記者コラム「見た 聞いた 思った」

浜崎孝宏

2006年12月29日

’06から情熱を考える

 06年もあとわずか。07年の新しい灯(あか)りが待ち構える中、各メディアで今年の10大ニュースなどが報じられ、1年間を振り返っている。スポーツ界でもいろんな出来事が起こった。

 個人的に言えば、ドイツW杯を最後にユニホームを脱いだ中田英、日本ハムの日本一に貢献した新庄がバットを置いたこと、ソフトバンク王監督が胃がんの摘出手術のため、シーズン中に戦列を離れたことが脳裏に浮かぶ。

 中田英と新庄は、その世界ではファンから圧倒的な人気を誇り、中田英が29歳、新庄が34歳での現役引退。単純に年齢だけを見れば、円熟味を増したプレーが期待できたのではという思いもある。スタープレーヤーの大きな火が、また1つ、消えるような寂しさを覚えた。

 新庄は足の肉離れなど納得いくプレーがファンに見せられなくなったことが引退理由の1つだという。中田英については分からない。ただ、W杯1次リーグ敗退のブラジル戦後、ピッチで大の字に寝転がり、泣いていた。クールなイメージがあっただけに印象的だった。

 2選手とも、絶頂期のうちに選手生活に幕を閉じた格好となったが、記憶の中には、スレンダーボディーから醸し出す強じんな精神力、プレーは現役当時そのままに、熱くファンに語り継がれることだろう。

 一方、サッカー界のキングこと「カズ」は39歳にして現役、血気盛んだ。球界でも38歳の桑田が、さらなる活躍の場を求めて、米メジャーに挑戦する。王監督も病気から少しずつ復調している様子で、V奪回へ向けて、来季も指揮を執るハートに衰えはない。

 5人は、いずれもカリスマ性のあるスターだが、生きざまが対照的に見える。カズと桑田に関して言えば、心のどこかに不完全燃焼の感があり、活躍のステージがある限り、理想のプレースタイルを追求していくのだろう。王監督が口癖のように話す「グラウンドで死ねたら本望」というコメントは、その究極だろう。

 ユニホームを脱ぐか否かは、いずれにせよ本人が決めることで、それが早いか、遅いかに正解はないと思う。ただ、その決断を下す重要なファクターとは何なのだろう。答えは多分、情熱じゃないかと思う。情熱という言葉を辞書で引くと、燃え上がるような激しい感情とある。

 家庭的環境や、金銭面の問題など情熱を仕事に存分に注げない状況の人も、世の中にはたくさんいると思うが、この感情を捨てては人生面白くない。プロ5人の生きざまをあれこれ、考えていると自分の情熱とは何なのか、という思いにたどり着いた。ふと思い出したのは「五輪に取材記者で行きたい」と記した14年前の入社願書だ。残念ながら、思いは達成されていないが、こればっかりは、誰でも取材でスポーツの祭典を味わえるわけでなく、周りの後押し、運、タイミング、実力などさまざまなものが必要なことは理解している。今となっては、入社当時の話を口に出す方がちょっぴり恥ずかしい気分になるが、そんな初志が、今の自分を支えてきたのかも知れない。

December 29, 2006 12:32 PM

2006年12月19日

体罰は×愛のムチ〇

 先日、残念な記事を読んだ。九州高野連理事長も務める鹿児島県高野連理事長が、元高校野球部員への体罰で同職を辞任したという話である。残念だったのは、「また、体罰か」といったものではなく、鹿児島県の高校野球界の顔だった人だけに、体罰といえないほどの「愛のムチ」で、要職を辞任せざるを得ない状況となったことだ。

 同理事長は県立校の保健体育教諭でもあるが辞任のきっかけとなった体罰は、グラウンドで3年の元野球部員28人を集め、このうち、まゆをそっていた7人の額を1回ずつたたいた、生徒にけがはなかったという。

 日本高野連側に、たたかれた親から匿名が寄せられ発覚したそうだが、読者にも問いたい。私が、同じ立場だったら、まゆをそった生徒の額を「ばかやろう」と言って、間違いなく「パチン」とたたいていた。「でも、たたくのは、行き過ぎでは…」と思う人もいるだろうが、子供を持つ親は少し立ち止まって考えてほしい。自分の子供がそういう行為をしたとすれば、あなたは親としてどう対応していたのか。話して言うことを聞く相手なら「まゆそり事件」は発生していないだろう。

 日本高野連も「こういう匿名が来たが、指導に当たると判断するので不問」ととは言えないのだろうか。以前このコラムで、高校野球の不祥事について書いた際、個人的な考えとして、感情に任せた体罰ではなく、教育するための愛のムチは必要だと思い、「『怒る』はアウトだが『しかる』はセーフ」と述べた。同理事長の行為は、体罰ではなく指導だったと思う。体罰がいけないことは分かるが、ある意味、歯止めをかけるお目付け役がいるからこそ、高校野球界をはじめ、世の中の秩序が保たれるのだ。

 “体罰”でも角界は教育がしっかりしている。関脇雅山が、出席予定のパーティーに1時間30分遅刻し、武蔵川親方(元横綱三重ノ海)は会場で、周囲の目を気にせず、雅山の左側頭部を「ゴツン」とやったそうだ。会場の空気は凍り付いたそうだが、親方の取った指導は、さすがのひと言だ。私の中では、この理事長の指導と武蔵川親方の指導に何ら変わりはない、と思う。ただ、結果として前者は体罰、後者は愛のムチと解釈されたのだ。

 鹿児島県高野連の発展に尽力した理事長だった。硬式、軟式野球のスコア表などを新聞各社にマメに送ってくれた。夏の県大会が始まる前に電話を入れると何か鹿児島の話題を提供しようと今年限りで廃部になる学校など、奮闘する野球部を紹介してくれた。今夏は母親を病気で亡くす不幸もあっただけに本人の胸中を察するにしのびない。57歳。「定年まであと3年だし、もう1度、監督をしてみたい」。そんな話を先日、聞いたばかりだった。
 体罰などの判断は事件発覚後、学校側の調査書をみて、日本高野連が決めるが今回の一件は情状酌量の余地があるのではないか。私が心配するのは、そんなことで指導者を含め高野連の仕事に協力を惜しまない優秀な人材を失ってしまうことだ。

December 19, 2006 10:32 AM

2006年12月09日

寺原、横浜で才能開花だ

 ソフトバンク寺原と横浜多村の交換トレードには驚いた。寺原は01年1巡目指名選手で、夏の甲子園で158キロをたたき出した剛腕投手だ。多村はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で5番打者を務めるなど横浜でも主力として活躍するバリバリのレギュラー。選手もビックリだろうが、若手の先発投手を補強したい横浜と、右の大砲が欲しいホークスとの思惑が合致した形で、久しぶりにビッグネームが動いた。

 手前みそで恐縮だが、私がホークスを担当した1年目の02年。高校卒業後の寺原を取材した。当時、ホークスは高知でキャンプを行っており、夏の甲子園で、松坂らの持つ最速記録を更新した剛腕をひと目見ようとまさに南国・土佐は「寺原フィーバー」で沸いた。寺原が移動するたびに人垣も動いた。ファンがサインをもらおうと差し出した数本のペン先が、寺原の新しいグラウンドジャンパーに触れ、予想外の“逆サイン”に寺原が、ムッとしていたこともあったほど。専属警備員も出現した。

 新人年には、西武松坂との対決で勝利を収めるなど王監督も寺原の勝ち運、勝負運を買っていた。さらに器用さも持ち合わせていた。変化球をマスターしようとすれば、簡単に投げてみせることもあった。変化球を1つ完全習得するために1年以上かかる投手も多く、相手打者に使えるボールに仕上げるには、それ以上に時間がかかるのが一般的。それでも寺原は、極端な例で言えば、試合前の練習でその球種を教わり、キャッチボールで新球種のフィーリングが合えば、いきなり本番でもテストできるほどの調整能力があったのだ。元々、寺原は左利きだった。周りが右利きが多かったため、右利きに修正させられたというが、母裕子さんも、弟の寿隆くんも左利き。勝手に想像するに右脳と左脳のバランスが、いいのかもしれない。

 しかし、器用さがもたらす問題点もあった。自分の投球フォームをすぐに忘れてしまうのだ。ソフトバンクには沢村賞右腕の斉藤和を始め、新垣、和田、杉内と好投手が身近にいる。そのせいか、寺原の投球フォームが不思議とチーム内の投手に似てくることが入団後、2、3年は見られた。和田と一緒に自主トレを行った後は、どことなく和田の左腕を包み隠す独特のフォームに似てきたことも。昨季まで在籍した尾花投手コーチ(現巨人コーチ)が巡り巡って、寺原に高校時代の投球フォーム写真を手渡したという話もあった。

 今年1年は、そんなことはなかった。どんな成績でもじっと耐えて、自分の信じた投球フォームを貫いた。あとは自信回復と何かのきっかけだと思う。チーム名が変わる寺原だが、マウンドに立って投げるという「投手」の仕事までは変わらない。まだまだ、やれる。投げるチャンスがあるんだ。このまま、160キロを出せる才能を眠らせておくのはもったいない。今季、わずか3勝に終わった寺原だが、ここ数年、味わった悔しさをマウンドにぶつけてほしい。

December 9, 2006 12:17 PM

2006年11月29日

城島よりメジャー?

 先日、福岡市内にある大学に取材に出向いた際「佐世保バーガー」ののぼりを見かけた。思い出すのは昨年のグルメ取材で、2日間で計15店舗=15個のバーガーを食べた、おいしく苦しい? 経験がよみがえった。全国的に知名度が定着しつつある「佐世保バーガー」だが、九州の誇る逸品を紹介したい。

 世間的には直径約20センチほどのジャンボ・バーガーを想像される人も多いかと思うが、ほとんどは手のひらサイズで、大きいというわけではない。

 なぜ、人気なのか。そのおいしさの秘密は、店主のこだわりに尽きる。無農薬野菜、卵など店主自らが、農家に足を運んで探した食材にこだわる素材派もいれば、オリジナルソースを染み込ませる創作派の2つに分かれる。パンもメーカーにオリジナルのパンを作ってもらったり、ベーコンを自前の工場でくん製にしたりと、かたくなまでのこだわりが、グルメファンに支持される理由だと思う。

 終戦後、50年に佐世保米軍基地が置かれ、基地内で存在していたバーガーのレシピが街に伝わり始めた。大手ハンバーガー店のマクドナルドが71年に都内に初登場したが、それ以前に佐世保ではバーガー店が点在していた。「日本発祥バーガー」と言われるのもこれが理由だ。佐世保出身のマリナーズ城島捕手よりも、むしろ知名度は上かも知れない。

 深夜まで営業しているバーガー専門店をのぞくと、市内の飲食店で一杯、お酒をたしなんだ客が、“シメのラーメン”ならぬ“シメのバーガー”をビールのつまみにやってくる光景に驚かされた。今年1月には城島とともにソフトバンク和田が、この地で自主トレを行い、老舗のバーガーを試食。美食家で知られる和田でさえ「これはファストフードではない。もはやディナーですよ」と感動。おやつ感覚ではなく、主食としても十分に通用すると太鼓判を押したほどだ。

 JR佐世保駅構内にある情報センターには、バーガーマップもあり、そこでお好みのバーガー店を検討し、食べ歩くこともできる。11月から「九十九島(くじゅうくしま)かきバーガー」を提供する店舗も点在し、地元の食材を生かしたバーガーは来年2月末まで食べられるそうだ。

