横田和幸
2006年01月05日
武蔵流の「K1愛」
新年あけまして、おめでとうございます。今月で当欄コラムを担当して丸1年を迎え、任期満了に伴い今回が最終回。題材に迷っていたが、大阪が生んだK―1ファイター武蔵(33=正道会館)の「K―1 LOVE」に触れたい。
4日前の大みそかは恒例の格闘技イベント「K―1 Dynamite!!」の取材で、私は大阪ドームにいた。世間の話題は曙とボビー、山本と須藤の試合に集中した。武蔵はボブ・サップと好カードが組まれたが、ともに05年は世界一決定トーナメントで敗れ、事実上は数合わせ。実際にこの試合で勝者のメリットはないし、敗者は商品価値がさらに落ちる。
武蔵は大みそか参戦に消極的だった。いや、嫌がっていたという表現が正確かもしれない。11月のトーナメントで惨敗。1カ月後、相手がサップだからとはいえ、ここで動機付けを見つけられるほど、単純な問題ではない。それでも出場要請を受けたのは、競技人気を広げたい武蔵流の思想。さらに激化するPRIDEやNHK紅白歌合戦との視聴率争いがある。
主催者は今回、カード順を当日発表にしてまで、視聴率で他局に勝つための異常な戦法をとった。武蔵は本来、リング内だけを考えていればいいのに「視聴率も試合の結果も出す。PRIDEの吉田―小川戦に負けない。客の喜ぶ試合がしたい」と断言していた。
当日は全11戦の中で、第6試合。セミでも、その前でもなかった。
ゴングは鳴る。武蔵に熱があった。サップの反則パンチを後頭部に浴び、さらにダウンを喫した。不屈の闘志で立ち上がり、最終3回、左ハイで逆転勝利を呼ぶダウンを奪う。「決め技がない」と非難された男が、3―0の判定で逆転勝利をつかむ。興行開始後、観客が最も沸いた。谷川貞治イベントプロデューサーの「今回のMVPは武蔵」という言葉が、私はうれしかった。まさに有言実行、プロの中のプロだった。
現場での熱とテレビ視聴率は必ずしもイコールではない。現場で見ていて興奮できたのだから、この一戦の視聴率は私にとってはどうでもいい。
武蔵は以前、実家で「ポコ」というヨークシャーテリアを飼っていた。帰宅が深夜になっても、ポコは玄関先で飼い主の武蔵の帰りを待ち続けた。それほど愛情を注いでいた。8年前に愛犬が死んだ時の武蔵の落胆ぶりも聞いた。一方で格闘家という険しい道を歩む姿と私生活のギャップに、魅力を覚えてしまう。
魔裟斗が今回、故障者続出の事情からカード編成に苦慮するK―1のために「K―1愛」という言葉で緊急参戦した。武蔵は口にしなかったが、私が言い換えるなら冒頭の「K―1 LOVE」を背負った。正月は熊本の親せき宅で過ごしている武蔵に、このコラムから激闘をねぎらいたい。今年こそ悲願の「WORLD GP」で世界一を奪ってほしい。この男気があれば。応援しています。
January 5, 2006 11:24 AM
2005年12月25日
トリノ届け父の愛
大阪は冬季五輪に関心が薄いといわれる。今年は積雪を記録しているが、基本的に雪とは無縁な温暖な土地で、野球文化が突出しているからか、話題になることも少ない。私も大阪人の多数派層だったが、今回はそうではない。
先日、ある人から電話をいただいた。声の主は成田隆史さん(56)。トリノ五輪スノーボード・ハーフパイプ代表に、兄妹で内定している成田童夢(20=キスマーク)と、今井メロ(18=ロシニョール・ディナスターク)のお父さん。今春まで約15年、2人を大阪市内の自宅で指導し続けてきた人物だ。
だが、2人は父の“独走的”な指導に対立し、童夢は4月に独立、メロは7月に家を出た。メロはそれまでの「成田夢露」を捨て、自分が4歳の時に離婚していた実母今井多美江さん(47)の元で「今井メロ」に戸籍を変えた。多感な時期に、兄妹の決断はよほどのことだったのだろう。
お父さんからの連絡は、童夢がカナダ・ウィスラーのW杯で優勝を飾り、五輪代表を確実にした12月中旬だった。
「童夢がやりよった。根性みせよったよ。ほんまにね…。メロは(今回の遠征で)2戦連続で予選落ちやから、まだまだ修業が足りん。オレが指導していた時は、そんなことなかったからね。でも、頑張ってほしいねん。応援してる」。声は穏やかで優しかった。
父は京大出身で天才肌。以前は青年実業家で行動派ときたから、指導もすべて自分の感性で行わないと気が済まない。異文化吸収のために乗馬をさせたり、歌手デビューさせたり、自分の子供の進む道を自由に操縦してきた。私は取材して、この方法がいつか、ひずみを生むと思っていた。しかし、愛情はあった。
だから、メロが家出した時のお父さんは、夜も眠れなかった。取材にきた記者を怒鳴った。涙をためながら「心配や、17歳(当時)の女の子やで」と叫んだ。1週間以上も満足な睡眠、食事もしていないから、無理もない。
9月にメロが離婚していた母の元で、名前を変えた時も「何もかも終わった…」と泣いていた。3カ月後の今回、だから、お父さんなりに立ち直ったと感じたし、同じ男親として、尊敬の念が生まれる。
もう1つうれしい話もあった。童夢とメロには、成田緑夢(ぐりむ)君(11)という弟がいる。彼も天才スノーボーダーとして将来は五輪を狙えるが、兄と姉が家を出て精神的に落ち込んだ。競技をやめると言い出した。それが、童夢が五輪行きを決めて表情が一変してきたという。「童夢は同じ成田姓やから、友達がお兄ちゃんはすごいね、と言ってくれて、うれしいらしい。またスノボーを始めるよ」とお父さん。
父と2人の子供は事実上の絶縁関係にあるが、いつか再び、心のどこかで理解し合える時がくればいいと思う。冬の祭典まで、あと1カ月半。トリノ五輪には、成田親子が流した涙と汗が詰まっている。
December 25, 2005 10:34 AM
2005年12月15日
大阪のお笑い版DL
31歳の春、自ら事業を起こし、来年で8年目を迎えようとしている。いわゆる、彼は青年実業家。現在38歳、夫人はタレントさん。社業も順調に進んできた(私と同じ学年だというのに、うらやましい)。
その人と私の会話を1つ披露したい。
「もしもし、横田さんか? ワイや。ところで今日(大阪発行10月26日付)の日刊スポーツの1面見てくれた?」
「そら、自分とこの新聞やから見ますよ。1面は阪神の日本シリーズ3連敗もの。ロッテ強いなあ」
「ちゃう、そこに藤川球児が写ってるやろ。その左上を見てや。三塁側のネットのへん。ぼんやりと写った顔は、ワイや。素顔のワイや。1面に自分が出るのはうれしいもんやな」
正体は大阪プロレスの社長兼主力レスラー、スペル・デルフィンだ。謎のマスクマンのはずだが、甲子園球場に素顔で観戦にいったところ、本紙1面に激写された? らしい。(興味ある方は、どんな顔か調べてください。でも薄暗くて分からないと思います)。
99年4月に関西初の団体「大阪プロレス」を大阪市内で創設した。50ほどの団体が乱立する現在、倒産が相次いでいる。でも大阪プロは健全経営で、朝日新聞など一般紙にも紹介されている。
デルフィンを一躍全国区にしたのが、94年新日本の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」。獣神サンダー・ライガーとの決勝戦で大阪府立体育会館を超満員にした。当時はみちのく所属の無名も、華麗な空中戦やコミカルな動きが支持を集め、場内は大デルフィン・コール。優勝したライガーは後日、自身の飼う犬を「デルフィン」と命名したほど、準優勝者の実力を認めたという逸話だ。
「決勝前夜は、ミナミの美容院で8時間も髪形をドレッドにしてたんや。重圧? ない、ない。当日は気分良かったで。闘魂三銃士、藤波、長州を差し置いてワイがメーンや。ほとんどの客は、ワイを応援やで」。決勝用に特別マスクを30万円で作るなど、先行投資も惜しまなかった。
冒頭の会話のように、最近のITの青年実業家とは程遠い軽いキャラだが、経営の才能は抜群だ。興行会場を大阪市内のフェスティバルゲートに固定。巡業形式をとらないことで、移動費やリング設営費が不要になる。毎週末の2興行で、計400人以上の集客があるから安定した収入が可能だ。11選手を抱え、給料の遅延など一切ない。最近は週末が仕事という客層のため、平日の興行も行う。
主力選手はくいしんぼう仮面、えべっさんらに加え、芸人のケンドーコバヤシをプロレスデビューさせたり、社長主導の豊富なアイデアと実行力は、あの11年前と同じだ。試合前は、くいしんぼう仮面が観客にお菓子を配るサービス(競争率は約4、5倍程度)もある。大阪にお越しの際は「お笑い版ディズニーランド(とはホメすぎか?)」に1度、足を運んでみてはいかがですか。
December 15, 2005 02:10 PM
2005年12月05日
人生の縮図表す1日
これが男の意地だったと思えば、不覚にも涙がこぼれてきた。G大阪が悲願のJリーグ初優勝を飾った3日、私はビールかけが行われた万博記念競技場に取材に行った。片隅で、この原稿を書いている。酒気帯び原稿を覚悟したが、どうやら無理のようだ。
