記者コラム「見た 聞いた 思った」

山内崇章

2006年10月29日

大切なスローボール

 たまには笑って迎えてほしい。いつだって泣きじゃくって視線を送ってくる。普通の泣き方じゃない。子供みたいに、顔をしかめて。再会のひとときを和ませてくれたことは1度もない。病院へ向かう前は気分も高まるが、必ずといっていいほど、期待は裏切られる。ため息を落とし、後ろ髪を引かれる思いで病室を出るのがいつもの流れだ。

 年に1度、帰省すれば会いに行くのが恒例だ。もうすぐ還暦を迎えようとしている叔父の病院生活は20年を超えた。「佐々木さん、おいっ子さんが来たよ!」。看護婦さんが体をゆすって呼び掛けると急に悲しい顔になって泣き始める。うれしくて泣いているのか、起こされて機嫌が悪くなったのか、今の自分を僕に見せたくないのか。気を取り直して僕が話し掛けても、体をこわばらせて言葉にならぬ声を上げるだけだ。

  ◇  ◇  ◇  

 僕は極端に手加減した緩い球を投げた。蚊の止まるような、山なりのスローボール。左バッターボックスに立った叔父が薄ら笑いでやじを飛ばしてくる。「お前、本当に野球部に入ってるの。全然ダメ。プロなんか絶対ムリ」。そうやっていつもムカつく言葉を並べ立てる。「じゃあ、その体で、その腕だけで、オレがマジで投げる球を打てるのかよ」。のど元まで出掛かった言葉を必死にのみ込んだ。

 小5の僕の速球は相当イケていた。父親チームとの練習試合でも奪三振ショーを演じたぐらい。「その投げ方じゃムリ」。挑発に乗った僕は全力投球に切り替えた。案の定、左腕だけで振るバットは2球、3球と空を切った。「もう三振なんですけど…」。辛口を言う僕を無視して叔父は黙って構え続けた。少しだけ手を抜いた球を打ち返すと、また見下した顔。「甘いなあ」。もうどんな言葉も返す気にはならなかった。

  ◇  ◇  ◇  

 叔父は新聞配達員だった。幼いころ、農作業をしていて機械に右手を巻き込まれた。以来、不自由な生活を送ってきた。自転車に乗り、雨の日も雪の日も配達に出掛けた。アパートの前に置かれた自転車を見るたびに胸が痛んだ。かわいそうというか、理不尽というか、小5だった僕は、どうしようもなく切なくなった。こんな不幸せってあるのだろうか。僕が中学生のとき、配達中に転倒して脳挫傷を負った。以来ずっと、叔父は病院から動けなくなった。

 意識はあるのか。泣いている理由が分からないだけに悲しい。それでも僕が叔父に会う回数はこれからも数える程度だろう。365日、叔父の姉である母と叔母が交代で着替え、入浴、洗濯をしに病院を訪れている。そのたびに弟の涙を見る姉2人はどんなにつらいだろう。思い出は僕以上に深く刻まれているはずだ。

 要介護5。自分では動くことも意思を伝えることもできない叔父は、保険や国の手当で介護を受けている。それでも社会制度がすべてをクリアしてくれるわけではない。大切なのは叔父の顔を温かく見守る心の豊かさ。泣き声にも動揺せず、やさしく対応する寛容さ。何を言われようとスローボールを投げ続けるぐらい、今度はこちらが上手にならないと。いたわりの心を持ち続けたい。会って悲しい顔をするのはもうしない。次こそは、そう心に決めて叔父の肩をたたいた。

October 29, 2006 09:44 AM

2006年10月19日

悔しくても次がある

 野球少年の心はくすぐられっぱなしだった。「オレ、牛島。お前、香川。ちゃんとオレの球を捕ってよね」。丸い体で奮闘するドカベン香川の存在が、小さなエースをより際立たせているようだった。79年、浪商(現大体大浪商)の2人が甲子園を沸かせた夏。僕はクラス一恰幅(かっぷく)のいい友人を誘って野球部に入った。仲間の1番人気は香川でも僕は違った。小さな体でクールに投げる牛島にひかれて野球を始めた。

 マウンドに立つ牛島の目は試合終了の瞬間まで一貫していた。打ち取っても、打たれても、肝を冷やすようなピンチでも。敵を冷たくにらみ淡々と投げ続ける姿が僕の心を刺激した。たとえ勝負の行方が決しても、牛島の目は変わらない。勝っても、負けても。うれしくても、悔しくても。

 記者として牛島さんに出会って以来、あのクールな振る舞いの理由を聞かずにいられなかった。「顔に出したら心を読まれるやん。敵に自分を教えるわけにはいかんやろ」。春に準優勝、夏は準決勝敗退。「負けても泣かんかったなぁ。春はまだ夏があった。夏も親と会ったときだけホロっとしたけど球場では涙が出てこんかった」。悔しさは残っても、終わりではない。「ここからここまでは終わっても、それから、がある」。長い野球人生でずっと持ち続けた信念だった。

 86年12月。中日のクローザーとして実績を残しながら電撃的にトレードが発表された。テレビで見た悲劇のヒーローは、ここでも冷ややかな目で感情を押し殺していた。通告から丸2日悩み抜いた。拒否も考えた。悔しくて眠れなかった。立ち直れたのは「次がある。必要としてくれる場所がある」と言い聞かせたから。「会見前に自分で決めたんや。悔しいけど絶対に感情を顔に出さんって」。

 まだオープン戦が始まったばかりの3月。新幹線の車中で監督2年目の決意を聞いた。「勝負の世界で負けたら責任を取るのが当然。そのぐらいの気構えがないと戦えない」。今年の横浜は勝てない日が続いた。追いついても追い越せない。打っても守りきれない。若いチーム特有のちぐはぐな展開も目立った。輪を掛けて故障者も続出した。

 この1年、たった1度だけ苦しい胸の内を漏らしたことがあった。「こんなに長い1年はないわ。2ケタも借金があって、悔しいし、勝たせたいし…」。シーズン後半、原因不明の腹痛に悩まされた。不眠、ストレスが体に障った。それでも、淡々と負けた事実と向き合った。試合後の記者会見を1度たりともおろそかにしなかった。悔しくても、恥ずかしくても負けは負け。ポイントを整理し、反省点を語り続ける責任から逃れることはなかった。

 誰の人生にも、負けるときはある。むしろ負け数の方が圧倒的ではないだろうか。サラリーマンもそう。任された仕事には常に結果が求められる。他紙にニュースを抜かれたときは、隠れたくなるほどの羞恥(しゅうち)心を覚え、自分の未熟さを責める。だけども「負ける」ことは「終わり」ではない。2度と負けたくない。そんなエネルギーも黒星から生まれるような気がする。

 牛島さんは球場を去った。だけども…。いつかまた、球場に帰って来てほしい。今はファンの1人に戻って、牛島さんの続きを心待ちにしている。

October 19, 2006 11:51 AM

2006年10月09日

途絶えた成長の記録

 会えば必ずレンズを向けてくる。僕が小さかったころからずっと変わっていない。特に腕が優れているわけでもなければ、どこかで本格的に学んだことだってないはずだ。持っているカメラもおそらく2、3万円相当の一般的な代物なのだろう。久しぶりに上京して来たときも、僕が帰省したときもそう。母はいつだってカメラを携帯している。

 「もういいだろう」。被写体になることへの恥じらいの気持ちは、とっくに通り越している。いまや中年オヤジの域に達している僕を収めて一体どうするのか。意図を尋ねてもまともな答えは返ってこない。「あんたなんか撮ってない。景色を撮ってるのよ」。母は笑ってごまかしてシャッターを押し続けるだけだ。

 先日、その母から差し出された1枚の写真にハッとさせられた。35年前の色あせたプリント。生後数週間の赤子が泣きながら若い父親に抱かれていた。初めての子を授かった喜びに浸る父はまだ24歳。今の僕よりもずっと若く、あどけない顔をしている。僕が初めて病院から出た日の記念写真は、買ったばかりのカメラで母が撮ったものだった。

 参った。鼻で笑っても納得せざるを得ない。「これ以上、撮ることへの干渉を許さない」とでも言いたかったのか。古い写真には強烈なメッセージが込められているようでもある。初めて見たものではない。幼いころにも目にした記憶がある。僕は決して突然大きくなったわけでもなく、この1枚から少しずつ歩を進めた。ここから始まった。当時の父以上の年齢になり、あらためて手にした貴重な一瞬に感謝したくなった。

  ◇  ◇  ◇  

 今春、横浜市の百貨店で開催されていた写真展に足を運んだ。幸せそうな親子の顔が並んでいた。ある日突然、卑劣な犯行によって平穏な日常が奪われた。あの日さえ無事に帰宅していれば、ごく普通の家族の思い出のスナップとして残っていただろう。会場には北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、滋さんが13年間撮り続けた娘さんの成長過程が詰まっていた。家族みんなが振りまく笑顔が、一層寂しさをかき立てた。不意に憤りも覚えた。

 わが子を被写体にシャッターを押し続けた楽しみは、どんな親とも変わらないものだっただろう。弟さんにキスをするめぐみさんの写真が、ひときわ印象に残っている。その瞬間を逃さなかったお父さんの心境が手に取るように伝わってきた。家族の記録は77年11月を境にプツリと途絶えてしまった。成長の記録はまだまだ、続くはずだった。

 つながりが断ち切られて間もなく29年がたとうとしている。何によって断ち切られ、以来めぐみさんがどこにいたのかも分かっている。それでも横田さん夫妻の苦悩はいまだに解消されていない。政治的な話は聞き飽きている。横田さん夫妻の愛情の深さに見合う、人間として誠意ある解決策が1日も早く出されることを願わずにいられない。

 写真の中に映し出された母・早紀江さんの髪は黒く、表情も生き生きとしていた。成長の記録、その連続性は、やがて自分よりも若い時代の父母との出会いにもつながるはずだった。大切に育ててくれたご両親に感謝する機会まで奪われているめぐみさんを思うと、胸が締め付けられる。

October 9, 2006 11:24 AM

2006年09月29日

たかが運動会されど

 やっぱり行っておいて良かった。競技中に何度もあくびが出てきたし、午後に所用があることを考えると気まで重くなった。それでも、子供の顔を見れば意外に元気も出てくる。レジャーシートの上でおにぎりをほお張った4歳児が「みんなで食べるとおいしいね」と屈託ない表情を向けてくる。みんなで-。言われてみるとおいしいものだ。

 親になって初めて参加した運動会。昔、同じように校庭の脇に両親たちが座っていた。幾つかの家族が集まり、手作りの料理を分け合ったりするのもどこかで見た光景。親同士で子供の成長ぶりを褒め合うのも何となく聞いたことのある内容だ。たかが運動会、されど運動会。子供のころ、流し目で見てきた当たり前の風景の意義を思い浮かべた。

 昼食前の競技に親子で走る二人三脚があった。隣にいた親子が、あまり要領を得ていない様子で足に鉢巻きを締めていた。スタートの合図が鳴ってもしばらく走りだせず、道中も何やら2人で言い合っていた。最後にゴールし、子供の頭をなでたお父さんは、照れくさそうに話しかけてきた。「日本の運動会は活気がありますね。この子がもう少し元気を出して走ってくれたらいいのですが…」。

 朴永柱さん(39)は、夫人と2人の息子を連れて今年3月から東京での生活を始めた。韓国の商社に勤務し、2年の期限で日本に滞在することになった。二男ホジュン君(4)は、半年間お母さんと自宅で日本語を特訓し、この9月に幼稚園に入ってきたばかりだ。「日本語がうまくできず友達ができないようで…。幼稚園に行きたくないと言う日もあって、今日は仕事を休んで来てみました」。