 佐世保観光コンベンション協会の口木史香主任(32)は「県外客も多く、週末になれば、行列ができています」と盛況ぶりを伝えてくれた。10月末には同協会を中心に「佐世保バーガー認定委員会」が設立され、老舗のバーガー店に“お墨付き”を与え「佐世保バーガーの味を守っていきたい」(口木主任)と話してくれた。

 創業52年のブルースカイ・宇土三千代店長は「父から受け継いだ味を変えないのが私の仕事だと思っています」と話した。1個1個を丹精込めて作り上げるには、少人数の手では限度がある。変わらぬ味を提供し続けることは難しいことだと思うが、味が変わらないからこそ、食した瞬間に、学生時代などのよき思い出が「あのときは、こうだったよな」とかフィードバックされるものだ。あなたの町の名物グルメには、どんな思い入れがありますか。

November 29, 2006 11:52 AM

2006年11月19日

同じ目線で叱咤激励

 高校野球の強豪校で不祥事が相次いでいる。今夏の甲子園で準優勝した駒大苫小牧(北海道)、昨春のセンバツ準Vの神村学園(鹿児島)、常総学院(茨城)池田(徳島)など…。グラウンド外でも模範となってほしいチームだけに残念だった。

 先日、行われた秋季九州大会では、そんな心の痛手を受けて再出発しようとする監督がいた。自由ケ丘(福岡)の末次秀樹監督(48)だ。柳川の主軸選手として夏の甲子園に出場し、8打席連続安打をマーク。母校の監督に就任後、春夏通じて甲子園に6度出場した。ところが05年夏の甲子園後に、部員による不祥事の責任を取る形で柳川のユニホームを脱いだ。心機一転、自由ケ丘の指揮官として今年の夏から再スタートを切った。

 柳川時代、不祥事が発覚した直後に取材に出向くと、丁寧に監督室で対応してくれた。ショックの色は隠せなかったが、名門校ならではの悩みも打ち明けてくれた。「いろんな土地の子が集まると、なかなかまとめるのに苦労するんだよ」(末次監督)。柳川はプロ選手を多数、輩出する強豪校とあり、県内はもとより県外からの生徒も集まる。県外の“野球留学生”は育った風土、文化、気質などが若干、異なるため、なかなか部内で意思の疎通が図りにくいそうだ。

 取材した不祥事は、先輩から後輩への暴力が原因だった。被害者は、ファウルボールを拾う係だったが、試合中に居眠りして上級生にカツを入れられたとか、寮生活で輪番制になっている掃除当番を何度もサボって叱(しか)られたり、といった内容だった。頭に裂傷を負うなど「行き過ぎた愛のムチ」だった。

 最近、不祥事が発覚している高校をながめてみると、県外からの野球留学生を受け入れている強豪校が少なくない。有力選手が毎年加入する強豪校は、弱小チームからすればうらやましい限りだが、常に甲子園を目指すように“常勝”を義務づけられる。それだけに、チームを結束させる作業の中で、苦労している様子もまたうかがえる。

 自由ケ丘は、九州大会準々決勝で敗退した。「今は選手とひとときも離れたくないね。ハードルを2段下げて接することができるようになった」。新天地で末次監督は、野球が楽しくて仕方ない様子だった。

 教育の現場では、体育の授業などで先生が、子供とともに腰を下ろして、同じ目線で指導する場面をよく見掛けるが、末次監督も、今まで以上に選手の目線で指導している様子。評判も上々で、同校の選手は「どんどん話しかけてこい、と言われるので接しやすい」と話していた。

 指導上、叱咤(しった)激励は当然、ある。「怒る」ことはアウトだが、「叱る」ことはセーフだと思う。体罰はいけないが、相手との信頼=絆(きずな)がなければ、「叱ってやる」ことはできないと思う。

November 19, 2006 10:31 AM

2006年11月09日

個性出る試合前練習

 来春センバツの参考資料となる秋季大会が、全国各地で終了した。春の甲子園に直結する大会とあって、取材に出向いた九州でも見応えある試合が続いたが、試合とは別の楽しみもあった。試合前練習だ。八重山商工は、シートノックで、選手が守備につく際とノックを終えてホーム付近に戻ってくる際の2度にわたり、ヘッドスライディングで始まりと終わりを締める。同校の伊志嶺吉盛監督(52)いわく「ヘッドスライディングはけがをしやすい。気合が入っていれば、けがをしにくいからね」と、意図を説明してくれた。

 さらに宮崎県内有数の進学校・都城泉ケ丘の試合前練習も新鮮だった。シートノックに先立ち、投手がシャドーピッチングを行う。佐々木未応(みおう)監督(33)がバットを空振りした後は選手が勝手にイメージを膨らませて動く。「レフトオーバー!」。誰かの声が響き、全員がその打球に対応したプレーを行う。遊撃手は左翼手からの中継プレーに入り、投手は三塁ベース後方で三塁手のバックアップに入るという具合だ。「1球にこだわろう」が合言葉。進学校だけに平日の練習時間は約2時間だが、1球へのこだわりを取り入れたのが、選手の想像力をフル活用した“シミュレーション・ノック”なのだ。1球、それを行った後、通常のシートノックに移ったが、私にとっては斬新だった。試合前に“1球の仮想ノック”でイメージを高めるのはナインの決まり事だったのだ。

 日常の決まりきった日課や仕事は、英語で「ルーティン」(routine)と呼ばれるが、実は野球と深いかかわりがありそうだ。「チームルーティン」「打席に入るまでのルーティン」という言葉を耳にする。チームルーティンとは、チーム全体で行動をともにすることで、プロ野球のキャンプで見られる朝の散歩などはその一例だ。

 さらに、いい打者ほど打席に向かう際のしぐさ、動きが一定だ。例えば、マリナーズ・イチローは打席前にストレッチを行い、大きく素振りをしてから、打席内でバットを右手で縦に構え、投手に向けて差し出すおなじみのポーズを取る。じっくり観察すれば、打撃に移るまでのリズムが一定であるのが分かる。

 どんな監督、選手でも試合前には「自分たちの野球をしたい」とコメントする。当然、野球は相手があってのスポーツで、敵も自分たちのリズムに持ち込もうとするだけに、思い通りにはいかない。お互いにリズムを崩されないよう、自分のリズムを生み出すためにチームや個人でルーティンを工夫している。

 言われてみれば、簡単そうで、難しいのがマイペース。自分のリズムを変えないことだ。経験豊富なプロ選手と違って、甲子園などの大舞台に立てば、大観衆にのまれ、信じられないようなミスが起きるのが高校野球。九州大会で見た特長ある試合前練習は、大舞台での緊張緩和や自分たちのリズムを作り出そうという“儀式”。試合で勝った負けたもいいけど、試合前にはそのチームの意図する練習が反映されることが多い。試合前練習もまた面白い。

November 9, 2006 08:50 AM

2006年10月30日

ちゃん+こ鍋の魅力

 鍋の季節がやってきた。11月に入れば福岡の街にも、季節の風物詩ともいえる大相撲九州場所が福岡市内で開催され、町のあちこちで力士を見掛けるようになる。相撲といえば、真っ先に想像してしまうのが、ちゃんこ鍋。鍋だけじゃなく、ハンバーガー、パスタなど業界内では食事全般のことを指す言葉だそうだ。

 ちゃんこの言葉の由来は諸説あるようだが、かつて親のことを「ちゃん」と呼んだ時代があり、親同然でもある部屋の親方が子供同然の力士に鍋を食べさせることから「チャン+コ」と認識されているのが一般的。一説には、江戸時代初期に中国から長崎に伝わったごった煮風の中華鍋が、ちゃんこ鍋の始まりではないかという説もあるらしい。

 ちゃんこ鍋が、具を入れて、煮たもので味にさほど変化はないと思ってらっしゃる人もいるでしょうが、部屋によって伝わる味付けはかなり違うようだ。例えば九重部屋では、塩ちゃんこで、煮込んだ野菜から出る水分も計算して味が薄まらないように塩を多めに入れたりと工夫がみられる。また、佐渡ケ嶽部屋は、みそちゃんこ。ほかにも、ちゃんこ鍋をもてなす料理店をのぞくと、カレーちゃんこ、しょうゆちゃんこ、などバラエティーに富んでいる。ダシが違えば、具材は似ていても味がこうも変わるものかと食べた経験のある人は感じるはずだ。

 福岡市内にある元関取千代の海の岡部茂夫店長(61)に話を聞いたところ「番付が下のころは、兄弟子たちが食べ終えた鍋をのぞくと、雑炊もできないくらい何も残ってなくてね。最初に具がいっぱい入った鍋を食べてやろうと思ったもんだよ」と、ハングリー精神を培った現役時代を話してくれた。通常、各部屋では朝げいこの後、若手がつくったちゃんこ鍋を親方─関取と番付上位から順番に食べていくそうだ。

 大柄なお相撲さんが、食する鍋だけにカロリーが高そうな気もするが、あるちゃんこ料理店の関係者は「ちゃんこ鍋は、カロリーもそんなに高くないし、健康食なんですよ。しっかりした食事をしないとけがをしやすくなるのではないでしょうか」と話した。言われてみれば、野菜、魚介類がたっぷり入った豪華版“みそ汁”なのだ。

 弱い力士のままでは、いつまでたっても、鍋底をにらめっこ…。そんな屈辱から脱却するには強くなるしかないのだが、親方の経験を聞いたり、兄弟子からいろんな話を聞けたりと、輪の中ではハングリーさを養う“下克上鍋”に加えて“和”も生まれるような気がする。

 同じ釜の飯を食べた間柄…と、親しい関係の人をそう表現することがあるが、顔をつき合わせて鍋を囲み、コトコトと煮立った具を箸(はし)でつつけば、自然とコミュニケーションが図れるというもの。

 世間では痛ましい事件が起きているが、いかなる事件でも、コミュニケーション不足が、最悪のケースを招く要因の1つとなっているように思う。健康食で、お相撲さんの食べるちゃんこ鍋は、家族でも、仕事仲間でも、お互いの良さを再発見できる魅力があるように思うのですが。

October 30, 2006 11:18 AM

2006年10月20日

道具にも愛情注いで

 気付かぬうちに験を担ぐことがある。私の場合、マイカーを使用する際“鉄の塊”に「頼むゾ」と運転席側のサイドミラーをなでて、安全祈願をする。免許を取得した18歳から数年間、何度も事故に遭遇した。それから車に乗る前にはねぎらいの言葉をかけるようになった。言葉以外にもオイル交換、洗車などマメに愛情? を注いでいると不思議と事故に遭わなくなり、今ではゴールドカードだ。年齢とともに安全運転になったせいもあるだろうが、自分では「物には命がある」と信じている。車は日常生活に潤いを与えてくれる道具。「道具を大事にしなさい」。野球少年時代にも指導者に道具のありがたみを教えられたものだった。
 しかし、文化が違えば道具は道具にすぎない? 春先のメジャーリーグ取材で、一部の選手がボールを足で蹴ったり、グラブを投げるなど、道具への愛情に欠ける行為を見た。メジャーの試合では選手がベンチ内でひまわりの種を口に入れて、実を食べた後、皮をはき捨てる姿を見掛けた。メジャー1年目のマリナーズ城島は「釣り人」としてもプロ級の腕前だが、その光景に「僕は釣りに行きますから(釣り場に)来たときより、帰るときは美しくというのがありますから、ちょっと…」と話していたのをふと思い出した。マ軍関係者にその行為を聞いてみると、歯切れが悪かったことを記憶している。城島の言葉には共感した。
 車は個人の道具で、ベンチは選手みんなの“仕事場”だが、どちらもきれいに大事に使って当然だと思う。個人の持ち物をきれいにできなければ、公共のものだってきれいにできるはずはない。日本のプロ野球でも、実力が発揮できなかった選手が悔しさのあまり、グラブやバットをたたきつけたり、ベンチを蹴ったりする行為は少なくない。あまり野球少年たちには見せたくないシーンだ。グラブをたたきつける側は、悔しい感情を抑えきれず、一過性の悪気のない行為だろうが、ベンチにいる選手にすればどうだろうか。道具の音が響くと「ドヨヨ~ン」と盛り下がると思う。
 野球道具は、優れものになればなるほど高価だ。広告塔を兼ねたアドバイザリー契約を結び、無料で用具提供を受ける選手もいるが、思い出してほしい。野球少年だったころ、親に買ってもらった最初のグラブ、バット…。好きな野球をやるために必要な道具は、グラウンドでの結果がどうであろうと、粗末に扱わなかったはずだ。
 私が、グラブを買ってもらったのは小学4年のとき。その夜はうれしくて枕元に置いて寝た。就寝前まで、グラブを手に、ポケットを拳でたたいた。試合前夜には「明日はエラーなしで頼むゾ」という思いとともに、グラブに油を染み込ませた。
 日本プロ野球の06年を締めくくる日本シリーズが21日から開幕する。日本NO・1のプレーは楽しみだが、道具を粗末に扱う“プレー”だけは見たくない。