G大阪ひと筋で11年間プレーしてきたDF実好礼忠(さねよし・のりただ=33)が、今季限りで退団することになった。まさかの戦力外通告を受けていた。
今年は24試合1得点、通算でも231試合の出場を誇ってきた鉄壁の守備人だった。
「言われたのは、1週間ほど前です。自分でも信じられなかったけど、これが現実なのかと。そりゃ、ショックで、その夜は飲み明かしましたけどね。7歳と5歳の子供も分かったようで、嫁もショックを受けていました」。
プロの世界はこのリーグ最終戦が終わると、来季の契約を結ぶか否かの通知をされる。記者として客観的に見ても、実好は立派な戦力だった。来季もそう思っていた。すでに2歳下の松波正信が今季限りでの引退を表明し、記者会見を行った。そんな華やかさとは対極的に、実好は誰にも知らせずにG大阪を去ることになった。
11月12日の第30節浦和戦で右肩を脱きゅうし、その後は3試合欠場した。治療にあたった柳田博美ドクターが言う。「どうして彼が、あれほどまでに治してくれと言ってきたのか不思議でした」。欠場した3試合をG大阪は全敗した。いかに実好が重要なストッパーかは周囲も分かった。
優勝を決めたこの日、後半開始からシジクレイの代役で投入され、打点の高いヘディングで川崎Fを封じ込めたという。「これが最後かなと思えば、複雑な気持ちになった。最後の最後で監督が使ってくれ、自分も燃えました」。背番号4が出場してから、本当にG大阪が勝ち越した。力は証明できただろう。
97年から2年間は主将を務め、00年には右アキレス腱(けん)を切断しながら完全復活していた選手。彼から不平不満を聞いたこともない。西野監督が3バックや4バックで悩んでも、この選手がいたから常に悩みは解決してくれた。
昨年11月13日の天皇杯鳥栖戦で、公式戦261試合目という最も遅いゴールを決めた。その記事は担当の西尾記者が大阪日刊の裏面を飾り、彼の子供が通う幼稚園に貼り出されたという。愛称ノリちゃんの人柄が地域でも評判だったことを物語るエピソードだ。今日の優勝紙面では、彼の活躍が大きく扱われることもないので、せめて功績は記したかった。
私はこの日、首位C大阪が5位に転落した長居スタジアムで取材した。天国から地獄に転落したシーンを見てから、地下鉄御堂筋線を北上し、G大阪の祝勝会に足を運んだ。C大阪の森島寛晃らが号泣する姿を見てから、G大阪の大喜びを見た。そして寡黙に戦い続けたノリちゃん。人生の縮図が詰まった1日だった。
December 5, 2005 12:38 PM
人生の縮図表す1日
これが男の意地だったと思えば、不覚にも涙がこぼれてきた。G大阪が悲願のJリーグ初優勝を飾った3日、私はビールかけが行われた万博記念競技場に取材に行った。片隅で、この原稿を書いている。酒気帯び原稿を覚悟したが、どうやら無理のようだ。
G大阪ひと筋で11年間プレーしてきたDF実好礼忠(さねよし・のりただ=33)が、今季限りで退団することになった。まさかの戦力外通告を受けていた。
今年は24試合1得点、通算でも231試合の出場を誇ってきた鉄壁の守備人だった。
「言われたのは、1週間ほど前です。自分でも信じられなかったけど、これが現実なのかと。そりゃ、ショックで、その夜は飲み明かしましたけどね。7歳と5歳の子供も分かったようで、嫁もショックを受けていました」。
プロの世界はこのリーグ最終戦が終わると、来季の契約を結ぶか否かの通知をされる。記者として客観的に見ても、実好は立派な戦力だった。来季もそう思っていた。すでに2歳下の松波正信が今季限りでの引退を表明し、記者会見を行った。そんな華やかさとは対極的に、実好は誰にも知らせずにG大阪を去ることになった。
11月12日の第30節浦和戦で右肩を脱きゅうし、その後は3試合欠場した。治療にあたった柳田博美ドクターが言う。「どうして彼が、あれほどまでに治してくれと言ってきたのか不思議でした」。欠場した3試合をG大阪は全敗した。いかに実好が重要なストッパーかは周囲も分かった。
優勝を決めたこの日、後半開始からシジクレイの代役で投入され、打点の高いヘディングで川崎Fを封じ込めたという。「これが最後かなと思えば、複雑な気持ちになった。最後の最後で監督が使ってくれ、自分も燃えました」。背番号4が出場してから、本当にG大阪が勝ち越した。力は証明できただろう。
97年から2年間は主将を務め、00年には右アキレス腱(けん)を切断しながら完全復活していた選手。彼から不平不満を聞いたこともない。西野監督が3バックや4バックで悩んでも、この選手がいたから常に悩みは解決してくれた。
昨年11月13日の天皇杯鳥栖戦で、公式戦261試合目という最も遅いゴールを決めた。その記事は担当の西尾記者が大阪日刊の裏面を飾り、彼の子供が通う幼稚園に貼り出されたという。愛称ノリちゃんの人柄が地域でも評判だったことを物語るエピソードだ。今日の優勝紙面では、彼の活躍が大きく扱われることもないので、せめて功績は記したかった。
私はこの日、首位C大阪が5位に転落した長居スタジアムで取材した。天国から地獄に転落したシーンを見てから、地下鉄御堂筋線を北上し、G大阪の祝勝会に足を運んだ。C大阪の森島寛晃らが号泣する姿を見てから、G大阪の大喜びを見た。そして寡黙に戦い続けたノリちゃん。人生の縮図が詰まった1日だった。
December 5, 2005 12:38 PM
2005年11月25日
裏表ない浪速の闘拳
スポーツの道を極める人は、1つや2つの伝説を残すもの。私が最近、気になっていたのが「浪速の闘拳」こと、ボクシングWBAフライ級8位の亀田興毅(19=協栄)の、あるうわさ話だった。
くだらない話とは言わないでほしい。まあ、実際に鼻クソの話で恐縮なのだが、実は以前、亀田がジムで公開スパーリングをしていた際、リング周辺にいた関係者が鼻クソをほじったという。その動きを彼は真剣スパーの途中ながら視界に入れ、後でその当人に指摘したというのだ。
一般スポーツ全般を担当する私は、亀田の取材機会は少ない。それが、19歳の誕生日を迎えた今月17日に、偶然にも出番がやってきた。ばかばかしい話だが、これは直撃するしかない。
「亀田くん、誠にくだらない質問やけど、あのうわさ話はホンマかいな?」
「何を聞くんや、ニッカンの記者は! その話はちゃうで。オレが見たんはジムワークをしている時に(関係者が)鼻毛を抜いていたんや。リング上から、よう見えたんや。でも、スパーリング中に鼻クソをほじっている人を見たこともあるけどな。見える時は調子いい? そうかもしれんなぁ、ハハハぁ」。
私が学生時代に読んだボクシング漫画「がんばれ元気」の主人公、堀口元気は、動体視力を養うために踏み切り横の電柱に上り、通過していく電車内の人の顔を見続けた。亀田が鼻クソで動体視力を養ったとは言わないが、裸眼2・0の視力に加え、スポーツセンスと厳しい練習に耐えた結果が、荒業? の習得につながったのだろう。
彼のボクシング技術は当然ながら、頭の良さと回転の速さにも、舌を巻いてしまう。記者の顔と名前は2、3回会えば完全に覚えてしまう特技を持つ。年齢を重ねるたびに、脳内の記憶の細胞を失っていくと自覚する私には、うらやましい限り。さらに素直だ。
「オレはスポーツ新聞で大きく扱われたら、うれしいねん。やっぱり励みになる。相撲、格闘技、芸能の記事も読む。よう読むから1周グルリと回ってきて、もう1回読む時もあるよ。今日の日刊はどれだけ大きく扱ってくれるん?」。
私が「できるだけ(大きく)扱うわ」と、苦笑いしていると、矢継ぎ早に言葉が返ってきた。
「実藤さん(現ボクシング担当)にゆうたらええん? それとも益田さん(元ボクシング担当)か? それとも藤中さん(東京日刊のボクシング担当)にゆうた方が(大きな記事になる)可能性あるんかな?」。
いや、参った。本紙記者名をここまでスラスラ言えると、君は真の取材対象兼読者やね。裏表がない性格と、オール大阪弁の返答も好感度抜群。
この日、各紙記者が合同で贈った誕生日ケーキも、本当は甘いものが嫌いなはずなのに、君は「ありがとう」の一言を忘れずに持ち帰った。こんな気配りができる君のことが好きになった。鼻クソ(を取材した)記者を、これからもよろしくね。
November 25, 2005 11:34 AM
2005年11月15日
トモさんの魂受け継げ
あの涙から、もう七回忌を迎えた。JリーグG大阪などでMFで活躍した久高(くだか)友雄さんが亡くなってから、今年9月で6年が過ぎた。
トモさん(愛称)は松下電器(現G大阪)に入団し、Jリーグ元年を経て、最後は95年末にC大阪で現役引退。日本代表の肩書はなかったが、いつでも大阪弁で、関西では抜群の存在感があった。それが胃がんが原因で36歳で天国に逝ってしまった。私は今年であの時の久高さんより年齢で1つ上回った。本当に若すぎた死だと思う。
日刊スポーツの大阪本社はこのほど、豊中市から大阪市内のオフィス街に移転した。引っ越し作業に追われていると、机の中から懐かしいVHSのビデオテープが出てきた。