 韓国でも、運動会は家族のきずなを確かめ合う大切なイベントだという。「家族が1つになって、勝った喜び、負けた悔しさを子供に感じさせる場。勇気づけるいい機会だと思って」。気合が入りすぎたお父さんは、お母さんから離れないホジュン君を怒鳴り上げたりもした。朝から園長先生や保育士さんに頭を下げて回った。昼食時にも、子供の手を引いて同じクラスの保護者に笑顔を振りまき、あいさつを繰り返していた。

 都内には韓国人だけの学校や幼稚園も多いが、あえて日本の環境にこだわった。「海外で暮らした自信はずっと残ると思います」。当然、親も厳しい環境に置かれる。仕事が手に付かない日は多い。長男が学校でけんかをして帰ってきたり、ホジュン君がお弁当を全部残してきた日もあった。どんなに胸が痛んでも「親も我慢です。親があきらめたら子供もあきらめることを覚えてしまいます」。子供の話をよく聞き、励まし続ける。父親ができる最低限の仕事だと朴さんは言う。

 帰り道、朴さん一家と街を歩いていると、無口だったホジュン君が日本語で問い掛けてきた。「いいにおい。何のにおい?」。朴さんたちも興味深そう。「キンモクセイだよ」。家族みんなで発音を繰り返した。「明日、友達に教えてあげる」。ホジュン君の顔がパッと明るくなった。うれしさも、痛みも、むずがゆい気分も、親子みんなで感じ合えたらいい。子供たちがはしゃぐグラウンドは、以前とは違った風景が広がっていた。されど運動会。親子たちのきずなはあちこちで深まっていたのだろう。

September 29, 2006 10:18 AM

2006年09月19日

自然体で楽しむ人生

 笑っているようにも見える老女の目からポロポロと涙が落ちてきた。稲川誠さん(70)がエンディングに選んだ曲は「見上げてごらん夜の星を」。お年寄りだけのギャラリーで埋まった館内は、稲川さんの優しい声と柔らかなギター音にしっとりとした空気に包まれた。白髪の主役が歌い終えると、しばらく拍手と歓声が鳴りやまなかった。

 稲川さんは、3年前から神奈川県茅ケ崎市の老人養護施設で定期的にコンサートを開くようになった。12人で結成したアマチュアバンド。メンバーの平均年齢も60歳を軽く超えている。高校時代から音楽を趣味にしてきた。担当はボーカルと得意のギター。「お金は一切いただきませんよ。だって人を喜ばせられるだけで十分幸せじゃないですか」。ボランティアを始めた理由をしみじみと話す。

 本業は、横須賀市にある横浜ベイスターズ寮の寮長さん。オールドファンなら知っている人も多い元プロ野球選手だ。1962年(昭37)から実働7年で83勝、入団2年目に球団記録の年間26勝を挙げたエースピッチャーだった。負けん気の強い投球スタイルで全盛期の王さん、長嶋さんをきりきり舞いさせたこともある。年間300イニング以上の登板が当然とされていた時代だけに、肩ひじの消耗も早かった。

 「それはもう昔話。野球選手に限界はあっても、人を喜ばせる趣味の世界に定年はありません。変わってるでしょ、僕」。のんびりした口調には、過去の栄光にしがみつかず自然体で今を生きるすがすがしさがある。人生の楽しみ方を知っている人だ。チョウの採集家でもあり、日本に生息する240種以上を標本にしている。ギターの腕前もプロ級だ。サザンオールスターズ桑田佳祐の実姉と親交があり、直接指導を受けて技術を磨いた。

 試合中、記者席にいる僕によく電話がかかってくる。現役引退後は20年間、大洋のコーチを務めた。選手を見る目も温かい。「山口は夏場に懸命に走っていたんだ。ボールだって走ってるはずだよ。那須野の制球はどう?」。寮から1軍の試合に通う若手が気になって仕方ない。打たれて帰ってきた夜、部屋で落ち込んでいる選手に声を掛けるのも稲川さんの仕事だ。「1点取られたら2点やるな、2点取られたら3点やるな、3点取られたら絶対に4点目をやるな。そう思って投げれば次は勝てる」。

 歌い終えた稲川さんが、僕を見つけてポツリと話した。「ここにいる人はね、みんなどこか寂しさを抱えているの。本当は家族と一緒にいたくても、迷惑を掛けたくないって、自分でためたお金、年金をはたいて来る人もいるんだよ」。握手に駆け寄る老女たちの目は輝いている。花束を渡して「私と恋愛してみる!?」なんて冗談を飛ばす人もいた。何となく稲川さんの言う意味が分かる気がした。

 「読む人を喜ばせる記事を書きなさいよ。それが記者の生きがいじゃない」。僕に話してくれる言葉もすうっと心に落ちてくる。球界に身を置きながら、視野を広げて人生の楽しみを見つけてきた稲川さんならではのアドバイスに思える。野球でファンを魅了し、歌でお年寄りを喜ばせている70歳は文句なしに格好いい。モテモテの稲川さんの顔は本当に幸せそうだ。こんな大人になれたらと思う。

September 19, 2006 11:09 AM

2006年09月09日

生き方変えた「批判」

 出張先のホテルの部屋から眺めた関門海峡に、韓国旗を掲げた関釜フェリーが速度を緩めて入ってきた。ある人物を思い出した。学生時代、僕の考え方、大げさに言えば生き方にも影響を与えてくれた人。ソウル滞在中に出会った日本男性で、僕より5つか6つ年上だったように記憶している。「あいまいを許さない韓国人の気質は潔い。情が深く人間くさいところもいい」。彼は韓国を「居心地がいい」とも話していた。

 下関で生まれ育った人だった。彼には目の障害があった。道に迷ったり、障害物に戸惑ったときに、手を握ってくれた韓国人は少なくなかった。道を教えてくれた後で目的地まで付き添ってくれたのも片言の日本語を話す韓国人だったりした。日本人とは違った情の深さ、本心を素直に表現する人たちに興味を持ったという。80年代から玄界灘を行き来していた彼は、韓国通の頼れる先輩だった。

 23歳だった僕が韓国に行くことを決めた理由は、若さ任せの正義感。なぜ同じ民族が分断された国家に暮らしているのか。なぜ同じ年代の青年は軍服を着る義務があるのか。分断の歴史に日本はどうかかわったのか。韓国の史料を原文で読めるようになりたかった。それを知ることで、日本に不信感を持つ韓国人と対等に話せると思った。知識を詰め込めば自分の将来も見いだせると考えていた。

 彼とは2カ月間、同じ下宿で生活した。発音はネイティブに近く、語彙(ごい)も豊富。優秀な留学生だったが、価値観が全く違った。毎晩遅くまで飲み歩き、カラオケ通いを繰り返す。歌の実力も韓国の学生から評判だった。「ここで嫁さんをもらいたい。ずっと韓国に住んでもいい」と話していた彼とは根本的に目的が違う。酔っぱらいの留学生を軽蔑(けいべつ)したこともあった。その彼も僕をもどかしく思っていた。痛烈に浴びせられた批判は、今も忘れられない。

 「君の姿勢では韓国人の温かさや冷たさ、痛みを知ることは絶対にできない。自己満足の世界に浸っているだけじゃないか。人を知ろうとしない君に歴史は分からない。自分を知ってもらおうとしない君には人を知ることもできない」。

 教科書通りの歴史認識を頼りに、大学の先生や下宿の学生に討論を挑んだ僕、うわべだけの知識を主張することで存在価値を見いだそうとした僕の甘さを、彼は見透かしていた。原書を読むことで着々と積み上げてきた「熱意」とか「正義」とかいうものは、軽く吹き飛ばされてしまった。

 記者という仕事をしていることが不思議に思える時がある。彼との出会いなしに、この仕事は務まらなかったかもしれない。取材対象や読者の気持ちをくまずに、目に見える事象、うわべだけの認識や偏見で語る記事ほど無責任で非情なものはない。自戒を込めて書きたい。人と人のかかわりで起こる出来事を読者に知らせる責任は重い。取材する側にも、取材対象が日常で感じている喜びや痛みを知る必要があると思う。

 数年前に下関から届いた年賀状には「まだ独身です」とあった。音信不通となった今も、ソウルで飲み明かしているだろうか。まだまだ甘い僕だが、失敗を繰り返しながらも、少しは前進できているだろうか。久しぶりに会いたくなった。

September 9, 2006 09:06 AM

2006年08月30日

元気くれた頑張る人

 ピーンと伸びた稲穂が、緑から黄色に変わりつつある。タクシーの窓から見る外は、山が連なり、川が流れ、実りの秋が近いことを思わせる田んぼの列が続く。運転手さんの声もやたらと気さくだ。「東京からですかぁ。仕事ですかぁ。あぁ~野球の取材ですかぁ。私も野球が好きで月1回、東京に行くんですよ。娘が4月に東京に嫁いでねぇ。野球見て娘の家に泊まるのが楽しみなんです」。

 高橋清さん(64)は、長野市のタクシードライバー1年生。地元の食品会社を定年退職して以来、ゴルフ場整備の仕事も兼務しながら第2の人生を必死に、いや高橋さんは「楽しく生きていますよぉ」と気の抜けた口調で話してくる。休日はほとんどない。ゆっくり休んでもいられないという。「昨年、家を建てて4000万もかかったの」。

 28歳の長女に続き、同居中の26歳の二女も、来年には新潟の長岡にいる彼氏のもとへ嫁ぐという。「娘たちはいずれ離れて行くもの。でも、これから孫を連れて来たりすることもあるし、娘の実家は守りたい。私たちがいなくなっても、家さえあれば娘も自分が生まれた長野のことをいつまでも考えられる。いろいろ計算してるんですよぉ」。

 長く伸びた黒髪を結わいて、威勢のいい声を上げるのは安由奈さん(19)。「タン塩1人前、カルビ1人前、特製サラダ1つ!」。行きつけの都内の焼き肉店。由奈さんは父が経営する店で週5日のアルバイトに出ている。最近の若い女の子とは少し違ってファッションや合コンには興味がないという。「彼氏も遊びもパスですね」。娘の話を聞いた調理場の大将は、少しだけ口元を緩めた。

 今年4月に理系の私立大学に合格した。「受験する前から学費の半分は自分で出すって約束していましたから。今は不景気でお店も苦しいし…。時給600円は安いけどお父さんのお店だから。いずれは研究者になって大学の先生になりたいです」。大将はおいしそうにたばこの煙をくゆらせた。「とんびがタカを産んだなぁ」。娘さんと2人で店にいる大将は、本当に幸せそうな顔をしている。

 いまや横浜の4番打者に成長した村田修一内野手(25)。今年2月に待望の長男が誕生した。「息子の存在はやっぱり力になります」。愛息は体調が思わしくなく、この夏まで入院していた。心配する村田に病院の先生が話してくれた言葉がある。「子供というのは、この親なら生まれても大丈夫、ちゃんと守ってくれると分かっているから君たちのところにくるものなんだよ」。小さな子供が必死に頑張っている。だからこそ自分がしっかりしないと。戦うモチベーションは、息子を守りたい、親としての責任感に尽きている。

 長野駅からオリンピックスタジアムまでの30分。到着間際、高橋さんに将来の夢を聞いた。「みんな仲良く、ときどき長野に帰ってきて…、それだけですよぉ」。高橋さんは上京のたびに畑で作ったりんごと桃を持っていく。初めて娘さんのマンションを訪れたときは泣かれたそうだ。今は笑って迎えてくれる。

