前に走るFWに比べ、最悪の展開を予想して守備を固めるのがDFである。地味かもしれないが、現実主義者でなければ務まらない。やはり現実的に悩むぐらいがDFとしてふさわしい。派手に見える攻撃陣の陰で、守備陣の模索が勝利を支えていると言っていい。

 「奇跡」を起こした10年前の田中のように、オーストラリア戦で3失点した日本のDF陣は悩んでいるのだろうか? 選手間で打開策を考えているのだろうか? 時には現実を見つめ、完封するためには手段を選ばず、勝手に守備を変更してもいい。そんなことを考えて日本守備陣に注目してみるのも悪くない。今日は日本-クロアチア戦である。

June 19, 2006 11:36 AM

2006年06月09日

勝負しろ!高原、柳沢

 3年前、欧州リーグに挑戦したサッカー日本代表FW2人の動きを複雑な気持ちで取材した。03年1月、高原直泰がドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVに移籍し、当時指揮していたヤラ監督にゴール量産を期待されていた。練習マッチを通じてストライカーとして起用され続けたが、いつしかゴール中央ではなく、左サイドでチャンスを演出するウイングのようなポジションでのプレーを要求された。本職以外でプレーする機会が増えていた。

 同じ年の9月。今度はイタリア・セリエAのサンプドリアに移籍した柳沢敦の取材でも同じような場面に遭遇した。まだチーム合流から約2カ月だったが、既に指揮官だったノベリーノ監督にMFで起用されていた。カップ戦のイタリア杯ではFW出場したが、注目されるリーグ戦では左右両サイドの出場に限られた。当時、日本代表の欧州遠征(チュニジア、ルーマニア)で2試合連続弾を決めたが、評価は変わらず。同監督は「私はあくまでサイドのMFでプレーするのが好き」と明言した。

 高原、柳沢はレギュラー奪取を最優先していた。ペナルティーエリア内から動かない味方FWとのコンビネーションを合わせるように左右にあるサイドのスペースに走って相手DFの注意を誘った。クロスを上げてチャンスも演出した。日本では同じようなプレーが高く評価されているが、逆に欧州クラブ監督の目には運動量豊富で、器用に両サイドでもプレーできる2人がFWには見えなかったようだ。違う可能性を試されたのはサイドに「流れた」からだろうと推察せざるを得なかった。

 予想通り、柳沢取材中にはイタリア人記者に「良い選手だがゴール前にいない。本来のFWの動きではない」と指摘された。また高原を取材中にドイツ人記者も「FWはペナルティーエリア内で仕事するもの。高原は左右に動く良いFWだけど、DFと勝負しないね」との印象を持っていた。サッカーは個人競技ではない。チームの勝利に貢献するプレーが最優先だろう。他選手ともコンビネーションも考え、ゴールを狙う。無失点に抑えるためにはスタミナ消耗も顧みず、前線から守備もする。しかし欧州人の目には、2人の「流れた」プレーがゴール前で相手DFとの勝負を「逃げている」ように見えてしまう。取材しながら皮肉なものだなと嘆いた。

 9日からドイツW杯が開幕する。故障を抱えているが、当初の予想では高原、柳沢が2トップとして出場することが確実視される。先月30日の日本-ドイツ戦では高原が2得点を挙げ、対戦国のマークは厳しくなるに違いない。日本を背負って臨む4年に1度の祭典である。確かに自分勝手なプレーはできない。戦術もある。システムもある。それは承知の上だが、ペナルティーエリア内に残って欲しい。我慢してエゴイストのようにゴール中央で競り合う姿が見たい。3年前の欧州挑戦当時に欧州の監督、現地マスコミが抱いた印象をW杯で覆す舞台ではないかと思う。まずは、サイドに流れないで-と願っている。

June 9, 2006 09:24 AM