October 20, 2006 09:15 AM

2006年10月10日

伊志嶺監督の不安と期待

 高校生ドラフトで、ロッテから1巡目指名を受けた八重山商工の150キロ右腕、大嶺祐太投手(3年)の取材に携わった。同僚からは現場の生の実情を聞かれ、結論は避けたが、知ってほしいこともあった。

 大嶺の「育ての親」といわれる伊志嶺吉盛監督(52)の思いだ。ドラフト当日、同監督は予想外のロッテからの指名に表情を硬くしたが、ロッテが好き嫌いの問題ではない。精神面でもろさを見せる大嶺が高校卒業後、競争社会に飛び込んで失敗する姿を想像したくなかった。ソフトバンクに思いがあったのは、高校1年からホークスの担当スカウトが目を付け、大嶺のそんな弱さを十分知っているからだった。育成面で預けても大丈夫だと思っていた。監督の本意は、社会人野球であいさつなど礼儀作法、お金の使い方などをもう少し勉強させたかった。

 2人の付き合いは11年にも及ぶ。小学2年の大嶺少年が、公園で野球を楽しむ姿があった。当時、少年軟式野球「八島マリンズ」の指揮を執っていた同監督は、グラウンドの片隅を提供し、遊ばせた。大嶺が、家庭事情で3歳から祖父母に育てられたことも知った。伊志嶺監督は、どんな悩みでも1人で解決している大嶺少年の“親代わり”を買って出た。大嶺が小学3年のときだった。

 大嶺の祖父武弘さん(68)は当時の様子を涙ながらに話した。「監督さんが(大嶺)祐太をオレにくれ、と言った。本当の父親以上に一生懸命、祐太に野球を教えてくれた。死なない程度にビシビシ鍛えてやってくれ。(祐太を)やると言った。監督さんは神様以上の存在…」。早朝練習に“無断欠席”が続くと監督は、大嶺の枕元まで何度も起こしにきた。小学6年のとき脱線して、ゲームセンターに入り浸りの大嶺を祖父の前に連れ戻し、ビンタしたこともあった。

 大嶺と出会った同年。伊志嶺監督は、母親を病気で亡くし、事故で長男球太さん(享年20)を失った。多くは語らなかったが「大嶺には特別な思い入れがある」と言った。悲しみのどん底だった監督は、家庭環境の複雑な大嶺に何か通じるものを感じたのだろう。「野球を辞める」。大嶺が弱音を吐いたことは数え切れない。その度に説得し、道を正してきた。「好きにしろ、と思ったことは何度もある。でも、じいさんに祐太は絶対、上(プロ)に行かせるからと約束したから」。監督は大嶺を辛抱強く育てた理由をそう話す。

 先日、ロッテの指名あいさつがあったが、スケジュールの都合がつかず、監督は残念ながら欠席。ロッテ側も伊志嶺監督同様、大嶺を大事に育てたいし、人情味あふれる瀬戸山球団代表や永野スカウトもいる。ファンや、球界発展のために逸材をプロで早く活躍させたいと思っているはずだが、2人の関係を知る人は、“息子”の晴れ舞台に立ち会えなかった監督の胸中を察したことだろう。

 ネットで事実無根の「伊志嶺バッシング」をみると取材した者にとっては心が痛い。何よりも大嶺がプロのマウンドに立つ姿を心待ちにしているのは、伊志嶺監督にほかならない。大嶺にプロへのあこがれがあるのは間違いないが、今まで苦労を掛けてきた“恩師”の不安を取り除けるよう、じっくり話し合ってほしい。

October 10, 2006 01:58 PM

2006年09月30日

国体で有終「シャー」

 30日から兵庫国体が開催される。今夏の甲子園を沸かせた「ハンカチ王子」こと早実の優勝投手・斎藤佑樹(3年)が出場するなど硬式野球の部は話題満載となりそうだ。個人的に楽しみなのは、鹿児島工の代打の切り札、今吉晃一(3年)だ。168センチ、89キロのずんぐり、むっくりの体形は、鹿児島弁で俗に言われる「横ばいのこじっくい」がピタリとはまる。スタメンではないだろうが、大事な場面で必ず流れを変える頼もしい男だ。打席に入ると球場に響き渡る「シャー」の掛け声とともに相手を威かく。マウンド上の相手投手もさることながら、見ているファンもその気迫に圧倒されたはずだ。

 日刊スポーツでも甲子園では何度か今吉晃を取り上げたが、デスクから「必ず『シャー』を原稿に入れてくれ」という要望があったほどだ。私も新鮮だった。今吉晃の個人プロフィルを書いたが、実はこの青年、私と出身小学(瀬々串)、中学(喜入)が同じで、ソフトボール-軟式野球と所属した団体も同じだった。

 私と今吉晃の郷里は、鹿児島市から薩摩半島の南にある指宿方面へ約20キロ。石油備蓄基地の町、喜入(きいれ)町だ。04年11月の市町村合併で揖宿郡だった町が、同郡の中で1町だけ鹿児島市に合併された。特筆すべき観光名所はないものの、海手には錦江湾(鹿児島湾)、山手には烏帽子岳の見える風光明美な田舎町。よくぞ牧歌的な町から「ハンカチ王子」と対照的な気迫の男・今吉晃が誕生したものだな、とうれしかった。

 「シャー」の掛け声は実際には「ウッシャー」とほえているそうで、もちろん、相手投手へ「かかってこい」の思いがある。もう1つは、昨年、背骨を疲労骨折し、落ち込んだ後から、打席内で自分を鼓舞するために始めたそうだ。

 ナインが髪を伸ばしている中、今吉晃はいまだ五厘刈りで気合十分だ。先週末に行われた体育祭では、電子機械科のクラスメートからそのキャラクターを買われ、満場一致で応援団長に指名されたそうだ。先日、大手鉄鋼会社の内定をもらったが、高校で完全燃焼したせいか社会人ではバットを置くつもりだ。鉄鋼会社を選んだ理由の1つは「僕はパソコンの前でじっとしていると死にそうになるんで、汗をかいて働いた方がいいんです」。おしゃれやファッションなど気になる年齢だと思われるが、今どきには珍しい? 熱血漢。高校野球ファンには、それが新鮮で、人気を得たのかもしれない。

 熱闘甲子園から1カ月が過ぎ、再び国体開催地の兵庫県に取材のため足を踏み入れた。35度超だった猛暑と打って変わり、朝晩は肌寒くなった。駒大苫小牧の田中将大投手(3年)八重山商工の大嶺祐太投手(3年)の活躍も注目だが、試合の終盤で「一振り」にかける代打・今吉晃の「シャー」が大会をホットにしてくれるはずだ。鹿児島工は10月1日(高砂市野球場)に登場し、1回戦で日大山形と対戦する。

September 30, 2006 09:34 AM

2006年09月20日

改心もたらした台風

 遺書を残そうか。一瞬、そんなことを思った。仕事で石垣島に行った。台風13号が、島に上陸しそうだという情報は知っていたが「大したことはなかろう」とたかをくくっていた。宿泊したホテルは石垣空港より山手に車で約2分。コバルトブルーの海を一望できる、リゾート満点の宿だった。台風上陸の数時間前までは、時折、日が差すなど本当に台風が来るのか信じられないくらいの天候だった。

 しかし、台風が島に近づくにつれ曇天の空に変わり、風が強さを増した。ホテルの部屋で眠りについた後、一晩中、ベッドは揺れ続けた。窓ガラスが弓なりになりながら「ミシッ、ミシッ」と雨、風に耐え続けた。外の明かりはまったく見えないほどの雨脚だった。電気は停電。水はストップ。瞬間最大風速60メートル超の嵐が過ぎるのを待つしかなかった。部屋が左右に揺れているのを十分に両足で感じ取った。

 「ホテルが倒壊して、死ぬかもしれない」。石垣島で恐怖におののいた。そんなとき、ふと家族の面々が浮かんだ。遺書を書いておくべきか。変な思いが一瞬、頭をよぎった。書くなら何を書こうか。伝える内容を頭で整理した。まずは、妻へ。「感謝している。ありがとう。両親を大事にしてください。会社の人に手紙を出す際は、ありがとうございました、と伝えてください」。次に子供たちへ。「けんかをせず、兄妹、仲良くしなさい。ママの言うことをよく聞きなさい」。

 思えば、子供たちには迷惑もかけた。スポーツ新聞の仕事は、土日、祝祭日にイベントが行われるケースが多い。子供の運動会や父親参観日は休日と重なるケースが多いため、イベントに出席できないことも多い。会社の同僚も皆同じだ。先日、長女が通う幼稚園の父親参観日があり、仕事で欠席した。長女のクラス約30人のうち欠席者は3人だったそうだ。幼稚園の先生が、父親との共同作業を授業中に課題として与えると先生の前に出て行った長女は、悲しいかな「パパ、おらんもん」と言ったそうだ。

 高校サッカーの顔として知られる国見の小嶺忠敏総監督の言葉を思い出す。「子供は一生懸命やっている父親の背中を見とるんですよ。情熱を持って事に取り組んでおれば、子供はしっかり育つんですよ」。年間100試合以上の練習試合、遠征をこなし、情熱をサッカーに傾けながらもしっかりと子供を育てた指揮官の言葉が脳裏に浮かんだ。台風真っただ中の石垣島のホテルの一室。ろうそく1本の明かりの中で、嵐の音におびえながらも、自分の存在は何か、を考えるいい機会だった。子供の成長を見る機会が少なくとも、必死に働く後ろ姿を見せることが、父親の役目だと思った。

 恐怖の一夜は、無事に過ぎたが、翌朝、道端で真っ二つに折れた電柱を見掛けた。まだ、遺書を書くほど、一生懸命、仕事はしていない。ばかなことを考えたものだと、おかしかった。おなかがすいた。生きている実感がわいた。

September 20, 2006 09:21 AM

2006年09月10日

方言をもっと使おう

 ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく

 石川啄木の有名な短歌を思い出した。東京・上野駅に地方から上京してくる人で混雑する中にいけば、故郷(岩手)の方言を耳にすることができるという内容。やっぱり生まれ育った土地の言葉は、不思議と落ち着くものだ。