 自分のため、大切な人のため。頑張っている人の話は生き生きしている。残暑の厳しい毎日が続く。その程度で負けてたまるか。元気をもらった8月だった。

August 30, 2006 08:49 AM

2006年08月20日

青森が「第2」の故郷

 夏休みの冒険だった。22年前、中学1年生だった僕は、寝台列車に乗って甲子園までの一人旅に出た。郷土の代表校、金足農が秋田県勢では19年ぶりに4強入りを果たした。準決勝の相手は桑田、清原のスーパー2年生コンビを擁するPL学園。どうしても生で見てみたかった。家には友人宅に泊まると告げ、深夜、日本海を走る臨時列車に胸をときめかせて乗り込んだ。

 金足農にスター選手はいなかった。堅実な守備とつなぎの打線で泥臭く勝ち進んだ。練習量の多さで強くなったことから「雑草軍団」とも呼ばれた。そんなチームがついにスター軍団を倒すときが来た。僕にとってはPLの「KKコンビ」以上に初出場だった金足農の大躍進が希望の光だった。田舎者だってやればできる。だからお前も頑張れよ。そう励まされているような勝手な思いもしていた。

 初めて見た甲子園は、想像していたものとは少し違った。アルプス席と選手の距離は、テレビで見るよりもずっと近い。広大かつコンパクトな劇空間。真正面の一塁側に浮き立つ「PL」の人文字は、その強さをまざまざと見せられているようだった。こんなに大勢のファンから一点に注目を浴びる選手、感動をスタンドと共有できる野球はすごい。誰もがこの場所を目指す気持ちがよく分かった。

 06年夏。22年ぶりに、三塁側アルプス席に座った。ベスト16、駒大苫小牧と青森山田の壮絶な打ち合い。ひと昔前なら注目も薄かろうカードでも、この日は超満員に膨れていた。たくさんの子供たちが目を輝かせて声援を送っていた。青森市の小学6年生は、一緒に来た父親と約束した。「今日負けた悔しさを僕が晴らしたい。絶対山田に入って甲子園に来たいです」。大阪のシニアで活躍する中学2年生の進路志望は青森への野球留学。「今は大阪のチームよりも強いんじゃないですか。レベルの高い高校でやりたいし、僕も実力を付けてここに来たい」。

 金足農はPL学園とがっぷり四つに組んで戦っていた。終盤8回表まで2-1でリードしていた。「もう優勝だ」の声が上がり始めたときだった。桑田の放った打球が、僕が座っていた三塁側アルプスへとどんどん近づいてきた。逆転2ラン。三塁側アルプスを除けば、球場全体がお祭り騒ぎだった。負けた。秋田のおじさんたちは声を出して泣いていた。「大阪のチーム相手に最高の試合をした」。誰かがそう叫んだときには僕も涙が出そうだった。

 22年もの間に、高校野球の勢力図は大きく塗り替えられた。ハイレベルな選手が多い関西の少年たちは、夢をつかもうと野球留学の道を果敢に選ぶようになった。試合後の取材エリアでは、選手同士が関西弁で話す声も聞こえてくる。素朴な疑問がわく人も多いと思う。青森、北海道の人はどう思っているのだろう。

 22年前の僕なら反発していたかもしれない。田舎者だけでも雑草のようにはい上がれる-。でも今は少し違う。「応援してくれた青森の人に感謝したい。胸を張って帰ります」。談話からは、純粋に甲子園を目指した少年の心が読み取れる。親元を遠く離れてまで、夢を追求した志の高さに感心させられる。「青森は第2の故郷です」と話す選手もいた。その気持ちをいつまでも持ち続けてほしい。

August 20, 2006 08:43 AM

2006年08月10日

日常から感じる平和 

 ふいてもふいても汗がこぼれ落ちてくる。梅雨の明けた7月最後の広島は、肌に痛みを感じるほどの暑さだった。ナイター取材までの空き時間を利用して市内の平和公園を歩いた。園内はいつになく慌ただしい。夏休みとあって子供連れの観光客も多い。慰霊碑前の芝はきれいに刈り取られ、ボランティアで清掃に励む人も忙しそうだ。1週間後に控えた平和記念式典への準備が着々と進んでいた。

 元安川のほとりから眺める市内の景色はいつ見てもいい。寂しそうにたたずむ原爆ドームの背後には、カープの本拠地・市民球場がどっしりと構えている。悲しい過去から立ち上がった広島の強さを表す象徴的なアングルにも見える。広島には縁もゆかりもない自分だが、子供のころから思い入れがあった。植え付けられた「恐怖心」から忘れられない地名になった。

 親に手を引かれて見に行った映画が広島を知るきっかけだった。小学校に上がったばかりのころに見た作品。親、兄弟との死別、壮絶なシーンは今も頭から離れない。人間が人間を一瞬にして死に追いやった現実の話だと知ったショックは大きかった。自分の住む街に原爆が落ちたらどうなるのかと本気で心配もした。

 新聞を読めるようになったころは、米ソの軍拡競争がたけなわ。日本の首相が米大統領に「日本は不沈空母」と発言したときは、映画で見た最悪の光景を想像させた。冷戦構造と固く結ばれた日米関係、もはや日本にいつ核兵器が飛んできても不思議ではない。純粋な恐怖心から、教室で友達に力説したこともあった。

 園内を1周して1時間近くがたっただろうか。慰霊碑が見える日陰のベンチに座っていた初老男性が、まだ同じ場所に腰を下ろしていた。公園の近くに住む67歳の男性はここに来るのが日課だという。4人兄弟の末っ子として広島市に生まれたが、生後すぐに福山市の親せきの養子になった。

 「父親の顔も母親の顔もほとんど覚えていません。福山はここからだいぶ離れているから…、原爆のことはよく知らないんです」。両親と姉2人を原爆で亡くした。戦後も福山に暮らしたが、息子のいる広島に5年前に引っ越してきた。「ずっと広島には来たくなかったが、やっぱりこの年になって1人では寂しい」。

 中央慰霊碑に向かって園内の左手には、在日韓国・朝鮮人の慰霊碑がある。おそろいの赤いシャツを来た団体は、広島市と姉妹都市の韓国・大邱市から来た旅行客。鄭基徳さん(45)は、妻と息子を連れて初めて広島を訪れた。「不本意な形で日本に来た人、夢を求めて異国の地で生きる道を選んだ人、いずれにせよ将来の希望を捨てていなかった私たちの先祖の無念さを考えると心が痛みます」。

 帰り際、元安川のほとりに差し掛かると、横浜から遠征に来たプロ野球選手が走りすぎていった。広島で登板予定のないエースピッチャーは、次戦に備えた調整に余念がない。きっと、61年前に広島で暮らしていた人々も、さまざまな日常を送り、先々の予定や目標を見据えて暮らしていたはずだ。原爆ドーム、街をさっそうと駆け抜ける野球選手。当たり前の日常が断ち切られずにきたからこその光景だと、ふと思った。平和のありがたさを感じさせるコントラストに見えた。

August 10, 2006 10:40 AM

2006年07月31日

大切なものを守る強さ

 小学校の同級生に、勝(まさる)君という無類の泣き虫少年がいた。背丈順の整列では卒業するまで後方にいた巨体の持ち主だったが、どうしようもなく気が弱かった。国語の朗読時間に先生から指名されるとウルウル。読めない漢字に詰まるとポロポロ。そんな彼を仲間たちはいつも失笑していた。付いたあだ名も「負ける」君だった。

 その彼が、1度だけクラスを驚かせる事件を起こした。高学年のころ。帰り際の反省会で勝君が前日の掃除をサボった、と女子から指摘された。ブーイングが飛ぶ。巨体を机に伏せて泣く勝君。先生に理由を問われると小声で「おじいさんが入院した」ことを告白した。隣の友達が指をさして「それぐらいで泣くなよ」となじった瞬間だ。勝君は突如立ち上がった。両手をグルグル振り回し、次から次へと仲間をなぎ倒した。

 数日後の教室は重い空気に包まれた。事件直後は彼の暴力行為、凶暴さを非難する仲間もいたが、その後は誰も勝君を責めることができなかった。おじいさんが病気で亡くなった。みんなが謝り、励ましたことを覚えている。心に負った傷は「それぐらいのこと」では済まされなかった。一世一代の勇気をふり絞った勝君の強さは際立っていた。

 記憶の底に沈んでいた昔を思い出すきっかけとなったのは、ドイツW杯の決勝戦だった。フランスのジダンが生涯最後の一戦で暴力行為を犯し退場処分、後に罰金を含むペナルティーを言い渡された。引き金はイタリアの選手から浴びせられた家族への侮辱発言だった。内外のあらゆるメディアを通じて事件の是非が問われた。その多くは実に紳士的で公平そのもの、分かりやすい論調ではあった。

 ジダンの気持ちも分かるがスポーツでルールを逸脱した暴力は許されない-。

 スポーツに限らず、私たちの日常でも暴力はご法度だ。ジダンへの処分は当然だとも思う。ただ、ルールの範ちゅうで語られるだけの事件だったのか、もう少し根深い問題が含まれている気がしてならない。ジダンが選んだ行動は、人間の内面には譲れない牙城があることを痛感させる。「後悔はしていない」。彼の言葉からは、自分を産んで、育ててくれた原点の重みが伝わってくる。時にルールを逸脱しても譲れぬものがある。それが人間誰しもが持つ「情け」ではないか。

 ジダンは子供たちに与えた影響を懸念し、謝罪もした。暴力行為だけを取り出せば責められてしかるべき愚行だ。しかし、理不尽な攻撃には、毅然(きぜん)とした行動を取ることも大切だ。そこを伝えることも大人の責任ではないか。譲れぬ牙城とは。ラインを識別する感性を教えることこそ、本当の意味で憎しみや暴力、差別を排除することにつながるのではないか。

 あの事件から、勝君は変わった。中学では発言力の強いグループと行動を取るようになり、高校では硬派な応援団に所属していた。大切なものを守ったあの日の行動は、何よりも周囲の目を変えた。イタリアのサッカーでは、家族を侮辱するヤジが日常的にあるという。強烈な頭突きは、低劣でナンセンスなヤジの質を変える1歩にもつながり得る。病気の母を思う人間くささ。繰り返された映像はスーパースターの本当の強さを映していた気がする。