トモさんが松下電器で出場した「90年度サッカー天皇杯決勝・日産自動車戦」。小雨の降る91年元日、舞台は国立競技場。相手の激しいチェックに、何度も前のめりに倒れながら、すぐに立ち上がり、ボールに向かう姿があった。
史上初の3連覇を目指す日産には松永、水沼といった豪華な顔触れが並ぶ。初王者に挑む松下電器は、27歳のトモさんを中心に延長含め120分を戦い、おおかたの予想を覆して松下がPKで競り勝った。表彰状を掲げるトモさんは、誇らしげで輝いて見えた。
「本当に見事な松下電器イレブンです。雨に煙る国立競技場で、日本のリーダーとなりました」。NHK松本一路アナウンサーの実況が胸を打つ。「これから日本にプロリーグが誕生するのです」とは解説の松本育夫さん。今季で13年目を迎えたJリーグの原点。それはトモさんらの姿に集約されているのだと確信する。
引退後のトモさんは本紙コメンテーターに就任し、私は弟子のようにサッカーを学んだ。印象に残るのは、関西サッカー界への提言だった。
「C大阪はモリシ(森島)が引っ張っていかなあかん。どんなせこい点でもいいんや。(93年限りで解雇された)G大阪は関西の軸や。電池の扱い方さえ知らんかったオレを、雇ってくれた松下電器には感謝してる。関西では最初にタイトルを取らなあかん。京都は祇園の舞妓(まいこ)さんを、全試合の応援にこさせるくらいの魅力ある試合をしてほしいね」。
9年前の言葉は今秋、天国から再び後輩へと配信されたのだろうか。G大阪は故障者続出ながら、首位に踏ん張る。C大阪は神懸かり的な快進撃で3位に浮上した。京都はJ1再昇格を決めた。きっと地上の後輩に届いたのだろう。
私は今、あの天皇杯決勝でトモさんと同じ松下でプレーした、本紙評論家の永島昭浩さんと仕事をしている。「サッカーは足先だけではなく、心でやるスポーツだよ」。理屈をこねる私に、いつもそう教えてくれる。心の持ち方次第で技術を超越する何かが生まれると。J1も残り4戦。ガンバもセレッソも魂のプレーを貫き通して欲しい。
November 15, 2005 11:25 AM
2005年11月05日
小橋いつでも「最高」
プロレスの興行が成功したか否かは、観客数だけでは測れない。あくまでも成功への第1関門であり、観客の立場になった場合、その数はどうでもいい。要は支払った入場料の対価として、満足感が得られたかどうか。会場からの帰路、例えば電車内でその答えは分かる。
「いやぁ、今日の試合は、最高やったわ」と感嘆し合う会話があれば、「最近の○○は、ホンマ、おもんない」と、具体名を挙げて怒りの言葉が飛び交ったりする。最近の団体は3000円から、1万円超の入場料金が相場。彼らはお金を払った以上、シビアに判断している。
ここからは私の独断と偏見。50以上の団体乱立時代で、圧倒的支持を得ているのは、団体ではノア、選手だと、前GHCヘビー級王者の小橋建太(38)と確信する。「ノアの興行に外れナシ、小橋の試合に最高以外ナシ」。私が作った格言だが、帰路の電車内は興奮した観客が、実際、絶賛の言葉を並べている。
10月28日の大阪府立体育会館もそう。メーンの6人タッグで、小橋は全日本時代から大先輩の天龍源一郎(55)と初めてタッグを組んだ。17歳上の大先輩には当時から、認められたことはない。天龍がノアに初参戦した今年1月以降、会場で目を合わせてくれたこともない。要は存在自体を無視されていた。小橋は燃えていた。
「天龍さん、オレと会場で会っても、絶対に会話もない。今度のタッグは、最初で最後になるかもしれない。対戦相手が敵ではなく、あのオッさんと勝負したい。向こうがチョップを10発打てば、オレは11発。100発だったら、オレが101発!」
大人げないかもしれないが、こういった感情表現ができれば、試合は自然に盛り上がる。天龍に負けじとチョップを連発。呼吸せずに放つ無酸素チョップまで披露し、天龍のほぼ2倍にあたる50発のチョップを打ち込んだ。日本プロレスの父、力道山の空手チョップが空前のブームとなって半世紀。練習では壁に向かって練習するという鉄人チョップで、場内を興奮させていった。
その試合後、小橋は天龍に握手を求めるドラマが起きた。日刊スポーツでは「歴史的握手」と報じた。互いに存在を認めない平行線を歩み続けた過去を考えれば、これ以上のドラマはない。
この日詰め掛けた4400人の観客は、再びノアを、小橋の試合を見たいと思う。こういった積み重ねが、7月18日の東京ドーム大会に、6万2000人という驚異的な動員を図れた理由なのだろう。
こうなれば、小橋と天龍の定期的なタッグを結成してはいかがか。全日本が誇る最強タッグリーグ戦と同等のタッグイベントを開催すれば、ノア人気は盤石となるのではないか。三沢社長には、ぜひ、ご一考を願いたい。旗揚げから5年3カ月。ノアの顧客満足度は、右肩上がりを続けていくはず。再びプロレス黄金時代の主役を担ってほしい。
November 5, 2005 03:12 PM
2005年10月26日
ツネにリーダー宮本
悪夢としか言いようがない。JリーグG大阪のDF宮本恒靖(28)が、22日の大分戦(万博)で右ひざを負傷した。担架で運ばれる苦悶(くもん)の表情は、ナビスコ杯決勝やリーグ戦の出場が厳しくなったと、容易に察知できた。全治は4週間だから全戦絶望ではないが、無冠クラブが一気に2冠獲得のチャンス。これは、本人が最も悔しいだろう。
G大阪でプロ契約を結んだ95年から11年間、彼の成長を見てきた。学生時代からチームでは主将、学校では生徒会長や学級委員を歴任したという。男前で英語が得意で、知性も兼備している。
02年W杯では、鼻骨骨折しながらフェースガード姿で活躍し、大ブレーク。NHK紅白歌合戦の特別審査委員に選ばれ、個人カレンダーや写真集は7000部以上が即座に完売。世間の愛称は「ツネ様」。嫁も子供もいて、ポジションは地味なDFなのに、ここまで存在感を示せたのは、ある意味でFWカズに並んだといっても過言ではない。
表面的には完ぺきな人間と思えるが、決してそうではない。
もう時効だろう。03年4月29日の鹿島戦(万博)だった。後半ロスタイムに宮本が相手にPKを与え、G大阪が逆転負け。試合後の宮本の「あの判断は間違っていなかった」という談話がメディアに流れ、チーム内も揺れた。最低でも引き分けで終わらせたい展開で、関係者は「それは言うべき言葉じゃない」と憤慨した。
本人は決して「オレが悪くない」と示唆したかったのではない。ペナルティーエリア内だったが、あの場面でチャージしないと決定機になった。それに対するプレーの根拠を述べただけだが、プロの集団だからそんな1フレーズが、カチンとくることもある。思ったことはストレートに表現する宮本に、取材をしているこちらが、ヤキモキしたのも数回ではない。当時、26歳だった。
G大阪で初主将を務めた00年もそう。シーズン中断中にセリエAブレシアの紅白戦に参加した。イタリアへは2泊4日の強行軍というから驚いた。リーグ戦を控えた状況で、冷静沈着な宮本の奥底に眠る無鉄砲さに、違和感をおぼえた。欧州移籍の願望が強すぎたのかもしれない。当時、まだ23歳の若さだった。
今年の宮本は主将の肩書はないが、シジクレイ主将を補佐し、周囲を冷静に見渡せしている。8月末にセリエAトレビソからオファーが届いた際に「G大阪で優勝したいから」と移籍を断念した。精鋭が集まる代表で発揮していたリーダーシップが、ようやくクラブで自然体で表現できている。彼にもリーダーとしての経験が必要だった。
優勝の重圧がかかる終盤戦。宮本が仮に欠場していても、練習場でリハビリに励む姿があれば、チームに活力を与えるはずだ。「ツネさんのぶんまで頑張らないと」とはエース大黒。真のリーダーになった28歳の宮本は、こんなケガに負ける男ではない。私も1日も早い復帰を願っている。
October 26, 2005 12:39 PM
2005年10月16日
根付け浪速のバスケ
年をとれば、芸能界の話題にはついていけない。自分の中で男性アイドルの歴史は、光GENJIで止まっている。10年前からそうだった。
「この少年ら、誰やねん?」
95年秋に大阪・舞洲アリーナで行われたバレーボール女子のW杯。取材現場を歩いていると、廊下の踊り場で複数の少年が座っていた。すると、マイク持参で彼らはバレーコートに出ていくではないか。
その正体は、ジャニーズのアイドルグループ「V6」だった。試合前にデビュー曲を披露するという民放テレビ局の企画。だから観客は9割以上が女子中高生で、超満員。動員をかける有効手段として、タイアップものは当時から行われていた。
先日、同様の熱気ある現場に遭遇した。bj(男子プロバスケットボール)リーグのプレシーズンマッチ、大阪エヴェッサ対埼玉ブロンコス戦。大阪側の本拠地なみはやドームで開催され、無料とはいえ平日の夜に5042人、客席の約7割が埋まるという信じられない動員に成功した。
年齢は10代後半から20代前半が主で男女半々。アイドルでも来場するのかと思ったが、純粋なバスケットボールの興行だ。前列の女性ファンは、大阪の選手名を書いたプラカードを掲げている。まるで芸能人のコンサート級なのだ。