 先日、福岡ヤフードームで、そんなことがあった。試合前の練習見学に落語家の三遊亭歌之介(47)が訪れていた。鹿児島県出身者で、“さつま言葉”をウリに落語界で人気を博す先輩だ。歌之介の案内人を務めていたソフトバンク野球振興部の定岡智秋次長(53)が、鹿児島出身者の私と他社のもう1人の記者を紹介してくれた。

 名刺交換でのやりとりで歌之介は「(私に)おはんなどこな? きいれ(喜入)な。(もう1人の記者に)おはんはなっ? (枕崎)まくらざっ、な。あたいげんうっかたも、まくらざっじゃらよ」と周りの目を気にすることなく鹿児島弁であいさつしてくれた。(ちなみに喜入、枕崎は地名、おはん=あなたは、うっかた=家内、あたい=私)。全国で活躍する歌之介に故郷の「そ」で切り出されれば普段、標準語を装う周囲も方言が自然と口をついた。

 夏の甲子園でも地方の監督たちの方言は心温まる光景だった。熊本工の林幸義監督(59)に練習取材で話を聞いた。鹿児島県人の私には「ぎゃんして、ぎゃんして」という熊本の方言が頭に強烈に残った。勝利監督インタビューで、方言を口にする監督たちの姿は、出身県から飛び出して、全国津々浦々で奮闘する人々に、郷愁の念と元気を与えてくれた。初出場で4強入りした鹿児島工の中迫俊明監督(47)は、鹿児島弁の完ぺきなイントネーションでインタビューに答えた。あの方言でなければ、臨場感は伝わらない。言葉を理解できないという視聴者の声があれば、テロップを画面に映し出してもいいじゃないか。

 甲子園で話題となった鹿児島工だが、OBのソフトバンク川崎も練習後、歌之介の“さつま談議”に加わっていた。川崎はホークスきってのイケメンだが、ここ一番では、鹿児島弁を上手に操るおちゃめな男だ。ペナントも大詰めに入り、大事な試合が続く。緊張の糸はビンビンに張っていることだろう。そんな川崎にとって、何の気なしに聞こえた懐かしい方言が、安心感として届き、思わず輪に入ったのだろう。

 標準語に負けじと存在感を示す関西弁に比べ、鹿児島弁の全国浸透度はまだまだ。方言を使える人間が、ほかの場所で方言をもっと使っていかなければならないと思うのだが。鹿児島弁がテレビで流れるだけで、会社ではくすっと笑うやからも多い。「何で笑うの?」。ちょっぴり恥ずかしさも感じるが、笑いの広がる鹿児島弁は、歌之介さんのように落語やお笑いなどに向く方言なのだろうか? 県外で活躍するあなたのお国言葉には、どんな良さがありますか。

 ※三遊亭歌之介の公式HPは(http://sanyutei-utanosuke.hp.infoseek.co.jp/)。ぜひ、ご覧ください。

September 10, 2006 10:39 AM

2006年08月31日

確認したら、また確認

 「指さし確認」は継続しなくちゃならないことを再確認した。業界のベテランでもあったんです、こんなことが。

 24日から4日間、開催された男子ゴルフツアー・アンダーアーマーKBCオーガスタでの出来事。初日にハプニングが起きた。

 18歳からゴルフを始めキャリア34年を誇るジェットこと尾崎健夫(52)が、首位と1打差の5アンダーでホールアウト。テレビでしか見たことのない大物の話しぶりを聞くと、威風堂々とした雰囲気に一流プレーヤー独特の「オーラ」を感じさせてくれた。今ではシニアツアーに活躍の重きを移しながらも、レギュラーツアーで十分、戦える実力ぶりを証明してくれた。

 しかし、その数分後。スコア提出の際に自分の名前をサインし忘れ、まさかの失格となってしまった。失格が判明する直前の取材。大粒の汗をぬぐいながらジェットは「暑い中、頑張っているので(5アンダー発進は)ご褒美かも知れない」と声を弾ませていた。それだけに本人も、関係者も信じられないといった様子。アマのちょっとしたコンペでさえ、最後に自分の名前をサインすることは知っている。ジェットも何度となく行ってきた最後の“儀式”を忘れたのは、気温30度を越す暑さのせいか、はたまた、グリーンを降りて気が緩んだせいなのかは定かではない。ただ、1つ言えるのは本人が「指さし確認」が怠ったという事実。もちろん本人のミスである。

 かつて箱の中に入れたら最後だったスコア提出だが、今では最終グリーン横にスコア・エリアが設けてあり、大会の競技委員やボランティアの人たちが、選手のスコア提出を手伝い、ミスを極力防げるようサポートしてくれる。サイン忘れなどのケアレスミスは減少傾向にあったが、事件は起こった。

 先日の夏の甲子園でもそんなことがあった。八重山商工(沖縄)対智弁和歌山(和歌山)の一戦。1死一、三塁の八重山商工の攻撃。デッカイ犠飛で三塁走者はタッチアップでホーム生還。しかし、外野手の頭上を抜けたと判断した一塁走者は二塁ベースを回っており、外野手が捕球した瞬間、二塁ベースを踏まず、一塁に慌てて戻ったのだ。もちろん、同じルートで帰塁しなかった一塁走者はアウトになったが、甲子園出場を果たすほどの野球少年でもそんなことが起こった。

 夏の鹿児島大会予選で強豪・鹿児島実の宮下正一監督(34)と話す機会があった。「せっぱ詰まった場面では、ウソでしょうというミスが選手に起こる。日ごろからそういうことも確認しておかないといけないんですよ」。宮下監督が信じられない事例として挙げたのが八重山商工とまったく同じ帰塁ミスの出来事だった。

 ゴルフ、野球で起こった「珍事ファイル」の一例だが、日常生活の中にも潜んでいる。のど元過ぎれば何とか…というけれど、うっかり、焦ったり、時間に追われたりすると頭の中から「当然のこと」が消えることは多々、ある。夏休みもあとわずか。最後の思い出づくりに行楽地にお出かけ予定のご家族もあるでしょうが「火の元、戸締まり」には「指さし確認」で御用心を。

August 31, 2006 10:42 AM

2006年08月21日

涙なくても強くなる

 ♪涙の数だけ強くなれるよ─。95年にヒットした歌手岡本真夜の名曲「TOMORROW」の中でこんなフレーズがあったが、今年の夏は甲子園で、高校球児のたくさんの涙をみた。

 試合後の勝利監督、ヒーローの談話を楽しみにしているファンも多いと思う。試合終了後、選手は、バックネット裏にある通路に姿を現し、お立ち台に上がる。勝利監督、ヒーロー以外にも敗戦監督、敗れたチームの主力選手が一塁、三塁側の通路に分かれて、新聞各社は13分間の取材を行う。私の受け持ちは九州、山口、沖縄の9県の代表校だった。失策が命取りとなった選手は、悔やみ切れず、悔し泣き。ここ一番で打てなかった選手が号泣するシーンも多々、ある。

 そんな中で印象的だったのが、八重山商工(沖縄)だった。8強入りをかけた試合で智弁和歌山(和歌山)に敗れたが、プロ注目右腕、大嶺祐太(3年)らほとんどが涙なし。大嶺は言った。「10年間やってきた仲間と甲子園で最後を終えることができてうれしい。胸を張って石垣島に帰りたい」。春夏通算3本塁打を放った金城長靖(3年)も「これまで練習は苦しかったけど、最後は楽しかった。監督にありがとうと言いたい」と充実感いっぱいだった。

 意外だった。敗戦チームの選手はみんな泣くものだ、と私自身、勝手に思い込んでいたら勝手が違った。八重山商工を率いる伊志嶺吉盛監督(52)は、横浜─大阪桐蔭の1回戦を選手とともに宿舎で試合観戦。泣き叫ぶ横浜ナインの姿に「やるだけやれば涙は出ないものだ」と選手に話したそうだ。考えてみればその通り。泣きたくなければ試合に勝てばいい。勝ちたければ試合で結果を残せばいい。それができなかったから、涙を流すことになってしまう。

 勝って、感動して涙を流すことはある。しかし、小学校時代から石垣島で約10年間、苦楽をともにした八重山商工ナインは、さわやかに散った。午前6時から2時間の早朝練習。夕方から午後9時すぎまでの練習を365日こなしてきた。本気でやるだけやった人間は、後はよく自分は頑張れたな、と心の中で充実感に満ちあふれるのだろう。そんな不思議な感覚は初めてだった。

 最後の試合で先発したが、途中交代となった新城永人(3年)の話が面白かった。「自分たちの力を発揮すれば、勝てたかも知れない。でも、勝てなかったのは力を発揮できなかったということ。負けたからには負けた理由が必ずあります。厳しい練習に耐えて、ここからが人生の本番です。監督から学んだことを社会に出て生かして、初めて監督への恩返しができたと言える」。敗戦後の18歳の高校生のしっかりとした受け答えに頭が下がった。

 試合に勝った負けたも大事だが、一番大切なのは高校卒業後、社会に出ていかに役立つ人間になれるかということだ。野球でのあいさつ、練習態度、これは社会に出てからも通じる大事なマナーである。悔し涙の数だけ強くなれる人もいるかもしれないが、社会の心得が野球で培われた選手には、その涙は必要ないのかもしれない。

August 21, 2006 12:18 PM

2006年08月11日

もっと都会に温泉を

 出張や旅行での宿泊先であなたは何を楽しみにしていますか?

 私の場合は、あちこちの街で長期滞在するケースが多いため、温泉または大浴場の設備があるホテル生活を満喫する。ここまで書くと何やら、湯巡りツアーのようで普段がお気楽仕事に思われそうだが、大きな風呂に入れるかは結構、大切だ。お湯に漬かれば、翌日の体調がいいのは仕事仲間の一致した意見だ。

 今回は夏の高校野球取材で大阪市内に長期滞在している。宿泊先の選定条件は2つあった。1つは、仕事場となる甲子園球場に宿から電車1本で行ける場所。2つ目は、遅くまで食事のできる店の多い場所、だ。うれしい誤算があった。宿泊先に天然温泉があった。館内にジャクジー、サウナのある施設もあったが、部屋には温泉が引かれていた。まさにパーフェクトだ。

 温泉大好き人間としては、そんな天然温泉を味わわない手はない。早速、部屋の浴槽にお湯をためた。お湯の温度が熱かったが、ここで水を足すと温泉の成分が薄まると思い、お湯だけしか蛇口をひねらなかった。湯はすぐにたまったものの、あまりに熱すぎて湯船に漬かったのは翌朝となった。一晩待たされたが、風呂に漬かってみると、ヌルヌルする。温泉成分表が置いてあった。泉質は「単純温泉」。俗に言うお肌がツルツルの「美肌の湯」だった。消毒のために大都会のホテルで鼻に付くカルキ臭はない。昨年は九州各地の温泉宿を100軒ほど取材したが、しっとりとした肌触りは、大分の湯布院温泉に似ているようだ。

 まさに都会にわくオアシス。健康ブームに乗って、街中のホテルでも天然温泉をウリにする宿が出てきている。繁華街に位置し、交通の便もよく、温泉で疲れも取れる。こんな夢をかなえてくれるホテルが探せばあるのだ。

 ただ1つ気掛かりなこともあった。個人的にはうれしい都会の温泉だが、泉源は地下1000メートル、とうたってある。地下深いところから地上にくみ上げた温泉は、体によさげな気もするが、喜んでばかりはいられない。

 温泉は地下で鉱脈のようになっているといわれ、有名温泉の脈に当たるケースもある。古くから存在する温泉地にとっては「横入り」されるといろんな問題が起こるケースがある。例えば、泉質が変わった、温泉の色が白から透明になった、湯量が落ちたなど…。そんな問題を心配している温泉旅館経営者の声を聞いたことがある。