July 31, 2006 01:27 PM

2006年07月21日

病院に行けなくなる

 待てども待てども名前を呼んでくれない。〈エアコンは29度に設定しています〉。どおりで暑い。手書きの張り紙が恨めしい。前夜に風邪でダウンした3歳児を抱えているとなおさら汗が噴き出る。受診開始の午前9時に診察券を置いたのだが、待合室にはすでに20人近くがズラリ。住宅が密集する下町の個人病院。患者のほとんどがお年寄りだ。懸命に早起きしたつもりだったが、完敗である。
 結局、診察されたのは2時間後。それでもニコッと笑う院長先生の顔を見れば、イライラも不思議と消える。もう15年以上通っている病院。待たされると知りながら、なぜか頼ってしまう。「あなたたちの前に診たおばあさんね、昨日、娘さんと大ゲンカしたんだって。もう75歳なんだから意地張るなって言っておいた」。第一声がこれ。プライバシー保護もへったくれもない。待ち時間が長くなるのも当然と言えば当然だ。
 院長先生はこの辺の人からは「みのもんた」と呼ばれている。顔はあまり似ていないが、人生相談が大好きだという理由からだ。前に相談したウチの夫婦ゲンカもこんなふうに暴露されているのだろう。先生は続ける。「あの年になるとね、心のケアで体調も変わってくるの。年を重ねることへの不安、家庭問題、孤独感…。治療や薬よりも、話すことで元気が沸いてくることだってあるんだから」。
 汗だくになってうちわをあおぎ始めた先生はこうも話す。「でもね、これからはお金が掛かり過ぎて病院に来なくなるお年寄りも増えると思うよ。今度そういうこともコラムで取り上げてほしいな。大問題なんだから」。高齢者の医療費に関するデータを調べると、こんな数字が並んでいる。
 先月、高齢者の自己負担増を柱とした医療制度改革法が国会で成立した。この10月から、70歳以上で一定所得(夫婦年収540万円)以上の人の窓口負担は、現在の2割から働く世代と同じ3割負担となる。08年4月からは70~74歳が原則2割負担(現在は1割)となる。04年度の税制改定により、国民健康保険料、介護保険料も上がるという。
 診察後の薬局。娘さんとけんか中のおばあさんがいた。まとわりつく3歳児の存在が会話のきっかけとなった。「かわいいねぇ。うちの孫娘もこういう時があった。もう大学生。3世帯一緒に住んでるけど、ご飯はいつも別々。誰も私の話なんか聞かないの。長く生きても楽しいことってそうないわよね」。2年前にくも膜下出血で倒れたが、奇跡的に回復されたという。心配した娘夫婦が同居を勧めてくれたのだが…。“みのさん”に会いたくなるのも分からないでもない。
 世は少子高齢化の時代を突き進んでいる。厳しい財政状況、世代間の負担を公平に近づけたい国の意図も分かる。が、嫌でも体の衰えを感じる高齢者が、本来最も頼りにしている社会制度に泣かされるとしたら、やはり健全とは思えない。「お金がなくて病院へ行けない世の中って、どう思います? ここは日本ですよ」。電気代を節約する先生は来年に院長を退任する。希望の進路先は在宅介護施設での仕事だとか。診察を待つお年寄りは暑さも気にせず話に夢中だ。何げない待合室の風景も、いずれ変わってしまうのだろうか。

July 21, 2006 09:27 AM

2006年07月11日

横浜も女心をつかめ

 明らかに3年前の景色と違っていた。黄色、白、黒がベースだった甲子園のスタンドは、ピンクや赤、水色の応援ジャージーがカラフルに重なり合っている。茶髪にミニスカート。どう見ても今風の若い女性が、球場の至る所を歩いている。ピンクの縦じまジャージーを着こなし、トラの耳を頭に飾って黄色い声援。本当に楽しそうに歌って踊って、はしゃいでいる。

 梅田へ向かう帰りの阪神電車。ここで聞こえてくる若い女性たちの会話も興味深い。「赤星の出塁が増えれば攻撃力も上がるのに」「浜中1番でえぇよ、パンチあるし」「シーツのサードは正解。昨日の片岡の守備にはガッカリやわ。今は守り勝たな」「早く今岡が帰ってこないかなぁ」。関東に暮らす私にとっては耳を疑う話の連続。失礼だが、聞き耳を立てただけでなく、彼女たちの顔立ちも確認せずにいられなかった。

 女性によるこのたぐいの会話、わたしがよく乗車する横浜から都内へ向かう京浜東北線の車内では聞いたことがなかった。20年以上も甲子園に通い詰める大阪在住の女性阪神ファンの話。「関西の女の子の間では、阪神を応援することがトレンドになりつつある。ピンクの縦じまを着るのは、サッカー日本代表の青いジャージーを着るオシャレ感覚に似ている」。平日でも大入りに膨れる甲子園。この人気は阪神が若い女性に認められたことと無関係でなさそうだ。

 昨年3月、甲子園球場に隣接して「タイガースショップ・アルプス」という女性向けのグッズ店がオープンした。明るい店内は渋谷か青山で見掛けるオシャレなアパレル店舗を思わせる。阪神のロゴ入りキャミソール、ネックレス、指輪などの商品がズラリと並ぶ。客層は20代から30代の女性が9割。店員もすべて女性だ。昨年1年間の売り上げは4億5000万円。日本シリーズ中には1日で1000万円に迫る勢いの売り上げを記録したという。

 店長代理の奥山佑美さん(25)によると、若い女性ファンが急増したのはここ3年ぐらいのことらしい。「星野監督の時代に阪神が強くなり、男性が女性を誘って球場に来るようになった。そこで女性が阪神というフタを開けたら、選手も男前だし、みんなで騒いで応援するのも案外楽しいと思うようになった」。関東の球場にも女性ファンは少なくないが、関西に比べればまだまだという印象だ。

 ここ数年、セ・リーグに限れば、成績も集客も東は西に押され気味だ。テレビ視聴率も関西に比べると落ち込みが目立つ。チームの強さ、スター選手育成は集客の大前提でも、甲子園球場の風景には何かヒントがありそうだ。流行の中心にはいつだって女性がいる。ゴールデンタイムの視聴率もF1層(20~34歳女性)が引っ張っているし、あらゆるジャンルのコンサートやイベントも女性の動員なしには盛り上がらない。

 奥山さんの見解。「横浜も男前の選手が多いじゃないですか。オシャレな土地柄だし、女性が球場に足を運ぶ環境は整っているのでは」。カップル割引、映画館のようなレディースデーもあっていい。西と東では女性の感覚、気質も当然違う。その土地の女性の感性を探ることも大切だ。イケメンたちが真剣勝負を繰り返すスタジアムだ。東も負けずに女心を射止めねば。

July 11, 2006 11:43 AM

2006年07月01日

じいさんの青春の地

 東京・品川から神奈川・三浦半島まで。海岸線をつなぐ私鉄が、最近の私の通勤電車だ。横浜ベイスターズの若手が野球漬けの毎日を送る横須賀の合宿所は、京浜急行の安針塚(あんじんづか)駅を降りて徒歩10分の場所にある。1軍がいる横浜スタジアムから電車を乗り継ぎ50分。10分に1本、普通電車しか止まらない駅だ。移動を面倒に感じることもあるが、たまには若手の顔も見たくなる。

 そのついで。上司に誤解のないように、もちろん取材業務を終えてからのことなのだが、先日、合宿所近くのある場所をひたすら探索した。横須賀市長浦にある合宿所は、海上自衛隊の施設と隣接している。球場から眺める海には大小の船舶が停泊し、白い制服をまとった隊員がさっそうと周囲を行き交う。昨年暮れに横浜担当になってから決めていたことがある。必ず、若き日のじいさんが過ごした場所を探しに行こう。

 1940年(昭15)のことだから、もう66年前のことだ。18歳だったじいさんは、秋田の尋常高等小学校(旧制小学校)を卒業後、横須賀海軍工廠で造船の仕事をすることになった。フィリピン沖への出征までの3年、横須賀で青春時代を送ったと、幼いころに何度も聞かされた。お気に入りの高清水に酔いながら「名誉な仕事だった」と自慢した顔は今も忘れられない。

 初孫だったこともあり、本当にかわいがられて育った。両親が共働きで、学校から帰ると必ずじいさんとばあさんがいる田んぼへ走った。1日100円。お菓子を買う小遣いをもらうため。玩具もよく買ってくれた。冬の農閑期には関東地方へ出稼ぎし、貧しかった家を支えてくれた。必ず私の写真を持ち歩いたと、最近ばあさんから聞いた。

 中学のころ、授業で習った太平洋戦争が原因で1度だけじいさんと口論になった。「何でじいさんはよその国に行って戦争したんだ?」。見たこともない怖い顔をされた。「国のためだ。お前に何が分かる」。ショックだったと思う。以来、戦争の是非を問うよりも、戦争で見てきたことを聞くようになった。レイテ島で双子の弟が戦死したこと。その数日前、偶然マニラの港で再会しラッキーストライクを2人で吸ったこと。捕虜生活で米軍の作るカレーがうまかったこと…。

 社会人になり、年に1回のペースで帰省すると、もうじいさんは寝たきりの生活になっていた。「今、行きたいところがあるとすればどこだ?」。真っ先に答えた場所は「横須賀」だった。「世話になった下宿の人に会いたい」。場所は長浦。細かい番地までは不明だったが、近くを横須賀線が走っていたという。うろ覚えの主の名前を頼りに民家で聞き込みを繰り返し3時間近く歩いた。結局、どこにも見当たらず、手掛かりすらつかめなかった。

 じいさんの希望はかなわなかった。4年前の6月29日に病気で他界した。66年前、じいさんが見た横須賀の海も今と同じ色だっただろうか。じいさんたちが命を懸けて戦った戦争があったから、今の日本に平和を求める精神が宿っていると思う。平和なこの時代を生きていることに感謝したい。同じ横須賀で、孫の自分が大好きな野球の取材ができることを思うと、感慨深い。思い出の場所探しは、もう少し続けようと思う。

July 1, 2006 10:06 AM

2006年06月21日

2度ない夏を全力で

 浅黒く日に焼けた3人の高校生が、ガラガラの電車に急ぎ足で駆け込んできた。重そうなバッグを床に落として席を確保すると、1日の疲れを吐き出すように深い息をついた。午後10時すぎ、海沿いを走る私鉄電車は都心に向かって走っていた。丸刈り頭に汚れた学生服。疲労感を顔ににじませ家路に就こうとしている姿は紛れもなく高校球児のいでたちだった。

 1人がバッグからグラブを出して右手でポケットをたたいた。「このグラブがオレを助けてくれている」。パンをほお張っていた隣の学生は「だったらしっかり守ってくれよ」と辛口で応えた。たわいのない掛け合いを見ながら、何か懐かしい気分になった。同じような格好で街を歩いていた時期が自分にもあった。

 普通の高校生が謳歌(おうか)する遊びや勉強とは無縁で、野球中心の生活サイクル。6月中旬のこの時期は、最終の強化期間だった。10日間の合宿生活では徹底的に体をいじめ抜いた記憶がある。うかつに教室で居眠りすると先生から嫌みを浴びせられた。「そこまでして野球をやる意味が理解できない。勉強していい大学に入ればもっと確実な将来が得られるじゃないか」。成績は万年下位。さげすむような冷ややかな先生の目は今も忘れられない。

 実際にそうかもしれない。炎天下を走り込み、水を飲むことすら許されない非科学的な練習。上下関係も神経をすり減らすほど厳しかった。何のために、野球をやっていたのか。あのころの唯一の心の支えは「甲子園」という目標。頑張ればそこに行ける。そこで名を売れば、可能性はわずかでもプロだって夢じゃない。本気で夢を追っている間は、何でも耐えられた。

 突然声を掛けて「変なおじさん」と警戒されるのも不本意だ。誤解を避けるために正面から名刺を出して会話に加わった。全国大会への出場経験もある名門校。目標はやはり甲子園だという。ただし3人とも夏のベンチ入りは厳しいと話す2年生。何のために野球をやっているのか。「自分の可能性を確かめたい」「練習は厳しい。1年の時は上が怖くて辞めたかったけど、辞めたら後悔すると思いました」「厳しい練習をしただけ、周りよりも強い人間になれると思う」。

 17年前の高3の夏、地方大会の決勝戦。自分たちの高校は4回まで3-1でリードしていた。1死満塁、追加点のチャンスで自分に打席が回った。初球の真っすぐ。ジャストミートした打球は二塁正面のゴロとなった。併殺打。そこから流れが敵に傾いた。直後の5回に逆転され、そのまま負けた。長く引きずった。自分のせいで負けたと。あの打席の夢はつい最近まで見続けた。夢では追加点が入ることもあったのだが…。