bjリーグは、日本初のプロリーグとして11月5日に開幕する。大阪からは大阪エヴェッサが新興球団として誕生した。チームコンセプトは、実力と同時に個性的であること。ドラフトで男前をそろえ、記者でさえ気付かない速さで、大阪の人気が上昇していた。
バスケットボールは、日本では地味な印象だが、大阪の競技愛好者は、東京の37万人を上回る日本一の46万人。日本バスケットボール協会へは約60万人が登録、サッカーは同約86万人。「地味な競技」というのは、国内にプロが存在していたかの差だと気付く。「ここまで応援してもらえるとは。次はサイン会とかで触れ合う機会があれば」とは大阪のCF中村友也(22)。イケメンの彼は、あの当時のV6の姿とだぶる。
不景気な時代背景で、男前をそろえたから、実力があるから繁栄するわけでない。しかし、大阪の会場はダンスチームによる一体感を生むパフォーマンス、派手な照明設備、音響といい、エンターテインメント性が確立されている。お笑いの吉本興業が協力しており、開幕戦はサプライズのゲストまで送り込んでくるという。競技1本だけで成功させるといった片意地も張っておらず、球団はとにかく観客の満足度を高めたいという。
ちなみに「エヴェッサ」とは、商売繁盛の神様・えびす様から由来している。開幕当日といえば、Jリーグのナビスコ杯決勝でG大阪が初王座をかけて戦う歴史的な日。大阪の記者は本当に忙しい秋を迎える。プロ野球、サッカーに続いて、バスケットボールが、浪速の街に根付くことを祈りたい。
October 16, 2005 01:22 PM
2005年10月06日
トレーナーの選手眼
あれから5年。00年秋華賞で、初めて購入した馬券が当たった快感は忘れられない。ふと立ち寄った場外馬券場で、ユニークな馬名だったティコティコタックの単勝を買った。結果はズバリ。ヤマカツスズランを差し切った。
「ははは、それは代表的なビギナーズラックでしょう、ははは」。
笑い飛ばしたのは、ボクシングWBCバンタム級王者長谷川穂積(24=千里馬神戸)を教える、山下正人トレーナー(43)。今年4月には最強王者ウィラポンから王座を獲得、9月には初防衛を成功させた名コーチ。今回のV1戦に密着している最中に、山下さんが万馬券を当てた。だから自慢話で対抗したが、一笑に付されてしまった。
山下さんは馬券購入の際は、必ず阪神競馬場に足を運び、パドックで馬の様子を確かめる。好相性の和田騎手で、あとは自分の観察眼と経験則。だから今回の万馬券は、偶然の結果ではない。財布の中を見せてもらったが、数百円単位で細かく買った馬券があり、小遣いであらゆる可能性を求めていた。生涯成績は「負け越し」らしいが、天性のセンスは間違いない。
トレーナーの仕事は、競馬の調教師と似ている。実際に調教師も「トレーナー」と呼ばれているし、いかに競走馬を最高の状態で出走させられるかは、ボクシングと同じ。職人的な世界で、細かい神経がないと絶対にできない。
今回の防衛戦も、山下さんの仕事ぶりは鮮やかだった。試合8日前に挑戦者の故障で、左から右利きの選手に変更された。長谷川に動揺はあったが、6日前にはWBA世界フライ級の王座戦を後楽園ホールで観戦させ闘志注入、翌日は銭湯でリラックス、その次はホテルの部屋でK-1のテレビ中継を見させ、徐々に戦闘モードへと移行させていった。緊張と緩和。選手をうまく操縦していた。
実際に技術面は、長谷川の特長を伸ばすべく強打に重点を置いた。テレビで放送された完ぺきな打撃戦を見れば、その指導が正しく、KO率の低かった長谷川が成長している事実が理解できる。王座奪取の春より強い。そこにはビギナーズラックは存在しない。
兵庫県警の暴力団担当だった山下さんは異色の経歴でボクシング歴はない。相手のクセを見抜く目は、県警時に築かれた。職種が変わっても、要はその人の資質があれば名トレーナーになれたわけで、長谷川からは「人の精神力をコントロールする天才」と尊敬されている。
山下さんの給料は、長谷川のファイトマネーから支払われる。十分なお金を得られていない世界王者だけに、その額は高額ではない。
「結果を残したことで、こんなヤツもおると分かってもらったらうれしい。長谷川も競馬? 私についてきて時々、小額ですが、買ってますよ(笑い)」。業界には名トレーナーに贈られるエディタウンゼント賞がある。万馬券以上にうれしい賞が来春、山下さんに届くはずだ。
October 6, 2005 10:28 AM
2005年09月26日
偶然ではない快進撃
サラリーマンとして会社組織に属せば、1度は社員研修という勉強会に参加しているはず。大阪日刊スポーツだと入社直後、たとえスポーツ記者に配属されるとしても、営業など他部署でどんな仕事をしているかを学ぶ。本紙を扱う販売店で早朝の新聞配達を手伝うこともある。
最近はプロスポーツも同様の取り組みが盛んだ。Jリーグではリーグ全体で新人研修会を開くが、各クラブ単位でも積極的な活動になってきた。関西では今年に入り、C大阪や神戸の選手が、繁華街で試合の告知活動に励む。プロだから試合で結果を残していればいいという考えは古い。チケットを売る苦労や仕組みが理解できなければ、クラブ全体の発展はない。
G大阪が今季、首位戦線に加わっている。優勝すれば13年目での初戴冠。関西勢では最初のリーグ制覇となる。超スローペースだったかもしれないが、組織として成長した証しだ。
クラブ単位での啓蒙活動は、実はG大阪が関西では先陣を切っていた。99年ごろから本格的に選手を駅前に立たせ、営業の機会を与えた。「ツネ様」宮本も立派な経験者。地元小学校を訪問し、選手がサッカー指導を行ったのもG大阪だ。
クラブ主導の研修会も定期的に開く。首位争いをする今夏は、若手対象の研修会があった。「選手とマスコミ」というテーマの内容で、私も記者代表で見学、参加させていただいた。ワールドユース代表の家長、リーグ通算1万ゴールを決めた前田らが練習後にもかかわらず、机に向かう。私たちと「どうマスコミと付き合っていけば良いか」という討論をした。
「僕が最近、困ったことは、記者から同じ質問を繰り返してされること。それが同じ記者が同じ質問をしてくる場合もある。そんな時はどうしたらいいんでしょうか?」。家長が私に質問をぶつけてきた。
私は「ある程度は我慢してほしい」と答え、付け加えた。「もし家長選手の協力で、その取材が記事になったとする。読者が読んで、家長選手を応援したいと思えば、万博に観戦に来てくれるかもしれない。そんな気の持ち方で、営業に協力できることもある」。彼はうなずいてくれた。
G大阪は過去、あしき伝統が先行していた。バブル時代の延長線だったリーグ発足直後、某選手はベンチを外されたことで激高、監督の批判を始めた。別の選手はフロントの批判と、内紛は日常的。勘違いもはなはだしかった。それが選手の人間育成を目的に90年代後半から、クラブが選手に多角的な教育を始め、チームは優勝争いに加わり始めた。
今年の快進撃は偶然ではない。24日の首位G大阪と2位鹿島の首位決戦にはしびれた。2万2000人を超える大観衆が詰め掛けた光景、そして死力を尽くした試合。結果こそドローに終わったが、鹿島との攻防は歴史に残る名勝負だった。前G大阪担当記者として、最後の最後に笑うのはG大阪と信じている。
September 26, 2005 01:05 PM
2005年09月16日
武蔵の父にKO負け
最近のパチンコは「バトル系」の台が大ヒットするらしい。代表格はウルトラセブン、北斗の拳。主人公のセブンらが敵と対戦、勝てば大当たりや連チャンが続いていく。ヒットの理由は「打ち手がキャラに感情移入でき、自身が正義のヒーローになれるため」らしい。なるほど、と感心してしまう。
少し意味は違うが、私が今、最も感情移入するバトル系の人物は、K-1ファイターの武蔵(32=正道会館)だ。今夏、米人気SF映画「スター・ウォーズ」の試写会で、ゲスト出演した彼と1対1で取材する機会があった。
楽屋での第一声は、笑顔で「ウおっす」。アポなし取材なのに、気さくに話をしてくれた。「この映画は子供心にワクワクして、シリーズは見てました。ライトセーバーが格好よくて欲しかったんですよ~」。森昭生(本名)の素顔がのぞいていた。
武蔵好きになったのは、さらに理由がある。「人気テレビアニメ『一休さん』に登場した寺社奉行、蜷川新右衛門は、武蔵一家の先祖だった」という企画取材のために先日、大阪在住の武蔵の父、森康行さん(65)と大阪府内の某駅で待ち合わせをした。突然のお願いで、互いに顔を知らないのに、お父さんは約束の時間より随分前に到着されていた。
「初めまして。武蔵の父です。この駅の周辺は私、あまり知らないので、先ほど、歩いて調べておきました。ここから数分のところに喫茶店があるので、そこで取材はいかがですか」。
取材を依頼した人間が使うべき「気」を、お父さんに使っていただくとは…。これだけで記者はKO負け。ジーンときた。武蔵の生い立ちや、新右衛門さんにまつわるエピソードを、長時間にわたって話していただいた。