 最近では、温泉をトラックでどこからか運んできて、大浴場に湯を張り「○○の湯」としているホテルなども見掛けられる。本来、温泉は地下からわく25度以上のものを呼んでいるのだが、温泉水をどこかから運んできて加温しても、普通の水とは違うことを肌で感じられる。

 個人的には温泉の成分表示や温泉の呼び方など、規制が厳しすぎる気もする。運んできたって、発掘したって温泉は温泉だ。湯量の少ない温泉脈の横取り問題も多少は緩和されるだろうし、都会の温泉オアシスがもっと出現すれば、仕事もさらにはかどるのだが…。

August 11, 2006 10:22 AM

2006年08月01日

勝敗決する犠打精神

 当たり前のことを当たり前にやる。何事も簡単そうでこれが一番難しい。高校野球で九州各地を取材した。勝つために一番大事なことをあらためて気付かされた。

 私の郷土、鹿児島大会の決勝戦を見た。惜しくも準優勝に終わったものの、鹿屋(かのや)の山内昭人監督(34)の話が印象に残った。県内有数の進学校で、平日の練習時間は約2時間。「無印」の野球部が、甲子園まであと1歩の快進撃を演じた。

 山内監督は勝利の法則を教えてくれた。

 <1>送りバントを失敗しない。

 <2>投手が四死球を出さない。

 <3>失策をしない。

 <4>サインミスをしない。

 1試合を通して、4条件を完ぺきにクリアすることは難しいが、このミスが相手チームより少なければ勝利に近づく。限られた練習時間の中で、後は選手への意識付けをどうするか。山内監督は98年の夏に甲子園研修に出向いたときに感銘を受けた人物がいた。箕島(和歌山)を率い、手堅いバント戦法で79年に春夏連覇した元監督の尾藤公(ただし)氏の「送りバント」の話だ。

 甲子園を目指す監督が集まった講習会の席上。尾藤氏の講習会は次の内容だったそうだ。

 サッカーは「ボール」がゴールに入って点になるが、野球は「人」がホームに生還して点になる。人を生還させるために自らが犠牲を払ってバントを行う。高校球児も、将来は社会に出てサラリーマンとなる人も多い。会社員になれば高校野球以上に「フォア・ザ・チーム」の精神が重要性を増す。チーム(組織)として「勝利(成功)」をつかむために大事なことは、人を生かすために自分が犠牲になる「送りバント」の精神。高校球児の人間教育にとっても「送りバント」は大事だ。

 チームのために送りバントができないことは、社会に出ても仲間を思いやれない、ということになる。もちろん、相手あってのこと。万事がうまくいくわけではないが、そんな話を聞けば、バント練習の真剣度もアップするだろう。真剣度が増せば、大事な試合で確実に送りバントが決まるようになる。バントが決まれば得点圏に走者を置き、得点チャンスが増す、という「勝利の方程式」にはまってくる。

 自分に置き換えてみると、会社でなかなか「送りバント」ができていないように思う。先輩によく指摘されるが、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を怠ってしまうことがある。相手から会社に連絡が入ったときに本人がいなければ「知りません」とほかの仲間は答えるしかない。会社の仲間に余計な労力を消費させることになる。相手にも失礼にあたるし、話が会社で通っていないことは相手先から見ると社内の「風通し」の悪さ、対応力のなさを露呈しているようなものだ。

 意識して練習すれば、確実に精度がアップする送りバント。意識すれば誰でもできる「ホウレンソウ」。相手のことを思いやれるかどうかが、野球もサラリーマンも勝敗を決めるようだ。

August 1, 2006 10:18 AM

勝敗決する犠打精神

 当たり前のことを当たり前にやる。何事も簡単そうでこれが一番難しい。高校野球で九州各地を取材した。勝つために一番大事なことをあらためて気付かされた。

 私の郷土、鹿児島大会の決勝戦を見た。惜しくも準優勝に終わったものの、鹿屋(かのや)の山内昭人監督(34)の話が印象に残った。県内有数の進学校で、平日の練習時間は約2時間。「無印」の野球部が、甲子園まであと1歩の快進撃を演じた。

 山内監督は勝利の法則を教えてくれた。

 <1>送りバントを失敗しない。

 <2>投手が四死球を出さない。

 <3>失策をしない。

 <4>サインミスをしない。

 1試合を通して、4条件を完ぺきにクリアすることは難しいが、このミスが相手チームより少なければ勝利に近づく。限られた練習時間の中で、後は選手への意識付けをどうするか。山内監督は98年の夏に甲子園研修に出向いたときに感銘を受けた人物がいた。箕島(和歌山)を率い、手堅いバント戦法で79年に春夏連覇した元監督の尾藤公(ただし)氏の「送りバント」の話だ。

 甲子園を目指す監督が集まった講習会の席上。尾藤氏の講習会は次の内容だったそうだ。

 サッカーは「ボール」がゴールに入って点になるが、野球は「人」がホームに生還して点になる。人を生還させるために自らが犠牲を払ってバントを行う。高校球児も、将来は社会に出てサラリーマンとなる人も多い。会社員になれば高校野球以上に「フォア・ザ・チーム」の精神が重要性を増す。チーム(組織)として「勝利(成功)」をつかむために大事なことは、人を生かすために自分が犠牲になる「送りバント」の精神。高校球児の人間教育にとっても「送りバント」は大事だ。

 チームのために送りバントができないことは、社会に出ても仲間を思いやれない、ということになる。もちろん、相手あってのこと。万事がうまくいくわけではないが、そんな話を聞けば、バント練習の真剣度もアップするだろう。真剣度が増せば、大事な試合で確実に送りバントが決まるようになる。バントが決まれば得点圏に走者を置き、得点チャンスが増す、という「勝利の方程式」にはまってくる。

 自分に置き換えてみると、会社でなかなか「送りバント」ができていないように思う。先輩によく指摘されるが、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を怠ってしまうことがある。相手から会社に連絡が入ったときに本人がいなければ「知りません」とほかの仲間は答えるしかない。会社の仲間に余計な労力を消費させることになる。相手にも失礼にあたるし、話が会社で通っていないことは相手先から見ると社内の「風通し」の悪さ、対応力のなさを露呈しているようなものだ。

 意識して練習すれば、確実に精度がアップする送りバント。意識すれば誰でもできる「ホウレンソウ」。相手のことを思いやれるかどうかが、野球もサラリーマンも勝敗を決めるようだ。

August 1, 2006 10:18 AM

2006年07月22日

初出場にかける思い

 高校時代にかなわなかった甲子園への夢が、実現しようとしている。高校野球熊本大会取材で審判員と話す機会があった。熊本審判協会の加藤博明さん(44)だ。今夏の甲子園には、九州から熊本と宮崎から1人ずつの審判員が出場する。加藤さんは審判生活13年目で、初の甲子園。「高校時代に甲子園を目指していたし、指名されたときはうれしかった。感謝です」と人懐っこい笑みがあふれた。

 高校時代は、大分の強豪、柳ケ浦で6番三塁手として活躍した。高3の夏は日田林工に敗れ、8強で終わった。あこがれの甲子園に行けなかった悔しさが心のどこかに眠っていたのだろう。そんな加藤さんに審判の誘いがあったのは94年のこと。勤務先の阿蘇広域消防本部の仲間から誘われた。「野球に携わりたい思いがあった」。加藤さんは、大学以来となるグラウンドに再び足を向けた。

 この時期は、全国どの球場でも気温は30度を超す猛暑。球児も大変だが、審判も肉体的にはハードだ。選手は攻守交代でベンチでひと息入れるが、審判は、基本的には試合開始から終了まで、プレーの一部始終に目を光らせなければならないからだ。審判員も攻守の合間に給水は可能だが、それでも、正午すぎの3時間を超えるロングゲームを担当すると1試合で体重は約2キロ落ちることもある。昨年、沢村賞投手のソフトバンク杉内に「9回を完投すれば約2キロ体重が落ちる」と聞いたことがあるが、並みの体力では務まらない。加藤さんも一日約6キロのランニングや筋力トレを1年中継続。そんな地道な努力が、甲子園切符をつかませたのかも知れない。

 九州から甲子園に行ける審判は、毎年1~2人。センバツと選手権の2大会を各県の審判協会で順番に振り分けるそうだが、夏の甲子園に熊本から審判を送り出すのは、8年ぶり。約100人以上いる熊本県審判協会から指名された加藤さんは、意気込みをこう話した。

 加藤さん 最初で最後の甲子園だと思う。多分、緊張すると思うけど、慣れた藤崎台と同じ気持ちで平常心でいきたい。最後まで両チームを平等にジャッジして、いい位置取りで判断したい。高校時代に行けなかった甲子園。最後まで駆け回って黒子に徹したい。

 甲子園を目指すのは、高校球児だけではない。毎年、感動的な試合を陰で演出してくれる審判員にとっても夏切符を勝ち取るのは厳しい。今や際どい判定ではリプレーがテレビで流されるだけに、審判に向けられる目もシビアだ。プロ野球ではビデオ判定導入を叫んでいたどこかの球団があったが、人間がやるから面白いのだ。間違いがあってはならないのはもちろんのこと、クロスプレーで一瞬の「間」があっての「アウト!」「セーフ!」。甲子園の晴れ舞台にかけてきた審判員の思いが「間」の後の動作ににじみ出る。8月6日の甲子園開幕までわずか。選手のプレーもさることながら、審判員の思いのこもった動きに注意してみれば、また違った高校野球の楽しみを味わえるのでは。

July 22, 2006 10:22 AM

2006年07月12日

王監督の「氣力信じる」

 ソフトバンク王監督の緊急会見を出張先のホテルで知った。深夜のテレビ番組では、福岡市内で号外を手にしたホークスファンもショックの様子だった。私もベッドから跳び起きて、テレビに映る王監督の神妙な表情をじっと見詰めた。
 プロ野球選手の本塁打をナマで初めて見たのが「王選手」だった。77年3月のオープン戦。速球王として知られた阪急山口高志投手のストレートを背番号「1」が1本足打法で、鹿児島県立鴨池球場の右翼席に軽々と運んだ。当時、小学2年だったが、本塁打の魅力、プロのすごさを強烈に覚えている。そんな夢を与えてくれたスーパースターの一大事だけに、日本中のファンのショックは大きかったと思う。
 ホークスの担当時代には、試合のない日にチーム状況などを聞こうと監督宅の玄関前に各社の担当記者が自然と集まるときがある。そんなときは正午前になるとポロシャツにジーンズなどカジュアルな姿で登場。「メシでもいくか」と話すとさっと携帯電話で、大衆中華料理店などに予約を入れ、大勢でおいしい料理を何度もごちそうになった。「好きなものを頼め、もう食べないのか」。30ほど年下の記者陣にいつも気を使ってくれた。60歳を超えてもなお、若手に負けない王監督の食べっぷりには感服したものだ。
 食通な王監督だけにさぞかし高級料理店に足しげく通っているかと思いきや「誘われて行くこともあるけどね。肩ヒジ張って食べるより、ざっくばらんに食べるメシの方がうまいんだよ」と笑いながら話していた姿が目に浮かぶ。世界一の打撃術もさることながら、飾り気のない自分に正直な生き方が、ファンをハートを離さない一番の理由だと思う。
 口癖のように「食べる人間は元気があるんだよ」と話していた王監督が、ちょっぴり胃のもたれを感じていたなんて知らなかった。かつての教え子でもあるホワイトソックス井口が「王監督みたいな人は病気をしないと思っていました」と話していたが、すべてにおいてパワフルな王監督と接した経験のある人は、誰もがそう思っていると思う。
 治療で都内の病院に向かう際、福岡空港で「僕もショックだったけどまな板のコイだからね」と話していた。王監督は定期健診や人間ドックもマメに受ける人。健康管理に注意を払ってきただけに病気の早期発見で一日も早い回復を祈るばかりだ。「体の異変→即治療」と判断したに違いない。「まな板のコイ」には腹をくくったポジティブな姿勢がうかがえる。
 一般的に知られているが座右の銘は「氣力」。サイン色紙に記す2文字は、実に力強い筆跡だ。「試合に勝つ」「自分に勝つ」と自らを鼓舞し、勝負の世界で勝ち抜いてきた。病気にも衰えを知らない「氣力」で打ち勝ってくれると信じている。