 球児たちは今、野球部での3年間で残るもの、この先の自分に何があるのかを知らない。甲子園もプロも、私の夢はかなわなかった。つらい思い出だけが残ったと落ち込んだ時期もあった。泥臭い練習に耐えて得られたものは、具体的な言葉で表現するのは難しい。ただ、あのつらい体験は、あのときにしかできなかったこと、あの瞬間は2度と再現できないことだけは確かだ。夏の予選が幕を開けた。2度と戻らない夏を全力で戦ってほしい。

June 21, 2006 10:28 AM

2006年06月11日

「信頼」裏切らないで

 あってはならないことが起こった。1日の横浜スタジアム。審判が下したジャッジを発端に、興奮した観客3人がフェンスをまたいでグラウンドに乱入、心無い人からは無数の物が投げ込まれた。メガホンだけでは済まなかった。たばこの吸い殻、空の弁当、一塁ベンチの上からは飲み残しのペットボトルまで降ってくるありさま。ベンチの中でユニホームを飲料水の色に染められた選手もいた。

 フェアかファウルか。審判2人の食い違ったジャッジが選手を惑わせたこと、審判団がルール通りに協議をせずに試合終了を宣告したこと。公正が保たれたスポーツの真剣勝負を見に来た人が不信感を抱くのは分からないでもない。「お金を払って見ているからには、納得できる形で完結させるべきだ」との意見もあるだろう。それでも、一部が取った悪質な行為は言語道断だ。もはや彼らにファンを名乗る資格も、スタンドで観戦する資格もない。

 先月11日の本欄で、スタンドと選手の距離を近づけた横浜球団の前向きな取り組みについて触れた。同スタジアムでは、昨年から従来の内外野にかけて張り巡らされていた高さ6メートルのネットを撤去している。ファンと選手がフェンス越しに気軽な会話を交わし、時には喜びを共有し抱き合うシーンも見られるようになった。低いフェンスから映し出されたものは、プロ野球が多くの人に支えられているという現実だった。球界は将来にわたって、この認識から離れるべきではないとの考えをあらためて実感した。

 今回の一件に、横浜の三浦投手が悲痛なコメントを残している。「勝てないことは僕らの責任だし申し訳ない。審判の判定に納得できないのも分かります。ただ、球場が汚されることは絶対許せない。球場はごみ箱ではない」。プレーで生計を立てる選手にとってのグラウンドは、毎日一礼を怠らずに足を踏み入れる神聖な場所だ。一部が取った行動は、大切な職場を踏みにじり、野球人の誇りを汚す行為にほかならない。支えられていると信じた側のショックは大きかった。

 選手や球団の歩み寄りは、「信頼」を基にした試みであることを忘れていないだろうか。現状のフェンスは、グラウンドに侵入しようと思えば、いつでも、誰にでも跳び越えられる高さだ。選手にしてみれば、試合進行やプレーへの妨害、身の危険さえも想定される中で行っている取り組みだ。乱入や物を投げ込むことは背信行為でしかない。

 横浜球団は同日、乱入した3人に対して同スタジアムからの永久追放を告げた。物を投げ込んだ人については不問に付されたが、彼らにも入場禁止の措置が取られても不思議でない。ファンあっての球界という認識は変わらない。だからこそ、観戦するファンにも資質が問われる。本当に野球が好きな人は、選手が大事にしているグラウンドを汚すようなまねはできないはずだ。応援するファンにも、球界を支えている自覚が求められるのではないか。

  ◇  ◇  ◇

 海の向こうではドイツW杯が開幕した。世界が興奮と感動に包まれる1カ月。競技、規模の違いこそあれ、サポーターと選手の間から見えてくるものは何か。プレーを離れた視点からも考えてみたい。

June 11, 2006 09:51 AM

2006年06月01日

身近な愛感じた教室

 小学校の教室に入ったのは二十数年ぶりのこと。なかなか足を運べない場所、接する機会がまれな世代との触れ合いは新鮮だ。先日、プロ野球の横浜選手会が地元の公立小学校で実施している課外授業の様子を取材した。5年生の教室では「将来の夢」と題した作文が次々と読み上げられた。アドバイスを送る選手たちも夢へのサポートのために必死で頭をひねらせていた。

 最近の小学生は、想像以上に成熟した考えを持っていることが印象的だった。周囲を思いやる優しさを感じた。泣きながらも、何とか最後まで読み終えた2人の男子児童の作文が忘れられない。聞いていた友達や先生、選手も報道関係者も、2人の作文にしっとりと聞き入っていた。

 A君 僕は将来、マッサージ屋さんになりたいです。なぜかというと、僕のお母さんはいつも肩が凝っているからです。腰も痛そうです。毎日仕事をしてヘトヘトに疲れています。だから僕が、マッサージ屋さんになれば、毎日お母さんを楽にさせられます。お母さんには体を大事にして長生きしてもらいたいです。

 B君 僕は一生懸命に勉強して病院の先生になりたい。医者になって、たくさんの人の命を助けたいです。僕の妹は生まれつき心臓が弱くて、小さいころから病院の先生に何度も命が危ないと言われて育ちました。でもその先生は、難しい手術を成功させて僕の妹を助けてくれました。だから、僕も先生のようになって困っている人を助ける立派な医者になりたいです。

 学習塾でのハイレベルな授業、中学受験の重圧。最近の子供たちを取り巻く環境は、自分たちの世代とは比較にならないほど厳しそうだ。幼いころから競争意識を植え付けられることで、自分しか見えなくなるひずみも生まれそうだ。そんな偏見で最近の子供を想像していただけに、2人の作文には不意を突かれた。

 国会では今、教室で語られる教育原理についての難しそうな議論が展開されている。教育基本法改正案の審議。キーワードは「愛国心」だ。「我が国の郷土を愛する態度を養う」、「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」とのくだり。自民党と民主党の両案を読みながら、ためらいも覚える。日本語で教育を受け、日本社会を拠点に生きている私の印象では、国に愛着を持つことは、ごく自然な流れの中で内面に根付くものだと思うのだが。

 家族を思いやる作文を聞きながら、教室で「国」への帰属意識をどう子供の心に植え付けていくのだろうかと、素朴な疑問がわいてきた。生まれた国を愛することは、機械的に覚え込ませるものではないと思う。家族愛の希薄化が叫ばれる事件も多い昨今だが、身近な人を思いやる子供もたくさんいる。困ったときの助け合い、感情の共有が、今の教室や子供たちが接する日常で最も語られるべきものではないだろうか。

 身近な単位で愛情の相互関係が確立されなければ、集合体である「国」に愛着を持つのも難しいとも思う。お母さんや妹の痛みをくみ取り、そこから自分の将来に思いをはせる。夢を真剣に語る子供の顔が頭から離れない。現実に即した教育とは。大人も真剣に考える必要がありそうだ。

June 1, 2006 12:51 PM

2006年05月22日

厳しき愛と父子の涙

 白髪の父は、顔をクシャクシャにして泣いていた。横浜スタジアムの一塁スタンド。記念の一打を放った息子が歩み寄ってくると、朴とつで物静かな父も、感情を表に出さずにいられなかった。「まさか、華やかな世界でここまでの選手になるとは…。立派だ。よくやった」。石井菊次郎さん(64)。11日に2000本安打を記録した石井琢朗選手の父である。

 記録がかかった今季は、妻の栄子さん(61)と可能な限り、栃木から電車を乗り継ぎ横浜に通い詰めた。達成前夜、あと1本に迫った息子は、サヨナラの押し出しを選んでヒーローになった。父はその夜も息子の頭を何度もなで回していた。35歳のチーム最年長、ベテランの風格もこのときばかりは解けた。父の前ではいつまでたっても子供のままだ。

 小3で野球を始めた。学童クラブの監督は父。好き嫌いを問わず、野球は必然的にやるものだと思っていた。「今の教育では虐待と言われるかもしれないほど厳しかった」と息子。緩慢なプレー、与えられた役割をこなさなければ、愛のむちが容赦なく飛んだ。正座で説教は日常的。家庭でも礼儀やマナーを欠くと一大事だ。車に乗せられ暗い夜道に姉と2人で降ろされたこともあったという。

 打った直後は涙のなかった石井選手だが、両親を見ると思い出したようにせき切った。「厳しい父でしたが、今思えば愛されていたんだなぁと。家には愛情があり、親の教育なくして今の自分はなかった」。18歳、プロからの誘いに栄子さんは猛反対した。「普通に大学に行って安定した職に就いてほしかった」。子供の将来を心配する、ごく自然な親の感情。ポーカーフェースのヒーローが涙したのは、愛情あふれた家庭で育った自分を実感したからだった。

 スタンドにいながら、ふと、ふるさとを思い出した。自分の両親も同じように還暦を過ぎた。小3で始めた野球の練習には、仕事を早めに切り上げた父が、毎日のように顔を出した。友達のいる前で殴られたこともあった。「なぜ一塁まで全力で走らない!」。あまり来てほしくない時期もあった。「地元の大学を出て学校の先生になればいい。わざわざ東京に行かなくても」。上京を決めたとき、母がため息をついて反対したことも頭をよぎった。

 石井選手の両親を見たとき、親は子の活躍に言いようのない幸福感に浸るものなのだと肌で感じた。いつもは忘れたころに受話器を取る息子だが、急に声が聞きたくなった。「あんたの記事ね、近所の駄菓子屋のおばあちゃんが、切り取って読んでくれているのよ。しっかり書きなさい」。母の声からも、石井選手が口にした「愛情」の意味がそれとなく感じ取れる。

 菊次郎さんは息子に向けてこうも話していた。「無駄遣いするなよ。野球だけじゃなく、男として自分の妻、子供、家をしっかり守りなさい」。愛情を注いでくれる親の言葉には重みがある。日々の仕事に追われながら、何のために、何を目指し、この先をどう乗り越えるか、迷うことも多い。取材を通じて、しっかりと襟を正そうと思った。

May 22, 2006 09:23 AM

2006年05月12日

写真が語る今の球界

 野球ファンは選手と一体となって戦っている。そんなことをあらためて認識させられる写真が先月29日付の本紙に掲載された。前夜の広島戦で横浜の佐伯が逆転決勝3ランを放って涙した。試合後、一塁側フェンス際に集まるファンと握手を交わしていたところ、熱狂的な男性ファンからはほおずりをされるように抱きつかれた。カメラはその瞬間を見逃さなかった。

 開幕から不振が続いた4番が、23試合目にして放った初の勝利打点。チャンスに打てず、この間の内野スタンドからは心ないヤジも飛び交った。彼の不振はチームの苦しい戦いとも重なった。「勝てないのはおれのせい」とも話した男だ。人目をはばからず流した涙、ファンの抱擁に応じた姿には心を打たれた。

 こんなほほえましい光景は、かつてのプロ野球ではありそうでなかった。ここ数年、日本各地の球場では、メジャー流のファンサービスを参考にした環境づくりが進められている。昨年、東京ドームにエキサイティングシートが設置されたが、千葉、福岡でも両側ファウルグランドを有効利用し観客席が増設された。

 横浜スタジアムでも昨年、内野から外野席にかけて張り巡らされていた高さ6メートルのネットが取り払われた。これにより選手とスタンドの距離は急接近。試合前にファンが色紙を差し出せば、選手はそれに直接応じる。そんなやりとりも今は自然になった。勝った日の喜びや感動は何も選手だけのものではない。佐伯の息遣いを感じ取り、涙を目撃した男性は、チームとの一体感をより一層強め、これからも支え続けようと思ったことだろう。

 先日、気分転換の目的でネット裏の記者席からライトスタンドへ足を運んでみた。これがすごい。単純に球場を見渡す角度が変わったという感想だけでは済まされない。ゴールデンウイーク中の横浜スタジアムは連日の大入り。スタンドの空気は記者席にいるだけでは分かり得ない興奮にくるまれていた。思い入れのあるチーム、選手に送る熱視線と大声援に圧倒された。

 周囲と息の合った応援歌の合唱、汗だくになって踊る中年男性、乳幼児を抱いた34歳のお母さんは「琢朗さん、カッコーいい」の黄色い声援。緊迫した試合展開に匹敵するぐらい、真剣に声援を送るファンのパフォーマンスに興味を引かれたりもする。いずれにせよ、ファンは選手のワンプレーにどれだけ心を動かされながら観戦を楽しんでいるのかを身を持って知る機会となった。

 最下位に低迷する横浜だが、34歳のお母さんの言葉がいい。「負けているから余計応援したくなるのよ。優勝とか、順位とかじゃない。選手たちは一生懸命じゃないですか。明日勝てばいいのよ、明日」。ファンの声援にも明日がある。

 球界再編騒動、ストライキ…。2年前に球界が直面した危機は、スタンドと選手の距離を縮める直接の契機となった。誰のための野球なのか。苦い経験を風化させてはならない。1枚の写真は、ファンあってこその球界を切々と物語っているような気がした。

May 12, 2006 10:34 AM

2006年05月02日

何のため言語学ぶ?