新右衛門さんは室町時代の連歌師でもあり、文学史に名を残す。武蔵の祖父は東大出身、お父さんは学習院大卒。武蔵も大学に進んで、インストラクターのアルバイトをしていたそうだ。文武両道を絵に描いたような一家で、いろんな側面を取材できたことは、記者生活の大きな財産。武蔵の人間性がどんどん好きになった。
この取材の影響を受けてか最近、ケーブルテレビで「一休さん」の再放送を見ている。一休さんが禅問答の冒頭で「そもさん(さあ、この問題分かるかな? という意)」といえば、新右衛門さんが「せっぱ(説破=説き破るぞ)」と応じる場面がある。30年前だと意味が分からなかったが、今だとよく理解できる問答の場面だ。新右衛門さんの顔が武蔵に見えたりする。
こんな再発見も、武蔵および、お父さんに感謝する次第。今月23日の「K-1 WORLD GP開幕戦」には、2年連続準優勝の武蔵が出場する。先週、お父さんに電話すると「優勝できますかねぇ」とドキドキされていた。さあ、悲願の世界一へ。ウルトラセブンよりも強い、私の正義の味方の登場でもある。
September 16, 2005 10:13 AM
2005年09月06日
ボルトンが変わった
サッカー日本代表のMF中田英寿(28)が今夏、イングランド・プレミアリーグに移籍した。その移籍先がまさか、まさかのボルトンだった。あのクラブとは2度と接点はないと思っていたのに。
4年前の01年夏、C大阪からボルトンに期限付き移籍したFW西沢明訓(29)を取材するために、現地を訪れた。北部の大都市マンチェスターから車で30分走ると、お目当ての街にたどり着く。当時の西沢は、G大阪からアーセナルに移籍した稲本と2人で、日本人初のプレミアリーガーとして注目された。記者としても未知の世界に心は騒いだ。
ところが、期待の反動は大きかった。本拠リーボック・スタジアムこそ近代的な建物で、立派なホテルまで隣接され、よそ者が観戦で訪れるには何1つ不自由はなかった。だが、ボルトンの日本プレスに対する扱いは理解に苦しむものだった。
欧州各国の試合を取材するには、事前に申請書を主催クラブに送る。稲本がいたアーセナルの場合、申請者が殺到して抽選になることはあったが、セリエAや他のプレミアクラブも総じて取材許可が下りた。
なのに田舎街のボルトンは、日本プレスを門前払いにした。理由を尋ねても広報担当から答えはない。一般入場券を購入、客席から試合を見守ったものだ。記者席に入れたのは滞在期間中、数回だった。
理由は想像するしかないが、当時の日本は彼らにとってサッカー後進国でしかなかったはず。過去に取材申請をしなかった日本プレスを、簡単に自分たちの庭に招き入れることは、サッカーの母国の誇りが許さなかったのではないか。ただ1つ好感を持てたのは、当時から指揮をとっていたアラダイス監督が、質問に気さくに応じてくれたことだった。
今回のコラムは何が言いたかったのだろうか? そう、時間がたてば、ボルトンの日本に対するスタンスも変わったということ。
日本軽視とも思われたクラブが今夏、日本に親善試合のために来日した。アラダイス監督が直接ヒデを口説いて獲得したこともサプライズだった。02年W杯で日本がベスト16に入ったことも大きい。西沢の在籍を皮切りに、ヒデの加入で、より日本を理解してくれたのだろう。現在、現地で取材する春日通信員は「今は取材申請は全部許可してもらっています」と国際電話で笑っていた。
ちなみに、西沢とヒデは同学年で大親友。今夏に大阪で再会した際には、西沢は「ボルトン移籍? やめておいた方がいい」と助言したそうだ。
英国北部特有の曇天続きで気分はめいるし、独身には刺激のない田舎街。サッカー以外に楽しみを見つけるのは難しいが、ヒデは移籍を決断し、おかげでボルトンの試合を、日本国内でも目にすることが多くなった。これも何かの縁。距離があった日本とボルトンの関係良化を祝いながら、新シーズンのワンダラーズの躍進を期待しておこう。
September 6, 2005 11:46 AM
2005年08月27日
中学部活に新モデル
サッカー日本代表は来年のドイツ大会で、3大会連続の出場を決めている。Jリーグの誕生で競技人口が増え、選手の質が飛躍的に向上した結果だろう。
しかし、黄金時代が永遠に続くわけではない。「日本が20XX年W杯本大会出場を逃す」。2010年、14年、18年大会、いや、その先かもしれないが、近い将来、冬の時代が訪れる可能性は十分にある。
日本の少子化に歯止めがかからない。女性1人の平均出産数は最高だった71年が2・16人で、04年が1・29人。最近は4年連続で過去最低を更新中という。少子化が進めば、サッカーの競技人口や質まで低下するのは必然的だからだ。
すでに学校体育の現場では、生徒数の減少で、大阪府下の中学では92年から8年間で約900の部活が休部に追い込まれたという。日本サッカー協会への選手登録は04年で約86万人。確実に増加傾向にあるが、未登録者の登録比率が上がっただけという指摘もある。
02年4月、大阪・吹田市の千里丘中学を舞台に「吹田JFC千里丘」(略称・千里丘FC)という男子中学生のクラブチームが誕生した。同校部員と周辺の他校選手で構成。千里丘中は新潟DF藤井、千葉FW川淵らJリーガーを輩出し、01年の全国大会で準優勝した名門だが、02年は少子化の影響などで部員が十数人に激減した。有能選手を抱えながら休部危機に迫られた。
千里丘中教諭の吉沢秀樹監督(43)は、同じ悩みを持つ中学が多いとは感じていた。そこで学校の壁を取り除き、各学校関係者や地域の理解と、吹田市サッカー連盟の後押しを受け、新概念の千里丘FCをつくった。
「基本技術を学ぶ大切な3年間に、何もしなければレベルは下がる。世界に通用するには、この年代の育成が欠かせないと思っていましたから」。
中学の部活とJクラブのジュニアユースが合体した感覚に近い。ある選手はクラブユースの大会を目指し、試合に出られない選手は中体連の大会に目標を変更する。ハード面を理由に競技と決別する選手を呼び止め、技量向上に有効な場となる。今は約80人の大所帯へと成長した。
千里丘FCを運営するのは、吉沢監督ら地域の大人たちだ。「吹田フットボールネットワーク」と命名し、この3月には特定非営利活動(NPO)法人の認可を受けた。「学校体育と地域スポーツの融合」を広く認知してもらうのが狙いだった。趣旨に賛同したセルジオ越後氏(日刊スポーツ評論家)が特別顧問に名を連ねた。
法人化発起人の四國(しこく)光氏(49)宮井教孝氏(42)は時間があれば、校庭内の練習を見守る。「大人がいれば、不法侵入者を防ぐ事件抑止効果もある。この組織が日本のモデルケースになればと思います」。Jリーグが掲げた普及スローガン「百年構想」は、Jクラブだけのものではない。千里丘FCが掲げた理念は、少子化に悩む日本を救う貴重なアシストとなる。
August 27, 2005 12:20 PM
2005年08月17日
為末父にみた家族愛
夏の高校野球大会が佳境に入ってきた。スポーツ記者は、担当競技に関係なく1度は、この甲子園で取材のイロハを学ぶ。基本はアルプススタンド巡り。選手の家族を何千人の応援団の中から探し、取材できれば関門突破だ。そこでの出会いで、選手の思わぬエピソードを聞けたりする。選手との距離が縮まった気もする。その意味で家族という取材対象は、我々に欠かせない存在だ。
世界陸上ヘルシンキ大会で、為末大(ためすえ・だい、27=APF)が男子400メートル障害で2大会ぶりの銅メダルを獲得した。雨の中で拳を掲げる写真を紙面で見ると、熱いものが伝わってきた。
今から11年半前の94年1月、彼が広島・五日市中3年時に取材した。6種目で93年度の中学記録トップに立っていた。当時、広島総局で勤務していた私は「怪物ランナー」の特集を組むために学校に出向いた。河野裕二顧問(現美鈴が丘中校長)と2人で、体育教官室で応対してくれた。
「僕は小学校のころ、本当は練習が嫌いだった。長距離練習をしていると、頭の中で悪魔が『もうやめておけ』とささやく。でも中学になると、天使が『頑張れば記録が伸びるよ』と言ってくれるようになった。今は天使と友達なんです」。
15歳とは思えない感受性豊かで、人なつっこい笑顔の受け答え。最後に本人は「ずっと陸上選手でいたい」と話した。法大から大阪ガスに入社し、安定した生活を保障されながら03年に退社した。プロに転向したのは、当時から将来設計していたのかもしれない。
話は戻る。特集記事が掲載された当日、広島総局の会社を見知らぬ中年男性が訪ねてきた。「今日の日刊スポーツを10部ほど売っていただけますか?」。偶然に対応した私は、紳士然としたその人と会話しているうちに、為末の父親だと分かった。
「紙面に息子が載っているんです。記念にたくさん取っておきたいと思いましてね」。にこやかで、物腰の柔らかい人だった。広島の地元新聞社で事業関係の仕事をしているという。あれこれと、10分ほど会話が弾んだ。取材時の為末の笑顔は、お父さんから譲り受けたのだろうと、勝手に想像したりもした。