July 12, 2006 11:50 AM

2006年07月02日

全力プレーを球児に

 6月28日に北九州市民球場で行われたオリックス戦。ソフトバンク松中がサヨナラ打を放ち、ヒーローインタビューでスタンドを見渡した。「喜んでくれるファンの中で(サヨナラ勝ちは)うれしい。満足していただけたんじゃないでしょうか」。初回に4点先制の楽勝ムードも、終わってみれば7─6の辛勝。リードしながら追いつかれる試合は、選手にとってはたまったものではない。しかし、守りでもダイビングキャッチを試みるなど、攻守でハツラツプレーをみせた松中の姿が印象的だった。

 日本プロ野球選手会の副会長で、チームでも昨年まで選手会長。今年はチームの会長職をエース斉藤和に委ねた。自身のチームもさることながら、プロ野球全体の発展についての仕事をより考慮しているのだろう。今年はファンありきのコメントが節々ににじみ出ている。この日ばかりではなく交流戦で久々にソフトバンクの取材に出掛けた際も、そんな話をしていた。

 松中「球場に足を運んでくれるファンにインパクトのある試合をしないといけない。お客さんはチームが強くて、魅力があるから球場に来てくれるわけで(完封負けした後など)お客さんが少なくなっているのは、ベンチから見ていても分かった。危機感を持ってどうすればファンが球場に来てくれるかを考えながら今年1年やっていきたい」。

 サヨナラ打はさておき、守備に関しては、得意なほうではない松中だけに、球に飛び込んでいく姿勢がすがすがしく感じられた。

 プロの気迫あふれるプレーは、高校球児にとってもお手本となる。3年ぶり7度目の甲子園を目指す長崎日大の野原将志主将(3年)を取材した。高校通算30発を誇るプロ注目遊撃手は、キッパリとこう言った。「好きな選手はイチロー選手です。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、凡打でも一生懸命、一塁まで走っていた。ああいう姿は高校野球にも通じる一面なので尊敬できます。だって日本のプロ野球では一塁まで一生懸命走らない選手もいるじゃないですか」。

 04年9月18、19日の2日間。日本プロ野球選手会は史上初のストライキを決行した。新規参入球団に伴う球界再編騒動に端を発した“事件”だった。選手会にもいろんな思いがあって苦渋の決断だったが、個人的には、あの決断にはガックリした。

 やはり野球をみたい。松中の気迫あふれるプレーを見せられるとプロ野球は面白い、と感じられる。一塁ベースに全力で走らないプロ選手を高校球児が見ているように、プロのプレーすべてをみんなが注目しているのである。プロ野球選手は、野球に携わるものにとっては「野球の神様」。全力で真剣にプレーする姿、強い精神力と卓越した技術の勝負が感動をもたらすからだと思う。

 2日からは夏の高校野球の鹿児島大会が開幕。8日からは福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎と開幕し、九州の夏もいよいよ本格化する。プロ選手には、高校野球に負けじと松中同様、気迫あふれる全力プレーをもっと、もっと見せてほしい。高校球児は、プロ選手の野球に取り組む姿勢にあこがれているのだから。

July 2, 2006 11:00 AM

2006年06月22日

「青」の特長生かす時

 サムライブルー-恥ずかしながら、私はその言葉の由来を知らなかった。「サムライブルーって何」。突然、気になりそんな問い掛けをあちこちに落としながら、社内を徘徊(はいかい)した。報道部の隣に位置する電子電波メディア室の若い男の子から「応援旗に文字が書いてあるじゃないですか」とバッサリ。日本代表が練習する後方に「サムライブルー」とロゴの入った旗を、パソコンの画像データで見せてくれた。

 日本サッカー協会(JFA)のホームページを検索してみると答えがあった。「SAMURAI BLUE 2006」は、日本サッカー協会が、サポーターから募集して選んだキャッチフレーズだった。

 ドイツで奮闘する日本代表を応援しながらも、キャッチフレーズの意味を今ごろ知ったとは…。とほほ。ちなみに内勤していた他部署も含め5人に緊急アンケートを実施。理解していたのは、私に画像を見せてくれた20代の男の子1人だった(ちなみに残り4人は30歳以上)。

 日刊スポーツも「ブルーニッカン」として、青を基調としたカラーページで配色してある。「ジーコ日本」などの凸版の下に敷く青い地紋は「ニッカンブルー」と名付けられており、今回、日本代表のユニホームカラーとたまたま一致する。そんな偶然も重なり「サムライブルー」には、親しみを感じてしまう。

 さわやかで、颯爽(さっそう)としたイメージがある青だが、いい話ばかりではない。かつて、福岡市天神エリアに九州初登場したカラーサロン専門店を取材した。約80本あるカラーボトルから好きな色を選んで、そのときの心理状態を診断してもらう。そして、セラピストにアドバイスを受けるという店だった。「気分はブルーってよく言いますけどそれは当たっていますよ」。セラピストがそう話していたのを思い出す。

 青は「内向的」という意味だと記憶している。ちなみに赤は「情熱的でリーダーシップ」を意味する。普段の生活でも風呂の蛇口には、青と赤のシールが張ってあるだけで何の説明がなくとも「水が青」「お湯が赤」と判断できるのは、そんな色彩心理も働いているのだろう。

 私を含めファンにとっても青色にまつわる嫌な話を紹介してしまったが、何も不安をあおるつもりじゃない。キャッチフレーズを否定するわけでもない。正月の神社参りで1年を占うおみくじで「凶」を引いてあなたは信じますか。信じるはずがない。ただ、ただ、勝ってほしい。それだけ。いばらの道を何とか切り開いてほしい。

 ブラジルとの1次リーグ1試合を残し、日本代表の自力決勝トーナメント進出は消滅した。次戦では2点差勝利が予選突破の最低条件。青色の持つ「内向的」な特長がもたらす裏返しのプラス材料。それは「自分の内面を見つめ冷静に判断する」ということだ。日の丸の国旗は白地に「赤」い丸。ピッチ上は赤い炎のように情熱的に。ハートは青く澄んだ水のように冷静に戦ってほしい。そして「サムライブルー」にふさわしいフィナーレを待っている。

June 22, 2006 10:31 AM

2006年06月12日

ヤット 独でひっ飛べ

 キバレ! ヤット!

 明日12日にサッカー日本代表が、オーストラリアとのW杯初戦を迎える。個人的なイチ押し選手は、MFの遠藤保仁だ。

 冒頭の「キバレ」はご存じの人も多いでしょうが、鹿児島弁で「頑張れ」の意味。ヤットは、ミドルシュートなどで定評のある日本代表・遠藤のニックネーム。残念ながら彼を取材した経験はないが、私と同じ鹿児島県人だけに親しみもわいてくる。強引に彼と私の共通点を探ってみた。

 その<1> 04年11月の市町村合併により、遠藤の出身地・鹿児島郡西桜島町は鹿児島市に吸収合併。私の出身地、揖宿(いぶすき)郡喜入(きいれ)町も同時期に鹿児島市となった。

 その<2> 冬の高校サッカー選手権で、私は04、05年度の2大会、鹿児島実を担当した。04年度には2度目の全国制覇。05年度には準優勝の原稿を書いた。我が母校ではないが、鹿児島実の校歌を完ぺきに歌えるほどで「不屈不撓(ふとう)」の校訓は私自身もお気に入りだ。鹿児島実の選手権初Vは、静岡学園との両校優勝で95年度大会。当時遠藤は鹿児島実の1年生。時代は違えどもともに、優勝の喜びを味わったV戦士? でもある。

 その<3> 高校時代の私の親友が、遠藤と同じ桜洲(おうしゅう)小─西桜島中出身。ちょっと苦しい…。

 そんなわけで、つながりの多い選手だった。でも、ニックネームの「ヤット」って何??? 遠藤の恩師でもある鹿児島実の松沢隆司総監督に聞いてみた。

 松沢総監督 ヤットは自己主張をしない男でね。簡単にいえば、面倒くさがり屋ですよ。最近ではどうか分からないが、Jリーガーになったころは、年賀状もあんまり書かないと言っていたし、お世話になっている人には年賀状ぐらい書かないと、と話したんだよ。ヤットが、重い腰を上げたときは「やっと(ようやく)ね」という意味で、ついたんだよ。

 遠藤は地元桜島ではサッカーの上手な3兄弟として知られていた。末っ子の遠藤だが、兄2人はともに鹿児島実のエースナンバー「10」を背負った。しかし、遠藤の高校時代は背番号「8」。松沢総監督は「10番がほしいって言えばよかったんだよ。10番は誰でも良かったけど自己主張をしなかったからね」と話した。

 西桜島役場(現桜島支所)には桜洲小の在校生から先輩に向けて「頑張れ遠藤」と書かれた横断幕が飾られている。桜島からフェリーを乗り継いで約20分の鹿児島市役所にも、玄関ロビーに日の丸が掲げられ、来客者が応援メッセージを書きつづっていくという。

 8日付の本紙2面に「サムライ23」と題した代表選手紹介の23回目で遠藤の記事を読んだ。00年のシドニー五輪で控えに甘んじた悔しさがにじみ出たコメントがあった。出場機会がどんな場面で訪れるか分からないが、自己アピールを存分に期待したい。泣こよっか、ひっ飛べ(鹿児島弁でがけっぷちに立ったら、泣いている暇はない。飛んでしまえの意味)。

June 12, 2006 08:56 AM

2006年06月02日

「日の丸」の誇り胸に

 先月末の九州女子アマゴルフの取材で、17歳の女の子からふと考えさせられた。初日にトップに立った彼女の名は一ノ瀬優希。取材中で何度も飛び出した言葉は「日の丸を背負っている」という強烈なフレーズだ。乙女のハートで必死に「日の丸」を受け止めようとする姿は印象的だった。

 一ノ瀬は、世界ジュニアなどの国際大会に出場する06年の日本代表メンバーに選ばれている。昨年の九州ゴルフ春季大会で優勝。直後の全国大会でも準優勝。小学6年の終わりごろから本格的にゴルフを始めたそうだが、急成長を遂げる彼女に「日の丸」の勲章が与えられた。

 スパイクのかかとには日の丸の刺しゅう。ウエアは「JAPAN」のロゴ入りサンバイザーとポロシャツ。「ナショナルチームにも入ったし、プライドを持ってプレーしないといけない」。彼女の言葉を聞くにつれ、そんな責任感と自覚を持った人材が代表にふさわしい、とうなずくばかりだった。

 取材を終えると同時に自分はどうなんだ、と思った。「私は日刊スポーツを背負っている」。そう言い切れるのか。そう言いたいところだが、日刊スポーツの誇りどころかデスクには埃(ほこり)扱いされるほど仕事内容は未熟。声に出して言える立場ではない。彼女は立派だ。プロを目指す過程で失敗はあるだろう。それでも彼女には声に出せる勇気がある。「○○会社を背負っています」と言い切れるサラリーマンが、どれほどいるものだろうか。彼女のそんな気丈なコメントは、新鮮だった。