 少し手前みそになって恐縮だが、3歳半になる娘の話から。約5カ月間、親族が暮らす韓国・ソウルに滞在していた娘がつい先日、帰国した。背丈や表情の成長ぶりに心も和むが、現地語を何げなく話す姿には驚いた。国際電話では別れを惜しむ自然な会話が弾む。親としては、離れて暮らしていたつらさも、少しは報われた気分になった。

 日本語を忘れていないか。そんな心配もしていたが、何のことはない。母親と日本語で話していたこともあり、私には日本語で近づいてくる。おそらく無意識に出てくる韓国語であり、日本語なのだろう。見るもの、聞こえるもの、肌で感じたものを自然に受け入れ、必死に自己主張を繰り返しているだけなのだろう。

 文部科学省の諮問機関、中央教育審議会は先ごろ、「小学5年生から週に1時間程度は英語を必修科目とする必要がある」との見解を示した。東京・品川区では、この4月から小中一貫教育を実施。新しいカリキュラムには、小学1年生から英語科目が組み入れられている。国や地方自治体も国際化への対応に積極的に動き始めている。

 可能な限り幼少期から外国語教育を施すことには大賛成だ。初めて外国語に触れた13歳のころを思い起こすと特にそう思う。黒板に書かれた文法を必死に覚え、ノートには繰り返しスペルを書き写した。定期考査や受験に備えて徹夜で暗記。そんな努力も少しサボるときれいに頭から抜けていく。理由は明白だ。言葉そのものが自分の表現方法として身に付いたわけではない。英語を使う機会が限られているのも確かだが、中学以降の外国語教育では、進学という目標も相まって言葉に自分の意思を込めるのは難しい。

 最近はスポーツ選手の外国語に対する依存度も高まっている。卓球の福原愛が中国のテレビカメラの質問に愛嬌(あいきょう)を交えて答えている。中国語に堪能な知人に聞いても、彼女の中国語は、発音も表現法も含めて相当高い水準のものだという。サッカー日本代表の中田がイタリア語で会見に臨んだり、元メジャーリーガーの長谷川が英語を話す姿も生き生きとしていた。

 海を渡り、明確な目標へ向かってひた走る人にとって、現地言語の体得は自分の居場所を確保し、働きやすい環境を整えるための大切な手段であることをうかがわせる。プロ野球の横浜でプレーするクルーンは外国語への認識をこう語る。

 「日本語のマスターはとても難しい。でも『勝ちたい』『この山を乗り越えよう』とか、いくつかの重大な場面では、短いフレーズでもチームメートと感情を共有できる。自分の気持ちを伝えよう、相手に分かってもらおう。感情をストレートに押し出す姿勢が言葉の違う者同士のコミュニケーションでは重要だ」。

 政治、ビジネス、スポーツ…。いずれの分野でも、海外との距離は日増しに狭まっている。生きた感情の表現は、打算的な学習からは生まれにくい。相互の意思や感情をそのまま伝え合うことに言語を学ぶ意義があるのではないか。幼少時から外国語に触れるメリットは、そこにあると思う。

May 2, 2006 10:52 AM

2006年04月22日

横浜を支える女性広報

 プロ野球、横浜のチーム付広報になって5カ月。試合中にベンチでメモを取る女性の姿がテレビでも映され、最近はファンの間でも話題の人だ。八木直子さん(36)は、12球団唯一の女性広報。過去に他球団でもあまり例のない女性のベンチ入りを果たしている。

 選手と記者の間を慌ただしく走り回るのが八木さんの日課だ。球団が発表したニュースの詳細説明。試合中に選手の談話を記者席まで届ける足取りも軽快だ。当日の紙面についての感想も記者と熱心に語り合う。知る限りのチームの現状を力説することもある。

 広報になってからは未知の作業に戸惑いの連続だった。「どうすれば横浜の記事が大きくなりますか」。若い記者にも謙虚に質問する姿が印象的だ。最近はこんな発言も。「あとは先発投手の調子が戻れば。中継ぎも打線も結果を出している。今は我慢。必ず巻き返すときが来ます」。牛島監督の心境を代弁するコメントも自然に口をつく。

 野球経験はなく、学生時代に野球部のマネジャーをしていたわけでもない。短大卒業後、大手都市銀行に就職。窓口業務や定期預金、為替を担当するOLだった。入社3年目の冬休み、学生時代から好きだったNBA観戦のため米国を旅行。サクラメントのアリーナで見たささいな光景が、転職のきっかけとなった。

 熱戦の最中、地元チームを応援する少年と、ビジターファンのサラリーマン2人が、前後の席でやじの応酬を繰り広げていた。最後はポップコーンまで投げ合う始末。「大の大人が子供相手にエキサイトする姿、地元チームが勝利した後に、3人でハグし合う姿が忘れられない」。純粋にスポーツを愛する人の心に感動した。満員のアリーナを見回し、自分もスポーツを通して人を喜ばせる仕事がしたいと思い立った。

 帰国後、4年勤めた銀行を退社。米国の大学に留学し、スポーツ経営学の学位を3年半で取得した。学生時代を過ごした横浜のプロスポーツ組織、ベイスターズで夢の1歩を踏み出したのは29歳の時。入社後は経理、営業を担当し集客戦略のノウハウを学んだ。昨年11月に現場への異動が決まり、ファンと選手の間でスポーツの醍醐味(だいごみ)を伝える念願の任務に就いた。

 選手、チームスタッフは、彼女を同志として分け隔てなく接する。「男社会で大変だろうってよく言われますがあまりそう思ったことはありません。困ったのはビジターで行く球場には着替え場所がないことぐらい。トイレで十分です」。

 開幕前日、本当の意味でチームの一員になったことを実感した。WBC帰りの多村に取材が殺到し、牛島監督から「ヒトシを頼む」と指示された。主力のケアを任され意気に感じた。広報として可能な限り露出を試みつつ、練習に集中できる環境も考慮。報道陣に協力を求め臨機応変に取り仕切った。「八木、ありがとう」。監督からのねぎらいの言葉はずっと胸にしまっておきたいという。「今の夢は横浜スタジアムを満員で埋めること。敵、味方のファン同士がハグするシーンを横浜でも見たい」。

 プロ野球選手の一挙手一投足には夢がある。支える人も夢を持ち続けることが大切だ。

April 22, 2006 01:16 PM

2006年04月12日

大事な近所付き合い

  本当に物騒な世の中だ。小さな子供は一体誰を信じ、どこにいれば安全に遊べるのか。川崎市のマンション15階から小学3年生の男児が投げ落とされた事件は、あまりに残酷で、ご家族の無念さを推し量ると胸が痛む。容疑者の男性にも3人の子供がいたという。どこにどんな恐怖が潜んでいるのか、想像し難い事件の因果に閉口してしまう。
 やはり他人は、信用の置けない存在なのだろうか。安易に疑いの目を向けたくないが、子供が狙われ続ける不可解な周辺に、私たちは不信感を強め、身構えてしまう。悪気はなくとも、身近な人を守るため、本能的に1歩引いた対人関係を意識するようになる。
 川崎の事件を受けて、先日来、私の住むマンション管理室には、居住者からの投書が相当数寄せられている。警備の増員、防犯カメラの増設、高層階の廊下には落下を防ぐための柵を設置してほしい、との意見だ。マンションでは月1度、自治会の会議が行われるが、今度の議題も、セキュリティー強化に多くの時間が割かれそうだ。
 15階建て300世帯のマンションには、現在36台の防犯カメラが設置されている。4年前との比較で3倍増。24時間態勢で4人の警備員が常駐、居住者以外の人が敷地に入るには、必ず身分証の提示も求めている。毎月納める管理費は、老朽化に伴う修繕費より今の安全に充てられている。これだけの対策を立てれば、何となく安全が確保されている気にもなる。
 時を同じくして、マンションのエレベーターには、管理人が居住者に呼び掛けたメッセージが張り出された。「左右両隣、階上階下のご近所さんと、あいさつをしていますか。共同住宅では、万一の際のご近所の連携、信頼関係が必要です」。シンプルでごく当たり前の呼び掛けだが、鋭い警告を発しているように思えた。カメラは事件解明に役立つことはあっても、侵入者の動きを止める力は持っていない。
 少しそれるが、自分が小学生のころの話。隣の家の塀に落書きをして、その2軒隣のおじさんに大目玉を食らった。学校の帰り道、中学生の怖いお兄ちゃんにすごまれたときも、近所のおばさんに助けていただいた。夜には、昼の出来事が両親に報告される情報伝達の速さ。東北の田舎では、道を歩く大人すべてが学校の先生のように頼もしかった。大人の連携に子供たちは守られていた。
 18歳で上京して以来、実家からは、年に2、3度、季節に応じてりんごやジャガイモが大量に届く。メモ書きには「お隣の方にも渡すように」と毎度ある。都会かぶれしてしまったのか、無意識のうちに「田舎の発想」として片付けてきた。指示に従順だったのは20歳ぐらいまでか。左隣のご家族とは顔見知りであいさつも交わすが、ほかのご近所はどんな方が、どんな家族構成で暮らしているのかも知らないままだ。
 システマティックな安全対策には限界がある。当たり前ように穏やかだった幼き日の帰り道に思いを巡らせる。こんな今だからこそ、確かな人の目と声、迅速な情報伝達を可能とする近所付き合いを大事にしたい。

April 12, 2006 12:27 PM

2006年04月02日

野球中継完全放送を

 何だか周囲の反応が騒々しい。長く連絡のなかった知り合いから同じ話題の電話やメールが、この1週間で10件以上届いた。「今、どの球団を担当してるの? アメリカで取材してきたの?」「WBCを見て感動。思わずオープン戦を見てきました」「今年はチケットの手配をよろしく」…。昨日のセ・リーグ開幕で、桜満開となったプロ野球についての話である。

 そのひょう変ぶりには違和感も覚えるが、ここ数年、野球人気が揺らぎ始めていた実態を考えれば、うれしい反応でもあった。ペナントの開幕直前に行われたWBCは、想像以上の効果をもたらしていることを肌で感じる。同大会決勝の視聴率は43・4%を記録、5000万人の国民が見たとも言われるが、つられるように3月25日のパ・リーグ開幕戦には3球場で10万人を動員した。