それが2年前の03年7月に、敏行さんは54歳の若さで他界した。小さな訃報(ふほう)記事を読んだ当時、私でさえショックを受けた。まだ20代の為末のことを思うと胸が痛んだ。01年の大会で獲得した銅メダルを、為末は母文枝さん(55)に贈っている。「今回のメダルは、父にあげる約束をしていました」。残念ながら果たせなかった夢。先輩記者の書いた記事を読み、再びジーンときた。
彼が中学卒業後は、取材機会に恵まれていない。それでも、身近に感じられるのは、お父さんとの出会いがあったから。取材対象との距離を縮めてくれた典型的な例だった。「侍ハードラー」の背中を、天国のお父さんが押している。私は為末父子をこれからも応援していく。
August 17, 2005 11:30 AM
2005年08月07日
クイーン道歩む愛ちゃん
中国SLとは、日本でいう都道府県対抗戦で、世界最高峰のプロリーグ。12の地域が団体戦で争う。今季は6月に開幕し、12月3日の最終戦まで全22試合。契約は年俸制で基本給に加え、勝利給は1勝ごとに数万円、首位攻防戦など状況によっては10万円以上も支給される。最高で年俸1000万円前後、下は数百万円。ちなみに遼寧省は、全日空がスポンサーを務める強豪チームだ。
現地に借りた一軒家で、父武彦さん(63)母千代さん(52)と同居。日本からお米と調味料を持ち込み、母親の手料理で体調管理がなされている。東北3省の中の遼寧省は「北海の真珠」と呼ばれる港町。これだけだと最高の環境に思うが、想定外はホームアンドアウエー制による移動距離だった。
日本の約26倍という広大な面積を持つ中国。ホームはいいが、アウエーだと飛行機で3時間、さらにバスで5時間の移動はザラ。日本の道路事情とかけ離れ、高速路だけではなく砂利道の一般路が多い。夜間開催の場合、深夜に帰路につく。ほとんどの選手は故障を抱え、その大半が腰痛だ。
宿泊先は日本でいうホテルではなく、合宿所のような粗雑なもの。用意された食事は、クセのある味で同じ中国人でも口にしない料理がある。手配はすべて対戦チームがする。文句は言えないらしい。
この環境に、愛ちゃんは耐え抜く。日本に一時帰国した7月下旬、中国生活について本人は「移動疲れ? 私だけが(過酷な移動を)しているんじゃないので大丈夫。卓球の腕は? そこそこ。高望みしないでやってます」とケロリ。武彦さんが「卓球は下手になったねぇ。でもそういう挑戦に意味があるから」と笑っていた。
日本の学生を取材していると、卓球に限らず、例えば関西の学校が関東、九州に練習試合のためにバス移動して大変と耳にする。現在は夏休みの真っ最中。長時間の猛練習に耐え切れないで、退部届が出されるのもこの時期の特徴か。プロアマの差はあれど、目の前の難題を乗り越える行為は変わらない。5歳から中国遠征を繰り返してきた愛ちゃんの精神的強さには感服するしかない。
日本スポーツ界の模範生になる愛ちゃん。カズが「キング・カズ」と呼ばれたのと同じく、10年、20年後あたりには「クイーン(女王)愛」という称号を手にしているかもしれない。
August 7, 2005 11:58 AM
2005年07月28日
本気?それとも冗談
人間、追い込まれたら本性が出てしまう。新日本プロレスの元IWGP王者・中邑真輔(25)。今年2月、大当たり確率約1/300のパチンコで2000回転も大当たりが引けない状態に陥った。彼は理知的な性格で有名だが、そのパチンコメーカーに問い合わせたという。
「いやぁ、50連チャン以上も記録している機種なので、逆にそんなハマリもあるのでは…」とは担当者の弁。ちなみに機種名はアントニオ○○をモチーフにした台。燃える闘魂に、鉄拳制裁を食らった。あの人気絶大の中邑クンが、と思えばクスッとしてしまう。
こちらは背筋がゾクッとした事件だ。先日の全日本プロレス大阪大会。第1試合でタッグを組んでいたNOSAWA(ノサワ)論外(28)とMAZADA(マサダ=30)が試合後、報道陣控室になだれ込んできた。
「なんだ、今の試合は?」。マサダが憤慨。「そう言うなよ…」。パートナーの論外は泣きそうな顔。お笑い満載の試合展開に、マサダは悪役としての誇りが傷ついた。激しい試合がしたかったようだ。
そこに新たな怒号が響いた。「(マスコミに見せる事ではないから)外に出てけ!」。レフェリー生活31年目、この人が裁けば泣く子も黙るという和田京平レフェリー(50)が怒った。普通の選手だと黙るはずなのに、マサダは逆ギレした。「うるせぇってんだよ、お前こそ黙ってろって!」。
これに京平さんが逆逆ギレ。「よぉうし、表出やがれ。このヤロー!!」と叫んだ瞬間には、もう右ストレートがマサダの左顔面をとらえていた。制止に入った論外に、ア然とする武藤社長。路上で酔っぱらいのけんかは見た事あるが、仕事場で、しかもレスラーとレフェリーが殴り合うなんて。これが、2人の本性なのか。報道陣控室には凍り付いた空気が流れた。
全試合終了後、再び京平さんがやってきた。
「あのヤロー(マサダ)は謝りにもこないぜ。移動バスの中で刺されないように警戒しないとな。どうしたんだよ(記者の)みんな、暗い顔して」。
あのね、京平さん、それはアナタが原因でしょ。「あんな乱闘騒ぎを起こすから」と突っ込みたかったが、私は小心者だ。
学生時代、猪木がホーガンにアックスボンバーを浴びて、舌出し失神KOされたのを見た時、夜は怖くて眠れなかった。今回は目の前で起きた大げんか。その夜は寝付きが悪かった。
事件の数日後、ある業界関係者から連絡がきた。
「横田さん、あのけんか、本気だと思ってるの? 記者をビビらすための京平さん流の冗談。レスラーは一銭にもならないけんかはしません」(その人はクスッと笑う。自信ありの表情だ)。
となると、京平さんが主犯、マサダは共犯か? 確証はない。もしかして本物のけんかだった可能性は捨て切れない。しかし、不安になってきた。今後の全日本は、揺れる心境で取材をすることになりそうだ。
July 28, 2005 01:08 PM
2005年07月18日
「人間的」野獣サップ
最近は写真週刊誌でスポーツ選手、芸能人の交際相手が表面化する時代。相手が有名人であれば、なおさら情報が猛スピードで伝わっていく。
K-1で活躍する総合格闘家のボブ・サップ(30=米国)が、公になっていない失恋話を、何と自らの口で語ってくれた。
「恋人? いたよ。過去形だけどね。彼女は日本人で看護婦さん。すごく好きだった。でも、問題は僕のスケジュールだった。過密すぎて、年に6回しか会えなかった。彼女が、もう待つのはイヤと言ってきた。僕が振られたんだね」。
K-1WORLD GP開幕戦(9月23日、大阪ドーム)の会見が先日、関西テレビで行われた。会見を終え、私は控室をのぞいてみた。いるではないか、野獣が。こんな機会はない。試合では聞けない、私生活のことを尋ねてみた。
サップの知名度は、この3年で一気に上がった。総合格闘家として実績を残してきたから、テレビ番組の出演依頼が届く。愛きょう満点の笑顔と片言の日本語で笑いを誘う。10社以上のテレビCMに出演している。真のエンターテイナーになった。
しかし、昨年1年間は地獄をみた。5月に藤田和之との総合戦で、サッカーボールキックでタップアウト負け。レイ・セフォーの右フックにも沈んだ。腰を引いた姿に、格闘家失格のらく印を押された。ハリウッド映画にも出演したが、惨敗の傷が顔に残り、映画会社からあわや契約破棄にされかけたという。彼女とも別れ、心身とも最悪の状態だった。
それが今年は5戦全勝と完全復活している。地獄からはい上がってこられたのは、失恋を経験し、周囲の支えがあったから。
米シアトルの自宅は、家族が留守を守ってくれている。家族といっても猫と犬。体重15キロの大型山猫「トリニティ」に、一般的な小猫「ラスカル」と「リーダー」の3匹。犬「フォクシー」は、猫たちの監視役。計4匹はサップをいやしてくれる存在なのだ。映画「ティファニーで朝食を」で、オードリー・ヘプバーンが子猫を抱く姿を連想してしまう。かわいらしい野獣ではないか。
「僕の夢は、動物たちの施設を作ること。東京ドームの半分くらいの土地に池が1つ、そこに僕は一緒に住みたい。動物の保護地域で、彼らの楽園なんだ。すてきと思わない?」。
ここまで率直な会話ができる野獣とは…いいヤツだ。
8月4日にプロレス「W-1」に出場、その後はWORLD GP開幕戦の崔洪万(チェ・ホンマン)戦に備える。ボクシングの元世界王者マイク・タイソンとの歴史的一戦の実現も目指す。
当分は恋愛の時間もなさそうだ。「でも結婚相手は日本人でもOKね。ムハハハ!」。豪快に笑ったサップは、これからもある時は失恋や敗戦を重ね、強くなっていく。わずか1メートルの距離で会話を交わし、人間サップの魅力に触れることができた。
July 18, 2005 10:14 AM
2005年07月08日
これで日本最高峰?