 一ノ瀬に「日の丸」の重さを感じさせてくれたのは、意外なことにイチローだった。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日の丸が揺れる姿に、イチローがチームをけん引する姿に、感動をもらったそうだ。記憶に新しい重圧に打ち勝った王ジャパンの「世界一」は、競技は違えども、プロを目指す者としてデッカイ目標だ。世界のセンターポールに日の丸を掲げたいと思う気持ちは同じ。将来の全競技の日本代表予備軍にとってもイチローの姿が大きな刺激となったはずだ。

 手前みそで恐縮だが、私は小学4年のときにソフトボール少年団に入り、野球を9年続けた。並行する形で相撲も6年やった。というより母に入部させられた。「団体競技では負けたとき、責任の所在がぼける。勝っても負けても個人競技のほうが自己責任でやれるから、ここ一番での精神力が違う」。そんな母の言葉が思い出された。今でもまわしを1人で締められるのは、ちょっとした私の自慢だが、野球ではなかった悔し涙を流したのは、相撲で初黒星を喫したときだった。野球という団体競技で、あえて「日の丸」の誇りを前面に押し出したイチローの行動と言動。結果も伴ってカッコ良さは際立った。

 いよいよ6月。話題の中心はもちろんジーコジャパン。サポーターならずとも一ノ瀬同様、日本中の国民が注目している。日本代表は誰にも負けない「日の丸」への誇りを持っていることは十分承知。勝ち負けはともかく、国民の期待を背負って、90分間、どん欲にボールを追いかけてほしい。

June 2, 2006 10:51 AM

2006年05月23日

福岡で「きになる」こと

 「きになる」ことがある。我が家は福岡市内にあるマンションの8階。毎年、この時期になると早朝のベランダから「ク~、ク~」と寂しげな鳴き声が「起床ラッパ」に聞こえてくる。身ごもっていると思われるハトは、大きなおなかをゆすり、ベランダにある花壇に腰を下ろした。今にも卵を産み落としそうな勢いだ。見張り役をかねて、すき間風漏れるベランダ近くを寝床とする私の出番だ。ベランダにはだしで飛び出し「お願いだからウチで産まないで」と懇願した。ハトは私の意思が通じたのか、退散してくれたが、ハトのふんが病気を誘発するというニュースを耳にする。「平和の象徴」を受け入れざる姿勢は反省ものだが「やむなし」だった。

 その話を淡々とブログに書き記した。すぐさま同僚の反応がコメントとして5件寄せられた。「平和の象徴やぞ、ヒドイな」という声もあれば「ハトのふんやら、あれは許したらアカン。いろいろ試したけど大きな磁石を置くのがいい」という先輩のアドバイスもあった。ハトに頭を悩ませている人はマンション暮らしの人が多かった。

 伝書鳩(でんしょばと)という言葉もある。昔から人間とかかわりのある鳥に間違いはないが、ハトがマンションに立ち寄るということは、人目につきにくい場所に巣を作るという性質もさることながら、ハトが安心して生活できる環境が失われつつあるからだろう。

 週末になると新築マンションの新聞折り込み広告が頻繁に入ってくる。近所の古い建物が壊されたかと思いきや1年ほどで高層マンションに早変わりだ。数年前まで自宅玄関前から、福岡ヤフードームと福岡タワーがきれいに見えたが、ここ最近建った高層マンションの影響で視界が少し遮られてしまった。福岡市の人口は、1日現在で約140万人。平成に入った89年からここ16年で約18万人増。人口増に伴うマンションラッシュが、ハトの住居略奪に少なからず影響しているのではないかと思った。

 そんな問題を解決するヒントがあった。福岡市にあるNPO法人(特定非営利活動法人)新聞環境システム研究所(加来睦博理事=43)の活動だ。福岡市内の所定2カ所で1カ月に2度、古新聞回収を行っており、地域通貨(1ペパ=新聞1キロ)を発行してくれる。30ペパになれば地下鉄、バスなどの80円割引券を発行してくれるシステムだ。加来理事は「将来的には売り上げの一部を植樹に使いたい」と話した。古新聞は紙ボードやベッドに変身し、その収益で将来的には古新聞が、原材料の「木になる」わけだ。現在、福岡市を含め県内5カ所で古新聞リサイクルを実施しており、環境問題と住民の実益をかねた活動に会員数は右肩上がりだそうだ。

 木になる植樹の継続は、ハトを含めた鳥にも好環境をもたらすだけでなく、地球温暖化抑制にもつながるだけにいい取り組みだと思った。

 人にもハトにも優しい「きになる」活動。あなたの町では、どのような緑あふれる街づくりが、行われていますか?

May 23, 2006 10:06 AM

2006年05月13日

リストラの星に

 道産子のベテランが、心地よさそうに快音を響かせた。北九州市で開催中の全国社会人野球九州大会。沖縄電力の渡辺孝男選手は、初戦の広島ウェルネススポーツ学院戦で2打席連発アーチを放った。弾道に驚いた。182センチ、90キロの右の大砲は、2発とも外角球を、見事に逆方向の右翼席へ運んだ。

 話を聞くと野球にかける情熱をあらためて知らされた。今年で32歳になる渡辺は、91年に西武からドラフト7位指名された。9年間のプロ生活をいったん終え、01年から2年間、社会人野球サンワード貿易に所属。強肩、強打の捕手は、03年からは再び日本ハムへ。沖縄の地を踏んだのは昨年のことだった。ちなみに西武、日本ハム時代の計11年間のプロ成績を調べてみると計4試合に1軍出場(93年1試合、94年2試合、96年1試合)。打撃成績は残念ながら残っていなかった。打席で楽しそうに見えたのも、そんな悔しさがあったのかも知れない。

 日本最高峰のプロの舞台からすれば、プロ予備軍ともいえる社会人野球への転身。「正直言ってプロと社会人の野球レベルの差を感じるときはありました。でも、1軍で給料をいっぱいもらってなかったし、社会人で野球をやることにプライドもなかったですから」。良き兄貴分としてチームをけん引する男は、人懐っこい笑顔でそう言った。

 2本塁打を放った直後「3打席連続」のかかった打席で取った行動はまさに「アニキ」の振る舞いだった。「調子の出ていない後輩を公式戦の打席に立たせた方がいい」。渡辺はコーチにそう進言し、後輩に打席を譲った。沖縄では全国区の強豪チームと練習試合をする機会に恵まれず、公式戦の1打席が何よりも得難い経験になることを知っているからだ。「野球は1人がガンガン打てば勝てるというわけでもないですから」。チャンスを譲った1打席には「フォア・ザ・チーム」の精神もさることながら、後輩への愛情もあったのだろう。

 渡辺がプロに入った91年ドラフトの同期には、カル・リプケンのフルイニング出場記録を更新したばかりの「アニキ」こと阪神金本や米大リーグで活躍する田口(カージナルス)ら、若手に負けじとスポットライトを浴びているベテランも多い。

 大会パンフレットには、渡辺以外にも近鉄時代に最多勝を獲得した小池秀郎(NOMOベースボールクラブ)や元阪神の的場寛一(トヨタ自動車)ら懐かしい顔触れが並んでいた。プロアマ交流が盛んになってきた昨今。現実的にはわずかな可能性かも知れないが、社会人の舞台で野球を続けている以上、再びプロで花を咲かせる可能性はゼロではない。ソフトバンク宮地は、西武からかつて戦力外となったが「リストラの星」として見事に新天地ホークスで復活したケースだってある。

 36歳の自分にとっても、そんなベテランの活躍を目の当たりにすると元気が出るものだ。今季限りで引退を表明している新庄みたいにカッコいい引き際を求める選手もいいが、タフな精神力でプロへの思いをあきらめない選手たちも、また、カッコいい。

May 13, 2006 10:24 AM

2006年05月03日

機微溢れる高校野球

 先月末に春季九州高校野球大会を取材した(ちなみに今春のセンバツに出場した沖縄の八重山商工が初優勝)。会場は熊本市にある藤崎台県営野球場。スコアボード横にある大きなクスノキが有名で、この“気になる木”は、ソフトバンク秋山2軍監督、西武伊東監督らスーパースターの成長を見守ってきた。藤崎台球場は60年の熊本国体で完成した。96年にはメーンスタンドの改修工事が行われ、身体障害者席などを整備した。

 記者席も身体障害者席と同じメーンスタンドの3階にある。試合が終わるとエレベーターに乗って3階から1階へ移動。両チームの監督に話を聞くための正面玄関中央で左右に目配せする。監督の取材が終わると選手へ。敗戦のショックで落ち込んだ選手はなかなかロッカー室から出てこない。そんなこんなで、あれこれ取材を終えて記者席に戻ると、次の試合の3回まで進んでいたなんてケースは多々ある。

 3回までのスコアブックを追いかけてつけなきゃいけないが、そんな私を支えてくれるのが、記者席で知り合った1人の高校野球ファンだ。白髪のダンディーな62歳の男性で、名前は坂口士孝(しこう)さん。藤崎台球場の改修工事で身体障害者に開かれた球場となって以来、高校野球が開催されると足しげく通っているという。坂口さんは、生まれつき足が不自由で車いす生活を余儀なくされた。「自分が何かするというわけじゃないけど、次に大会があるというと意識して行こうかなって思う。生きる上での楽しみだね」。ちなみに大会は4月22日から28日まで開催されたが、皆勤賞はもちろんのこと、現場到着は私より早かった。

 坂口さんは小学校卒業以来、自宅に引きこもりがちだったが、38歳のとき天草のリハビリ施設に移った。そして、50歳のとき身障者の仲間が熊本市で1人暮らしを始めるというので「自分も」と一念発起し、熊本市で初の1人暮らしをスタートさせたという。

 高校野球の魅力と自分の踏ん張りをダブらせていた。「高校生が汗ビッショリで滑り込みとかやっている姿を見ると自分もあのグラウンドで野球をやってみたいな、という気持ちになるんですよ」。親や施設の世話になってきた坂口さんだが、高校生のそんな姿に触発され「勇気が要った」という銀行ATMでのお金の出し入れなど生活面でも積極的になったと感じているようだ。

 藤崎台球場では高校野球の場合、身体障害者はメーンスタンド1階で受け付けを行えば入場は無料。福岡から試合観戦に訪れていた身体障害者もいたようだが、そんな人々に刺激ある球場の環境を見ると、逆に熊本県や市の確かな仕事ぶりを肌で感じられる。

 夏の甲子園へ向けて6月には沖縄大会が先陣を切って開幕する。今回の熊本同様、04年の夏の宮崎大会で私のスコアブックをつけていたのはトマトを栽培する農家の社長だった。地方大会に足を運べば、記者もいろんな人と知り合い、そして、その人の生きざまや機微に触れることができる。グラウンド内外でもパワーを分け与えてくれる夏の高校野球が待ち遠しい。

May 3, 2006 10:34 AM

2006年04月23日

日本の温泉は最高

 目まぐるしく色の変わる電光看板を上空から目にし、九州の地・福岡に戻ってきたことを実感させられた。2カ月ぶりの帰国。取材先だった天候不順の米シアトル同様、福岡空港で出迎えてくれたのは雨だった。福岡を飛び立ったのはバレンタインデー前のこと。乗り込んだタクシー運転手は「桜の時期は過ぎましたけど、しかし、最近のホークスは、やお、いかんですたい(うまくいかない)」とポツリ。窓外のぬれた桜の木も寂しげだったが、カーラジオから流れるホークスの苦戦中継に運転手の背中もどこか寂しげだった。プロ野球が真っ先に話題となったのが日本らしかった。