 今回のWBCは米国で開催されたこともあり、多くの人が、テレビを通してあらためて野球の面白さを感じ取った。準決勝の韓国戦は、雨で45分も中断したため、開始から終了まで約3時間半の中継時間を要した。決勝のキューバ戦も3時間40分。しかし、最後の感動の瞬間を味わえると信じた私たちの中には、試合時間を長いと感じた人はほとんどいなかったと思う。

 当然だ、とのファンの声も聞こえてきそうだが、テレビ局は試合終了の瞬間を見届けられる満足感を視聴者に与えてくれた。野球人気復活の兆しが見えたのは、何も活躍した代表選手たちだけの手柄ではないと思う。「最初から最後までの完全中継」という姿勢を貫いたテレビ局の方針にもあると素朴に思えた。

 いまさらそんなことを認識させるきっかけを与えてくれたのもテレビ局だ。先日、ある民放局の定例社長会見を取材した。WBCの開催前に決まったことだが、今季の編成では野球中継の放送枠そのものの縮小と、延長放送の時間短縮が各局で顕著だ。日本テレビは開幕カードで試合終了までの放送枠を確保する気概を見せるが、4月の段階から昨年終盤と同様の15分しか設けていない局もある。

 鉄は熱いうちに打つべきではないか。ある民放幹部に延長時間の縮小理由を聞いた。幹部は、後番組への視聴者ニーズ、前年の視聴率の実績を説明した上で「ペナントの盛り上がりの様子をしばらく見たい」との回答。視聴率の激しい争いの世界では、野球を再び強力なコンテンツに押し上げる余裕もないという本音も聞こえてきた。

 最大多数の視聴者ニーズに応えたい気持ちは分かる。しかし、これまでも視聴率の伸び悩みに、悪戦苦闘してきた民放だけに、野球を魅力あるコンテンツに再昇格させる最大のチャンスが今、訪れているのではないだろうか。

 野球は最後の瞬間を映してこそ、面白みや感動がファンにより一層伝わる。今回のWBCがそれを証明している。試合の最初から最後まで見たいと思う現役野球ファンは、今回の縮小傾向により、お金を払ってでもCS放送で視聴する方法に切り替えるだろう。それでも、帰ってきた元野球ファン、ようやく野球に興味を持ち始めた無党派層が、野球と身近に接する窓口は地上波放送である。テレビは野球の感動を多くの人に伝える力を持っている。

April 2, 2006 11:57 AM

2006年03月23日

国旗の下だからこそ

 4年前に韓国で公開されたある恋愛映画でこんな場面が出てくる。若い男女がテレビでサッカー観戦。ヒロインが「日本対韓国」の大一番に夢中になっているところ、彼女にほれ込んだ男が思いを告白する。彼女が返したセリフは「神聖なる韓日戦を前に何を言うの!」。場の空気を読んでよ、とほおを膨らませる。

 95年の一時期、ソウルで学生生活を送った。このときも似た空気を感じた。やはりサッカーの日韓戦が行われた日。下宿の居間には、寝食を共にする15人の男子学生が結集。一喜一憂、テレビに向かって声を張り上げていた。心を1つにし、純粋に代表選手に声援を送る姿に圧倒された。

 自国の勝利を心から願う姿勢は日本人も同じだ。しかし、当時からどこか私たちとは違う感覚があるように思えた。「神聖なる戦い」と表現される国家代表の一戦。そこには韓国特有の国を愛し、思いやる自然な国民感情が浮かび上がる。

 野球の世界一を決めるWBCで、日本は見事に優勝を成し遂げた。一方で、その日本に2勝した韓国の強さはとても印象的だった。私個人、日本はアジア最強だと確信していただけに、悔しい気持ちも残った。

 韓国の躍進の背景には、大会そのものに向かう姿勢にあったのではないか。韓国スポーツソウル紙の記者は「選手もスタッフも、国民の後押しで1つになった結果だ」と語る。メジャー、国内選手を問わず代表入りをためらうものは皆無だった。「太極旗のユニホームで国のために戦う。国同士の決戦の前に、直後のシーズンを心配する人はいません」とも話していた。

 スタッフも万全だった。金寅植代表監督は、国内のハンファ監督。脇を固めた宣銅烈投手コーチはサムスンを、金在博打撃コーチは現代を指揮する現役監督だ。日本代表ならソフトバンク王貞治監督の下で、巨人原辰徳監督が打撃部門を統括、横浜牛島和彦監督が投手コーチを務めたようなもの。直近のペナントレースを度外視し、国家代表の勝利を一義的に追求する姿勢が韓国にはあった。

 同記者は続ける。「旗の下でふがいない戦いをしては国民は許さない。国の期待を背負うからには最高のメンバーとスタッフが必要。その中で選手たちは、普段は出せない力も出した」。国民の高い関心はチーム編成にも強く影響を及ぼしている。選手らのモチベーションの高さも、それと無関係ではないようだ。

 王監督の下、日本選手らの執念も決して韓国に劣っていなかった。だからこそ3度目は見返せた。冷静で紳士な振る舞いで知られるイチローが、歯に衣着せぬ口調で韓国国民から反発を買った。それほど勝ちへの執念はにじみ出ていた。

 ただし、わずかでも目前に控えたシーズンとてんびんに掛けた節が、日本になかったか。個々が重きを置く価値を一概に否定はできないが、本気で臨んだ韓国の強さは鮮明に現れていたように思えてならない。
 19日の準決勝を中継したTBSの平均視聴率は36・2%、試合終了直後には瞬間最大視聴率50・3%を記録した。WBCは3年後にも開催される。日本の国民だって、韓国に負けないぐらい国家代表に声援を送る力を持っている。

March 23, 2006 10:52 AM

2006年03月13日

夢の途中を支える人

 福岡の繁華街に野球関係者が集まる小さな飲食店がある。100球以上あるプロ選手のサインボール、主に80~90年代に活躍した選手のユニホーム、バット、グラブが店内のいたる場所に置かれている。

 薄明かりに映える野球道具は、第一線で活躍した選手のものばかりではない。むしろ、選手時代のほとんどをファームで過ごした人の思い出の品が多い。

 この店のマスターは、15年以上も前からウエスタン・リーグの大ファン。福岡出身だが、1軍が使用するドーム球場には、ほとんど行った経験がない。応援に出掛ける先は決まって雁ノ巣球場(ソフトバンクのファーム本拠地)だ。

 「あの子たちの野球が何より好きなんですよ」。

 目当ての選手も、地元球団に限らず名古屋、関西、広島から来る若者までと幅広い。店を訪れた夜に居合わせた酔客も、やはりファーム暮らしが長かった苦労人だった。遠征で福岡に来た際にマスターと知り合った元選手だ。

 マスターが、雁ノ巣にいない日はほとんどない。肌寒い春も秋も、日差しの強い真夏にも。少ない観客席の中ではマスターの声が一層際立つ。試合前後には手作りの弁当を差し入れ、夜は店で彼らの“帰り”を待つ。自分の子供をねぎらうように夕飯を用意して。

 「一生懸命なんです、あの子らのプレー1つ1つが。『なぜ自分はここにいるのか、どうすれば上に行けるのか、もう上がれないのかもしれない』。みんな不安の中で戦っている。息遣い、汗、この世界で生き残りたいという真剣な顔を見ると黙っていられないんです。頑張って生きろよって応援したくなります」。

 「早く上で頑張って親を喜ばせたい」。「嫁さんや生まれてくる子供にいい暮らしをさせたい」。店の床は、選手たちのため息も涙も吸い込んできた。

 よく語られる言葉だが、プロの世界で輝くスターはほんの一握りしかいない。現実を目の前で語られると、言葉以上の重みが胸にのしかかる。必要とされる存在でなくなれば、食べていけない。プロに入るほどの実力がありながら、認められない苦しみや葛藤(かっとう)は想像を絶する。

 「これ、オレの宝物」。マスターが差し出したのは、酔客の現役時代のヘルメットだ。3年前に引退。10年間をプロで過ごしながら、1軍出場は数える程度しか得られなかった。20代後半、何度か野球をやめようと思って相談を持ちかけたこともある。この店で思いとどまった。「要らないと言われる前にやめちゃいかん」。真剣に話を聞いてくれ、真剣に怒鳴られた。

 マスターが彼らを見る目は、選手としてよりも人として接し、人生を応援してきたことをうかがわせる。宝物を保管する前に、タオルでなでるように磨いたマスターのしぐさが印象的だった。愛情は本物だ。

 ユニホームを着る限り、誰もが可能性にかけ、未知の力を信じている。華やかな舞台で戦う選手と同じように、彼らもまた、温かいファンの声援に支えられて夢を追い続けている。イースタン・リーグ、ウエスタン・リーグは、ともに25日に開幕する。

March 13, 2006 11:19 AM

2006年03月03日

日韓歴史顧みる責任

 ちょうど1年前の本欄で、韓国出身の盧載鎭記者が1919年に朝鮮半島全土で起こった「3・1独立運動」について取り上げていた。同運動を「韓国国民が決して忘れることのできない悲しい歴史」と定義しながらも、続けた個人的な意見には、過去の日韓のいがみ合いに対する徒労感、両国の将来への憂いがにじんでいたようにも思えた。

 「できれば、もう忘れたい。他国に攻められて自力で守れず、結局支配されてしまった。実に恥ずかしい話である。自分の国を守れず、子孫に悲しい思いをさせたのだから。歴史は繰り返されるというけれど、国益のために、国民が悲しむようなことは、あってはならない」。

 独立運動が起こる9年前に日本は韓国を併合した。創氏改名、神社参拝、日本語教育、徴用…。以降36年間、韓国は日本の運命に翻ろうされた。運動は、日本の支配から民族の独立を世界に訴えたものだった。全国で200万人が参加。日本の軍・官憲による弾圧を受け多数の死傷者を出しながらも、5月まで繰り返された。

 昨日3月1日は、韓国では「3・1節」という国民の祝日だった。いわゆる独立記念日。韓国に滞在していた10年以上前のこの日、下宿のおばさんから「今日は外に出ない方がいい」と忠告されたことを鮮明に覚えている。高校時代、受験対策で年代と日付を一義的に学習し、大学で知り合った韓国人留学生から意識の低さを痛烈に批判されたこともあった。それだけに、冒頭の盧記者の見解には少々の驚きを感じた。

 最近の韓国では盧記者のように、自国の姿勢を問いただす動きがにわかに出始めている。先日、韓国政府は植民地統治下で日本企業や軍に徴用された韓国人の遺族らに、自らが個人補償を行う方針を固めた。昨年10月に小泉首相が靖国神社に参拝した際にも、韓国紙の複数の知り合いからこんな話を聞いた。「日本に嫌悪感を示すやり方に市民は飽きている」「日本批判に固執する限り韓国に進歩はない」。

 韓国から長く疎ましく思われてきただけに、この変化を「寛容」ととらえてしまいそうだ。しかし、日本への感情が和らいだとの考えは都合が良すぎるように思える。むしろ、他国に批判の目を向けるより、自分たちを主体とした歴史認識の確立を積極的に行おうとする姿勢がうかがえる。

 翻って日本の姿勢は。一方が「忘れたい、恥ずかしい」と思うほどの悲しい過去に、一層傷口を広げるような外交トップの発言が最近も聞かれた。「台湾という国を日本に帰属することになった時、日本が最初にやったのは義務教育。結果として、ものすごく教育水準が上がり識字率が向上した」。名指しした地域こそ違え、あまりに遅れた発想に思えてならない。

 日本人としての私の意見は、隣国に不快な思いをさせた歴史は忘れるべきではないと思う。それは、相手があって自分たちも存在する、今の国際社会に生きる者の責任だとも思う。自国の過去を顧みることが、自尊心を傷つけるものではない。盧記者の記事を読み返して、あらためて思った。