企業でいえば倒産寸前の状態だ。積立金も底を突いてきた。自転車操業で耐えられるのは今年限りか。だから、自分たちの看板を失うのは覚悟している。
女子サッカーLリーグの「宝塚バニーズ」(兵庫・宝塚市)が、来年にも京都に移転する可能性が高くなった。京都府サッカー協会への移管交渉中で、スポンサー企業も探している。話がまとまれば、例えば「京都バニーズ」といった名前で再生。選手が運営資金を自己負担してきたが、今回の移管で何割かは軽減される。
宝塚はバブルの申し子だった。ゴルフ場を経営する旭国際が90年に「旭国際バニーズ」を創部。95年には現名に変更となり、アトランタ五輪代表のエース野田に、外国人選手まで抱えていた。社員選手も競技に専念。勝てば勝利ボーナスを得られた。当時の年間運営資金は軽く1億円を超えていたという。
それが企業の撤退で、この6年間は選手だけの自主運営に切り替えられた。同じLリーグの高槻(大阪)も松下電器が撤退したが、高槻市体育協会が支援してくれた。しかし宝塚には応援組織は現れなかった。
最近の宝塚の運営資金は800万円と、全盛時の1割未満。関東圏への遠征に新幹線はご法度で、片道約500キロをバスに揺られて往復している。選手は遠征のたびにホテル代を含め1万円の出費。日々の練習場使用料、その交通費も自腹。これが女子の日本最高峰リーグの環境かと思えば、切なくなる。
だから、京都への移管で究極の財政難から脱出できれば、彼女たちの競技レベル向上になる。選手が試合会場で募金活動をすることも減っていくだろう。
昨年のアテネ五輪で、なでしこジャパンのFW荒川の本職がスーパーのレジ打ちということで話題になった。宝塚ではDF阪上は生活協同組合、FW三浦はガソリンスタンド、その他のメンバーもOLをしながら、生活費=競技費を稼いでいる。
在籍14年目でチーム最年長の31歳、2年前に旭国際を辞めたDF田中は、現在は大阪・豊中市の仕出し店「やまいち」で働く。「故障や手術をすれば、病院代がすべて自己負担なのがきつい。それでも頑張るのは? 若い子に追い抜かれたくないから」。前向きな姿勢には感動を覚える。
TASAKIなど恵まれた環境は、企業チームに限定される。Lリーグには何か、救済策はないのだろうか。鈴木保事務局長にぶつけた。「なでしこの知名度はあっても、Lリーグは知られていないのが現状。これを打破するために、リーグと契約してくれるスポンサーを探しています」。こちらも必死だった。
宝塚は今季、リーグ開幕から12連敗中。残り9試合で1部残留をかける。蔵(くら)力夫代表は「2部に絶対に落ちたくはない」と力を込める。宝塚として戦う、おそらく最後のシーズン。彼女たちは、勇敢に、美しく、戦い抜くことを心に決めている。
July 8, 2005 12:10 PM
2005年06月28日
夢露芸能界で技磨く
これも五輪舞台でメダルを獲得するための過程でしかない。
スノーボード女子ハーフパイプ競技で、来年2月開幕のトリノ五輪代表に内定した成田夢露(めろ、17=夢くらぶ)が、今年10月から関西の民放テレビ局でレギュラー番組を持つことが内定した。出演は事前録画で、トークあり、歌ありといった芸能人顔負けの内容になるようだ。
五輪を4カ月後に控えた時期に、遊んでいる場合? という批判も聞こえてきそうだが、本人は通常の練習を完全にこなした上での芸能界進出だ。
スノーボードは採点競技という特殊性がある。5人の審判員を魅了させ、観客を自分の世界に引き込まないと高得点は生まれない。舞台俳優と同じ感覚だろう。だから芸の道に入り、共演者、視聴者との駆け引きを覚えるのは、大賛成。すでにスタイリストがつき、彼女はどんどんきれいになっていくのが分かる。
歌手としてCDデビューの話も進行中だ。今春から大阪市内で発声練習を始めた。師事したのは、69年に「港町シャンソン」で60万枚のヒットを飛ばしたジャズシンガー原田信夫さん。70歳の師匠が「彼女は3オクターブの音階を持つプロ級の素材」と驚いている。
先日はその歌声をライブハウスで披露した。原田先生のコンサートに飛び入り参加し、ラップグループ「童子-T」の曲に、自ら作った歌詞をはめ込んで「夢」という歌を歌った。前評判通りの歌唱力だった。
「感想? 楽しかったですよ。歌詞は1週間で完成させました。スノーボードは自分が競技をして、楽しさと喜びが生まれる。歌はみんなと空気を分かち合う感じが好き。私はいろんな面で輝いていきたい」。
17歳の瞳はキラキラしていた。今回の歌はトリノ五輪の会場でかける。8人が進出する決勝は1人60秒の競技時間内に、各自が選曲した音楽を流してもいい。夢露が作った歌詞で、夢露がメダルをつかむ。歌詞は変更せず、曲はヒップ・ホップグループ「キック・ザ・カンクルー」に作曲を依頼する案もあるとか。
史上最年少の12歳でプロスノーボーダーとなり、大阪・加賀屋中を卒業後は高校に進学しないで競技に専念してきた。兄童夢(どうむ=19)弟緑夢(ぐりむ=11)も同競技のトップ選手で、この世界で「成田3兄妹」を知らない人はいない。代表内定以降、どこへ行くにも夢露にテレビカメラが密着し、ドキュメンタリー番組の制作も進む。
現在は体のバランスを整えるために、トランポリンの練習をこなす。実際にその腕前も際立っており、08年北京五輪をトランポリンで狙う可能性がある。実現すれば、冬・夏季五輪のダブル出場になる。この年齢で、中期的な人生設計図が描けているとは恐るべしだ。
大阪から誕生した大型ヒロインだけに、今後はさらに取材機会が増えそう。同じ大阪人。応援せずにはいられません。
June 28, 2005 03:22 PM
2005年06月18日
新日vs前田ありえる
プロレス会場で取材していれば、ハプニングに遭遇することは多い。
数年前のゼロワンでは試合中に突然、観客がリングに入ってきた。アレクサンダー大塚に似た大男。若手がつまみ出そうとするが男は徹底抗戦した。戦慄(せんりつ)の番外戦だった。
ノアでは関係者と客が激しく口論をしているのを目撃した。だが、騒動に気付いた丸藤正道が仲裁に入ると、客は「アンタのファンやったんや」と逆に笑顔で去っていった。
プロレスとは宝箱。何が起きるか、飛び出すか分からない。
ゾクッとする出来事が最近もあった。新日本の永田裕志(37)と格闘王・前田日明氏(46)のガチンコ対決がぼっ発した。元新日本の前田氏が専門誌で、後輩にあたる永田のプロレスを「おちゃらけ」と表現したのが発端で、激しい中傷合戦に発展した。この種の対立は通常だと演出が多いのだが、今回は違った。
5月14日の新日本東京ドーム大会は、さらに危険な状況になった。1月末で新日本を退団した柴田勝頼らが、無断で会場に押しかけてきた。前田軍の先兵として、永田に挑戦状をたたきつけるためだった。特に柴田は、新日本に「戦いがない」という理由で退団していた。新日本側の怒りは半端ではない。選手会長の飯塚高史が防波堤となり、リングに近寄らせなかった。
「あの時は選手会長として、1人のレスラーとして『出て行ってくれ』と言いに行った。リングに入ってくれば、袋だたき? そう、新日本を批判して出ていったのに、その人間があの場に来るのはおかしいでしょ」。だから柴田らはリングサイドで観戦するだけだった。
プロレスでは他団体との対戦は、最低限の信頼関係がないと成立しない。新日本の幹部は「前田側と対戦するなど考えられない。ウチが助ける筋合いもない」と、交戦の可能性を完全否定する。では前田軍に挑発される永田はどう思っているのか。
「すでに引退している前田日明と口論しても、思想の戦いでしかない。だから前田という名前を背負うレスラーであれば戦ってもいい。今秋? 夏までにやってもいいよ」。
永田は新Tシャツを近日中に発売するという。背中には「クチバシの黄色いハナたれ小僧」の文字がプリントされている。これは、前田氏が永田を雑誌上で批判した言葉ではないか!? 「オレは何でも商売にするんでね」。当事者の永田が前田軍との対戦に前向きになっている。
結論から言えば、新日本内に、前田軍との開戦を積極的に支持する人間はいない。しかし、この世界は「絶対」という言葉が存在しないのも事実。昨秋は犬猿の仲、ハッスル軍の参戦を許可した経緯がある。果たして、長州力の顔面を蹴って新日本を追放された、あの怖い前田日明(軍)との対戦はあるのか。新日本内部にうごめく「拒絶感」は理解しつつ、内心は1%の可能性に期待している。
June 18, 2005 12:16 PM
2005年06月08日
故障、もう1つの戦い
スポーツ記者の宿命といえばそれまでだが、選手が負傷、故障する場面に立ち会うほど、この仕事でつらいものはない。
あの絶叫は脳裏から離れない。96年2月のアトランタ五輪アジア最終予選直前のマレーシア合宿。当時絶対的エースの小倉隆史(名古屋)が、紅白戦で右ひざ後十字じん帯を断裂した。空中戦からの着地に失敗し、ゴキッと音がした。「痛い、痛いっ」という叫びは尋常ではない。
その夜は宿泊先のホテルで応急処置が施され、1本20㏄の注射で、ひざから6回も血が抜かれた。前園らが励ましに訪れたが、泣きじゃくっていた。本人が一番状況を分かっていたのだろう。
選手生命を脅かす深刻な負傷で、小倉の五輪は終わった。救いだったのは、残った仲間が28年ぶりの五輪出場権を獲得したこと。本人も7カ月後に復帰し、現在もJ2甲府で現役を続けている事実だ。ブラジルを撃破した「マイアミの奇跡」は、選手登録されなかった男の悔し涙からも誕生したと思う。
3大会連続の本大会出場をかけたW杯ドイツ大会のアジア最終予選。3日、首都マナマで行われたバーレーン戦でアウエーの逆境を乗り越え、日本代表が王手をかけた。喜びで沸き返る日本に翌4日、小野伸二(フェイエノールト)が1人で帰国した。試合直前に右足甲(小指付け根付近の第5中足骨)を疲労骨折し、当日はスタンドで観戦。故障個所の精密検査と手術を受けるためだった。