 約1週間、会社から休みをもらった。真っ先にやりたかったことがあった。温泉につかることだ。習慣というのは恐ろしい。鹿児島出身の私は、幼いころから入浴料300円台で県内の至るところの温泉に入ってきた。「疲れたら温泉」という行動は、鹿児島県人にとっては当たり前のことだと思われてならない。米国でジャグジーはあったものの、水道水を温めただけでは物足りない。大浴場で頭にタオルをのせ「は~っ」と深呼吸するのが温泉の最高のぜい沢だと思う。

 行き先は、鹿児島と宮崎の県境に位置する霧島温泉にした。約140年前に坂本竜馬と妻おりょうが、日本で最初に新婚旅行をした場所といわれ、00年度に環境省が出した温泉統計書によると全国温泉地別の源泉総数で、霧島温泉郷は全国8位(ちなみに1位は大分・別府温泉郷)の名門。高千穂の山あいの新緑から、もうもう立ち上る湯煙とともに、ゆで卵にも似た独特の硫黄臭が鼻をつく。これぞ、日本の温泉という九州を代表する温泉地で、新緑もまぶしかった。

 新婚旅行ではなかったものの、私の60日間の出張中、何かと気苦労もあった? 妻が「(私の)顔を見るとムカツク」と言うので、彼女の慰労も兼ねた。お世話になった宿は「硫黄谷温泉霧島ホテル」。竜馬夫妻が同ホテルの前身、霧島館時代に宿泊したこともある老舗で、館内には竜馬が新婚旅行を楽しんでいる内容を姉に向けて送った手紙などがあった。1866年、京都・寺田屋事件で切り傷を負った竜馬が、湯治をかねてこの地を訪れ、約20日間かけて湯巡りを楽しんだ様子がうかがえた。

 泉質も多彩だ。乳白色の硫黄泉、ミョウバン泉、塩類泉、鉄泉などある。温泉効果については個人差があるため何とも言えないが、地元では、アトピー性皮膚炎、糖尿、ぜんそく、痛風など現代病を含めたさまざまな症状に合わせ、よく効く評判の温泉が点在しているようだ。

 ニニギノミコトが地上に舞い降りたという「天孫降臨」伝説が残る霧島は、表現しがたいが、何か神秘的な雰囲気が充満している。九州には大分・湯布院、別府、熊本・黒川など温泉王国だが、日本で人気温泉地に共通しているのは、温泉プラス、自然のマイナスイオンを体いっぱい感じられる点だろう。妻の機嫌も温泉療養で無事に直ったようだ。日本の温泉は、世界に誇れるオアシスだ。

April 23, 2006 11:02 AM

2006年04月13日

城島よ新たな英雄に

 米大リーグ、マリナーズの本拠地セーフコフィールドから北に車で約30分走った場所に、かつての英雄は眠っていた。足を踏み入れた先は、レイクビュー墓地。そこには大小さまざまな形をした石の墓が点在しており、芝生のグリーンと八重桜のピンクが鮮やかなコントラストを描いている。眼下にはレイクユニオンと呼ばれる湖が広がる風光明美な小高い丘の上に、映画「燃えよドラゴン」で有名なブルース・リーの茶色い石の墓があった。

 父親が舞台俳優だったブルース・リーは、公演先の米サンフランシスコで生まれた。生後3カ月にして中国映画に出演し、香港に帰国後も幼い時代から数多くの子役として活躍したという。そんな彼がなぜシアトルに骨をうずめたのかは定かではない。ただ分かっているのは、18歳で渡米した後、シアトル市内のワシントン大学に通い、同じ時期に中国武術の道場を開校。そこで知り合ったリンダ・エメリーと結婚した。残念ながら73年に32年の若さで死亡。わずか14年間のシアトル生活だったが、ファンを虜(とりこ)にしたスーパースターの墓に世界各国から参拝者が絶えないという。

 マ軍イチロー外野手(32)が生まれたのは偶然にもブルース・リーが亡くなった73年。映画俳優と活躍の場は若干異なるものの、イチローは04年にシーズン世界最多262安打を樹立し、全米では世界のホームラン王「サダハル・オー」と並ぶビッグネームにのし上がった。

 今年は、イチローだけじゃなく日本人初のメジャー捕手となる城島健司が世界最高峰リーグの門をたたいた。シアトル市内でおいしいと評判の日本料理店オーナーに話を聞いた。

 「城島はキャッチャーの仕事を分かりやすく見せてくれる。私はやると思う。投手に対して球を低く、低くというジェスチャーなんかはアメリカ人捕手は、しないけど、そのうち浸透すると思う」。その言葉には異国の地で仕事のジャンルは違えどもプロとして“メジャー”で戦う同士の期待感にあふれていた。日本人の人口比率がほかの米都市と比べて高いといわれるシアトルだが、日本人メジャーの活躍は、一般人の生活にも、張りを持たせてくれる。

 城島が、打席に入る際のテーマ曲にバラエティー番組「笑点」を熱望していたが、最後は地元シアトル出身の人気ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスの「ヘイ・ジョー」を選んだ。自分の名前にちなんだこともあるが、やはりカリスマの曲には、人を引きつける何かがあるということか。

 世界のスーパースター、ブルース・リー同様、アジア人としてイチロー、城島にはシアトルっ子に長く愛される「スーパーヒーロー」として頑張ってほしい。

April 13, 2006 01:01 PM

2006年04月03日

老後の楽しみと挑戦

 米大リーグ・マリナーズが、1日(日本時間2日)でオープン戦の全日程を終了した。どの球場でも、あちこちに赤いポロシャツを着た年配の男女が点在し、各ゲートの警備やチケットのチェックを行うなど、年輪を顔に刻んだ? 人生の大先輩たちが大活躍だった。彼らは、報酬なしのいわば「シルバー・ボランティア」。マ軍の本拠地ピオリアの記者席入り口の「門番」をしていた白髪のエレガントな女性が印象的だった。「ハウ、アー、ユー」とあいさつすると「こんにちは」と返事が戻ってきた。英語に心もとない自分にとっては、普段、何げない日本語のあいさつの響きが、異国の地では、いっそう心和らいで聞こえてしまう。

 声の主は米国人男性との結婚を機に、海を渡って54年になる79歳の日本人女性。現在はシアトル在住で、避寒地として別荘のあるピオリアを訪れる毎年3月の1カ月間、試合の手伝いをしているという。“グラウンド外の女性メジャーリーガー”はこう話した。「生活に区切りがついたし、日本人がメジャーに挑戦すると聞いたのでね。私も何か世の中の役に立ちたかったので、このボランティアに応募したのよ」。ボランティアを始めたのは、日本が誇るイチローがメジャー挑戦した01年から今年で6度目。「仕事をしながら、試合も観戦できるし楽しいわよ」と話してくれた。

 細身の体で、メジャートップ級の活躍をみせるイチローの存在は、半世紀前の苦労が時折、脳裏に浮かぶ彼女にとっても希望の星だった。「私が米国に来たころは、戦後まだ10年たっていないころだったから。敗戦の影響か(米国人コミュニティーの)輪の中にも入れず、風当たりが強かったですから。今は生活をエンジョイしているけどね。イチローさんとか今度、入った城島さんがメジャーに挑戦する姿は誇りに思います」。生活に困っているわけでもなく、悠々自適に暮らしていい年齢。それでもなお、社会貢献を考えて試合の約3時間、立ち仕事をこなすことは、野球観戦の楽しみプラス、彼女なりの「挑戦」なのかも知れない。

 数年前。中学時代のクラスメートと久々に再会し、「卒業文集で寄せ書きに自分が書いた言葉を覚えているか」と聞かれた。寄せ書きには、中央の円を起点にクラス全員が思い思いに筆を走らせ、将来の目標、座右の銘などが書き込まれていたという。もちろん「挑戦」という言葉も人気ワードの1つだったそうだが、私が書いた言葉は「人生、成り行き次第」だったそうだ。

 遠い過去の話で、まったく記憶になかったが、友人にとってはその言葉が気になっていたようだ。「先のことなど分からないからそう書いたんじゃないの」と軽く答えておいたが、単純に面倒くさがりの性格が、そう書かせたのだろう。

 老後に何をしようか、と最近、考えることがある。今は仕事で考える余裕もないが、定年後、遊んでばかりの日々は長く続かないし…。今の時点で老後につながる何かのレールを敷く準備をしなければ、と思うのだ。ボランティアをしながら野球を楽しむ年輩女性の姿に、自分にとって「老後の挑戦」は何かを考えさせられた。

April 3, 2006 11:35 AM

2006年03月24日

頑張れ地産地消球児

 「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」が終了したばかりだが、今日23日からは、センバツ高校野球が甲子園球場で幕を開ける。25日からはパ・リーグ開幕とまさに球春到来といった感じだ。そんな中、今日の甲子園初日の第3試合に登場する初出場の伊万里商に九州出身者の私は、エールを送りたい。

 佐賀県西部に位置する伊万里は、隣接する有田と並び、陶器の町として有名。陶器の知名度は全国区だが、意外に知られていないのが、きめ細かく弾力性抜群の肉質を誇る伊万里牛だ。知名度のある松坂牛などと比べても肉質は遜色(そんしょく)ないと思う。私の自宅は福岡市の西部にある。伊万里牛のうまさに食欲をかられ、車で約2時間の道のりも苦にならないほどだ。伊万里牛を提供する約10店舗がタッグを組み「ステーキロード」と名付けられるほどの地元では名物グルメで、町おこしの起爆剤として期待されている。

 昭和の牧歌的風景があちこちに残る景色の中に、伊万里商もある。創立106年目にして、春夏通じて初の甲子園切符。たまたま朗報が学校に届いた日は、取材に出向いていた。修学旅行中で主力選手は長野に「出張中」だったが、会議室には、インターネットと50インチテレビを接続し、旅行先の長野・上田市のマルチメディアセンターに集まった野球部24人を結んだ「ホットライン会見」は新鮮だった。

 そんな最先端のハイテク会見同様、野球スタイルも最近はやりの「スモールベースボール」だ。伊万里牛のようにきめ細かい野球が売りで、レギュラーの平均身長は約170センチと小柄ながら、つなぎの打線で昨秋の九州大会4強。昨年、日本一に輝いたロッテのボビー・バレンタイン監督ばりに4番打者にもバント、エンドランありの機動力野球で勝機をものにしてきた。秀坂監督は94年夏の甲子園で優勝した佐賀商の副部長として、手堅い野球を学んできた。監督就任3年目にして、夢舞台への扉が開いた。強さの秘密は徹底したチーム打撃にある。シート打撃では左翼に守りをつけず「中堅から右」を意識させ、フリー打撃で万が一、左翼方向に打球が飛べば打った本人が自ら球拾いにいくという。左右打ちは2人ほどいるが、ほとんどが右打者とあって、左翼いらずの打撃練習は、チームカラーを象徴するものだった。

 地元で生産したものを地元で消費する「地産地消」が全国的なブームだが、4番打者の伊万里牛? 同様、野球部のメンバーも中学時代に伊万里に誕生した硬式のリトルリーグチームの出身者。伊万里商はこの地で生まれ、育った、まさに「地産地消」の野球少年たちだ。

 全国の強豪校には「野球留学生」で編成されるチームも見られるだけに「地産地消」の伊万里商は、応援したくなる。高校野球の良さは何といっても、地元を離れて全国、津々浦々で奮闘する人々にとっても励みになることだ。伊万里商ナインには「伊万里牛パワー」で普段着野球を見せてほしいものだ。

March 24, 2006 11:16 AM