March 3, 2006 10:54 AM

2006年02月21日

切ない「申し訳ない」

 明け方に見たテレビから、老夫婦の切ない最期が伝えられた。誰の責任で、なぜ急ぐ2人を止められなかったのか。落としどころの見つからない、悲しい最期に思えた。

 【2月14日】新潟県長岡市の男性会社員宅の1階寝室で、男性の父親(88)と母親(81)が亡くなっていた。長岡署によると、母親はベッドで右腕を刃物で刺され、父親はベッドの脇で首をつっていた。部屋には「お世話になって申し訳ない」と書かれた遺書が置かれていた。無理心中とみられる。老夫婦は新潟県中越地震の被災者で、旧山古志村(現長岡市)に住んでいたが、自宅倒壊のため二男宅に身を寄せていた。

 地震から1年4カ月が経過した。国からの助成金は、全壊で最高300万円。経済的困難、精神的孤立。震災のつめあとは、いまだ消えていないことを思わせるニュースにも思えた。

 新潟出身の同僚記者がこんなことを話していた。

 「新潟県民は、雪に耐えてきた土地柄、国に不満があってもぐっとこらえる。人に迷惑を掛けられない。その我慢強さは、家庭内も同じ。過疎が進み、親と子が離れて暮らすことが当たり前のようになって、子にも迷惑を掛けたくないと思う人が多いんです」。

 国、県の援助が十分であるかという議論は別の機会に譲りたい。老夫婦が家族に向けた「申し訳ない」という言葉が、あまりに痛切に思えた。生きることに、人の世話になることに後ろめたさを感じた2人の心の重み。息子家族に向けた言葉だからなおさらやるせない思いに駆られる。

 幼いころを思い出した。まだ小学校低学年のころ。秋田市内から車で2時間、県南部の母親の実家に帰省することが、私にとっての最高の楽しみだった。年に2回、夏休みと冬休み。祖母は、私の父によく話していた。「申し訳ないね。こんな山奥まで運転させて」。孫の顔、娘の顔を見るのに、なぜ謝るのか。子供心に疑問を感じた。

 除雪も行き届かない開拓地の農村だった。6人の子供、その孫の帰りを心待ちにした老夫婦は、私たちの到着に備えて雪かきをしていた。少し濃いお雑煮は、心を込めてだしを取ってくれていたからだろう。

 10年前にも祖母は「申し訳ない」という言葉を口にした。末期がんで秋田市内の長男宅に身を寄せたときだった。母に、叔父夫婦に、しわくちゃの顔で。腰が曲がり、食も進まないのか、大人になった私には、祖母が本当に小さく見えた。

 あと10年もすれば、私の両親も祖母の年齢になる。申し訳ない-。親からは聞きたくない言葉だ。若い世代が、当たり前のように選択する核家族のライフスタイルを受け入れ、田舎暮らしの自分たちを時代遅れの生き方として認めた言葉なのかもしれない。

 新潟の悲劇の原因は、短いニュースだけでは把握できない。ただ、老いた世代が、幸せに生き抜くことが難しい時代になっていることを示したようにも思える。高齢化が突出する過疎地域ではなおさらだ。私たち子の世代が、けたたましい警鐘を鳴らされた気もする。苦労して、大切に育てられた私たちだ。親には「申し訳ない」の言葉よりも「ありがとう」と言われたい。

February 21, 2006 10:03 AM

2006年02月11日

選手と記者の“距離”

 人と話す際の立ち位置はどのように定まるのだろう。一定の距離を置く相手もいれば、息遣いが分かるほど接近可能な人もいる。数ミリ近づくと、数ミリ離れる人。近づいていい時と、あえてそうしない場合。状況に応じた判断も必要だ。

 誰もが日常的に対人距離の線を引く。距離を狭める第1歩は、勇気や思いやり、気遣いだろう。内面の距離が縮まれば、実際の距離も近くなる。心を許し合える仲なら、器用に近づいたり、離れたりもできる。
 この2月、横浜のキャンプ取材で沖縄・宜野湾を訪れている。担当1年目。多くの選手、コーチとは初対面だ。不安も多い中で、キャンプイン初日からとても新鮮な光景を目にした。

 練習開始前。選手らが外野の芝生でミーティングを始めた。ちょうどライトの定位置。直後、ベテラン記者たちが白線をまたぎ選手の輪へと近づく。メモまで取り始めた。テレビクルーのマイクも輪の中だ。過去に取材した球団では、練習後に親しい選手を探し、遠慮気味にその内容を確認していた。それが当たり前の取材方法だと思っていた。

 2日目以降も、ウオーミングアップの開始前後に限って、外野の芝生は開放されている。選手の素顔が手に取るように分かる場所まで報道陣は近づける。選手や監督はこの近さをどうとらえているのだろうか。
 牛島和彦監督。「問題ないと思いますよ。どんどん話を聞いて、いい表情を見てください。ここで変なことが起こらない限り、続けられることです」。

 前日の夕食の話、DVDで見た映画の感想、まじめな技術論を語る声も聞こえてくる。こうした表情や声は、後に記者が、選手と話す際のきっかけにもなる。取材対象が歩み寄る姿勢がうれしく思えた。

 話はそれるが、芸能担当だった昨年、歌手の和田アキ子さんご本人から電話をいただいたことがあった。コンサート取材の記事へのお礼だった。恥ずかしながら、芸能人から携帯電話を鳴らされたのは、2年間の担当で唯一の経験だった。

 和田さんはこんな話をしていた。「昔はね、スポーツ紙の記者さんとよく電話もしたものよ。現場でもざっくばらん。今はほとんどないね。でもそういうのって大切だと思う、お互いを知る上で」。

 私生活に踏み込まれたくない、スキャンダル記事はごめんだ、という風潮が芸能界には根強い。警戒心から心が閉ざされ、その警戒心はしばしば記者の誤った解釈を招く。芸能界のみならず、球界にもそんな悪循環に陥る危険性はいくらでもあるように思える。

 球界は、芸能界ほどの距離はないというのが私の感覚だ。それでも、必要以上に取材エリアを限定し、距離を置こうとする球団も少なくない。危険回避、集中して練習がしたいという意図もあるだろう。取材力でカバーすれば済むことでもある。が、距離を縮める姿勢は、何も一方だけに求められることではない。

 球界にも、芸能界にも関心を抱き、支えてくれるファンや読者がいる。離れすぎていては、事実が見えないし、見せられない。取材対象の本当を映す作業は、お互いの歩み寄りがあってこそだ。ただし、横浜の取り組みに甘えるつもりはない。信頼を前提としたものであることを自覚したい。

February 11, 2006 11:49 AM

2006年02月01日

明快な表現こそ慎重に

 明快に時代を映し出した、分かりやすい表現方法だとばかり思っていた。

 「勝ち組」と「負け組」-。

 昨年からあらゆるメディアを通じて発せられ、私たちの日常会話でも使われるようになった言葉だ。時代の先端をひた走り財を手に入れた人と、乗り遅れた人。明暗を分けた人間模様を2つのグループに分けて言い当てた。「なるほど」と、思わず納得してしまうほど、不平等社会が広まっているとも言えそうだ。

 先日、飲食店を経営する古い知人と話す機会があり「負け組」という言葉の意味を考えた。50代中盤に差し掛かった知人は今、人生のどん底にいる。知人が語る「負け組」はリアルで、何げなくこの言葉を受け入れてきた自分の浅さに反省を促された気がした。

 「本当に苦しんでいる者には、随分きつい言われ方。勝ったり、負けたりを繰り返すのが人生で、負けて大きくなるケースだってある。何かこの言葉は完全な敗北者、もうここから抜け出せないという枠に入れられた絶望感すら覚える」。

 15年前には京浜地区に3店舗の焼き肉店を構えていた。バブル崩壊、米国産牛肉の輸入ストップ、経営は年々厳しくなった。残った1店舗、看板を守るため、昨年の夏からアルバイトでタクシー運転手を始めた。店は夫人に任せている。

 タクシー業界は4年前に規制緩和を実施。客足が減る中で、台数は飛躍的に増えた。「半年たって随分道も覚えて行動範囲も広がった。それでも稼ぎは変わらない」という。店は維持できるのか。先の見えない、手探りで今を生きる不安な日常が伝わってきた。苦しみに直面する知人がとらえる「負け組」の意味は、想像以上に重く、酷な表現だと知った。

 一方の「勝ち組」の意味。その象徴としてもてはやされたライブドアの堀江前社長が逮捕された。買収に買収を重ね、会社の時価総額は膨れ上がった。勝ち続けた達成感は相当なものだったろう。プロ野球への新規参入、フジテレビの買収をもくろみ、果ては国政選挙の候補者にもなった。その勝ちっぷりを称賛した「勝ち組」という表現もまた、前社長の行動に拍車を掛けたのではないか。端的に言えば、調子に乗せた…。

 「時代の寵児(ちょうじ)」と言われた人の転落に、地道に不況下を耐え忍んできた人は留飲を下げた思いだろう。知人は続けた。「そもそも『勝ち組』だ『負け組』だと騒ぎ立てる人は、自分が勝ったと思っている人か、そのどちらでもない、遠くから無責任に世の中を見ている人」だと。かなり耳が痛かった。

 前社長を国政選挙に押した政治家の中には「マスコミはどうですか。持ち上げたではありませんか」と開き直る人もいた。責任転嫁も甚だしい発言だ。が、「ホリエモン」のキャラに食いつき、「勝ち組」を無条件で受け入れてネタ探しに奔走した自分も考えさせられた。

 勝者をたたえ、楽しい話題を探し求めていく私たちの姿勢は変わらない思う。ただ、明快で説得力があると思われる言葉でも、その持ち出しには慎重さが求められる。当事者の気持ちであり、その後を予見してみる態度を常に持ち続けたい。

February 1, 2006 12:33 PM

2006年01月22日

組織のため語り継ぐ

 2月1日の春季キャンプインがすぐそこに迫っている。プロ野球選手たちが真新しいユニホーム姿でいよいよ動きだす。彼らは今、シーズンのスタートに備え、自主トレの最終調整に入っている。1年間戦い抜くエネルギーを蓄えようと必死に自分を追い込んでいる。

 1月の自主トレは、ベテラン選手が後輩たちを引き連れ、合宿形式で行うケースが多い。基礎体力の向上もさることながら、先輩と後輩の間で密度の濃い交流が行われるのも特徴だ。両者間で繰り返される指導と学習、世代を超えてじっくりと話し合う機会だ。

 先日、三重県伊賀市で山ごもりをする横浜土肥を取材した。昨年プロ初の2ケタ勝利を達成、先発の柱に成長した9年目の左腕だ。2年目の岸本との練習中、後輩のフォームをチェックし、腕の振り方、球の回転、握りを細かくアドバイスする姿が目に留まった。

 5年前の西武時代の土肥も、同様に先輩の後を追うように自主トレに臨んだ。足腰の鍛錬、持久力強化を目的とした青森でのスキートレ。慣れないスキー板で先輩を追い掛けたのは「1日も早くいっぱしになりたい。投球の基本、毎日マウンドに立つ中継ぎの心得を学びたいから」だった。

 ベテラン遊撃手、石井の自主トレも、同じ遊撃手の若手3人を引き連れてのものだ。エース三浦もそう。5人の若手にスライダー、カットボールを伝授し、コーチさながら親身なアドバイスを送っていた。自主トレは、自己鍛錬の場であるが、後輩たちにとっては、実績を残した先輩の技を吸収する格好のチャンスだ。

 それにしても、プロ野球選手は