中足骨はサッカー選手の職業病と呼ばれる。事前に本人や周囲が危険信号を察知でき、ボルトを埋め込む補強手術ができれば、骨折までには至らない場合が多いという。アトランタ五輪日本代表担当医だった柳田博美ドクター(G大阪)から先日、貴重な意見を聞くことができた。
「疲労骨折とは、部位の使い過ぎとバランスの悪さ、ストレスのかかる体形が生むもの。急な切り込みから、センタリングを上げるといったプレースタイルが起因する場合がある。私的な印象だが、走行距離が長いサイドの選手に多い。センターバックではあまり聞きませんからね。小野君も無念だったと思います」。
中盤の万能選手として小野は、オランダで活躍してきた。正確なパスやクロスは、足首を激しく動かすがゆえに、足の甲への影響も少なくはない。長年の疲労の蓄積が、代償として大一番の前に出てしまった。救いは、バーレーン戦で決勝点を決めた小笠原満男(鹿島)の「伸二のためにも勝ちたかった」という言葉。サバイバル競争が存在するのと同時に、いつの時代も、仲間を思いやる気持ちが感動を与えてくれる。
サッカー選手は使用するピッチ、スパイク、ボールが違うだけで故障の原因になるという。恥骨炎やヘルニアも関連性が指摘されている。それほど過酷な競技だからこそ、世界最強を決めるW杯は盛り上がる。ドイツへと突き進む日本代表に、小野ら故障者が早く復帰できることを願っている。
June 8, 2005 12:42 PM
2005年05月29日
優れた指導者の条件
今週は貴重な体験をしてきた。JR京都駅から湖西線の鈍行電車に揺られ、比良駅で下車。琵琶湖、比良山の風景を横目に10分ほど歩けば、びわこ成蹊スポーツ大(滋賀)にたどり着いた。開校3年目。サッカー元日本代表DF井原正巳さんが客員教授で在籍しており、校舎には新築のにおいが残っていた。
私がJ1広島担当だった時代、同クラブで国際担当部長をしていた伊藤庸夫教授から特別講師の依頼を受けての訪問だった。「スポーツ情報論」の授業で、スポーツ記者とは? を90分間にわたって講義した。対象は入学1期生にあたる3年生の30人。
質疑応答では「記者は作文が得意でないとなれないの?」という質問から「次に欧州に移籍するサッカー選手は?」「阪神の井川投手はメジャーにいけないのか?」と多種多様。普段は原稿を書くのがメーンの仕事だけに、大人数を相手に話すことが、いかに難しいか。自己採点は赤点デビューだった。
そういえば、広島で育った選手は、指導者として成功している。小林伸二(C大阪)松田浩(福岡)ら各監督は一線級で活躍中だし、2年前に引退した元日本代表MF森保一氏は、すでにU-18日本代表コーチに就任している。彼らの共通項は、大人数を前に自分の意思を的確に伝えられる力があること。学校の授業で教師に求められる要素と、近いものがある。
広島は、選手以上に指導者の育成を手がけた組織だった。前身マツダだった日本リーグ時代の87年にオフト監督が就任。そのころから、指導者同士による4、5人のグループ討論会が義務づけられた。選手には根性論ではなく、理論で教えられないといけない。年に数回はコミュニケーションスキル発達を目指し、専門講師を招いていた。
C大阪で今季、守備を再建させた小林監督から「当時は指導者による1泊2日の研修旅行が、定期的にあった。リポートも書いていたねぇ」と聞いたことがある。例えば選手との接し方では、不調の選手には自分の真正面ではなく横に座らせ、互いに視線を合わさないで会話するのが圧迫感を与えないコツだとも教えられて、自らも経験で悟ったという。
総監督として当時、対話術の習得を推奨してきた今西和男氏は現在、吉備国際大(岡山)の教授に就任している。伊藤教授には広島在籍時、私を含めた記者育成のために、クラブ組織について講習会を開いてもらったことがある。広島出身ではないが、元日本代表DFの清雲栄純氏は法大教授に、元東京V社長の坂田信久氏は国士大大学院教授になっている。
理論的で実戦的な結果を残してきた人は、現役を引退したり、Jクラブを退団しても引く手あまたという証拠なのだろう。Jリーガーも引退後は、指導者へと進んでいく。成功するカギは、言葉の伝達をいかにうまく行えるか。過去の実績は関係ない。「話す」という行為は、奥が深い。
May 29, 2005 01:52 PM
2005年05月19日
若手登場が再建の鍵
全日本女子プロレスが4月をもって解散した。日本最古の女子団体で、37年間の歴史があった。旗揚げの68年といえば、私が生まれた年で同級生のような親近感があった。解散原因は30億円という負債だった。
中年男性なら女子プロレスに、自らの青春を重なり合わせる人が多い。70年代はビューティ・ペアが、リングだけでなく、歌手としてテレビ番組で人気を誇ったし、80年代はクラッシュギャルズが続いた。
本屋では人気レスラーの写真集が並ぶ。健康的で、時には(セミ)ヌードといった刺激的なカットで、世間の男はとりこになった。
記者が取材活動する大阪で唯一、その栄光の歴史を語れる人がいる。大阪プロレスで現在、営業など全般を任されたゼネラルマネジャーの白鳥(しらとり)智香子さん(31)だ。16歳だった91年3月に全女に入門し、吉本女子を経て、01年に現役を引退。女子最後の黄金時代となった90年代前半を駆け抜けてきた。
個人的な意見で申し訳ない。白鳥さんは歴代の女子レスラーの中で最も美しい選手だった。リングネームのように、白鳥(はくちょう)のように白い肌でリングを舞う。モデルのような線の細い体でアジャ・コング、豊田真奈美らと団体を支えた。「孤高のヴィーナス」で歌手デビュー。写真集は3冊発売、テレビドラマにも出演した。
その全女OGで伝説のアイドルに先日、女子プロ再建論を尋ねた。
「団体が乱立したこともあるんですが、いつまでもベテランのレスラーが現役を続けていては、新しい選手が出てこられない。新陳代謝が必要です。若くてかわいいレスラーを発掘、育成しなければお客さんは戻ってきません」。
この答えにムッ、とする大御所がいるかもしれないが「東京だとしがらみがあるけど、大阪なので大丈夫」とニコリ。
白鳥さんの全女時代は「3禁=男・酒・たばこは厳禁」という戒律があった。ファンの幻想を破ることは許されなかった。1つでも破れば、会社から退団を迫られる。今では消滅した25歳定年制の規則もあり、必然的に厳選された芸能界並みのアイドルが育った。
白鳥さんの元には当時、ファンから婚姻届を同封されて「僕と結婚して下さい」という手紙が届いたという。
これらの3禁や定年制度が現代にマッチするかは分からない。しかし、偉大なるOGの意見に耳を傾けることは大切だ。白鳥さんは今、大阪プロの選手をメディアやイベントに売り込む仕事もしている。自らが味わった黄金時代を、彼らにも体験させてあげたいと願っている。
私は無理は承知で「白鳥さんっ、現役復帰ないですか?」と聞いてみた。
「ありません。世代交代を主張する私が復帰すれば、さっきの話はウソになりますからね」。大人になった白鳥さんの笑顔は天使のようだった。
こんなレスラーが次々とデビューすればなぁ。取材後は、思わずため息が出た。
May 19, 2005 11:58 AM
2005年05月09日
理想の継続サポート
女子サッカーのLリーグはかつて、バブルの申し子と呼ばれていた。広告塔の役割を期待され、有力企業が運営に乗り出した。五輪で正式種目に採用された96年アトランタ大会が頂点だっただろうか。だが、90年代後半から日興証券、プリマハム、松下電器などの企業は、リストラ策で休・廃部に踏み切った。
1チームの年間運営資金は2000万~7000万円(J1では二十数億円が最低基準)といわれる。それが00年シドニー五輪の出場を逃し、マスコミの露出も激減した。わずか数千万円の投資でさえ、企業内では許されなくなった。当時は仕事をしないプロ契約選手が主流も、今では沢穂希(日テレ)だけだ。
女子の歴史を振り返っていて、あらためて気付いたことがある。Lリーグ(当初は日本リーグ)は89年の第1回大会から今年で17年目を迎えた。そこで唯一、最初から参加し続けている企業が、TASAKIペルーレFC(神戸市)を運営する宝飾チェーンの田崎真珠だった。
昨年のアネテ五輪で5人の代表を輩出して、知名度は今でこそ高い。だが、リーグ初優勝は参戦15年目の03年だったし、アトランタ五輪に誰も派遣できなかった。93年に2部リーグに降格しているし、95年には阪神・淡路大震災に見舞われた。記者も関西で取材活動を重ねてきて、TASAKIは遠い存在だった。経営者にすれば、何度でも運営撤退の節目を迎えたはずだが、田崎真珠の創業者でTASAKI総監督の田崎俊作社長(76)は「一切考えなかった」という。
「実際にやめていった企業が続出したが、私は挑戦を選んだ。サッカーを頑張ることで、選手の仕事にも好影響がある。(アテネ五輪で)先行投資額から、おつりがきたな。半永久に活動してくれたらいいよ」。
この言葉に偽りがないのは、17年間の投資で証明されている。Jリーグの取材でも感じることは、現場は、我々が考える以上に出資企業の動向を気にしている。関西のJ1某クラブで数年前、メーンスポンサー撤退のうわさが流れた。関係者は水面下で撤退阻止の下交渉を続けた。当事者には精神衛生上、本当に良くない話題なのだ。
現在のLリーグ1部8チームで、完全な企業運営はほかに東京電力だけ。主流は高槻、伊賀のような市民クラブの形態で、市民からの後援会費が命綱になっている。プロ野球でも企業撤退や吸収合併の話題は避けられなくなった。そう思えば、企業から完全サポートされているTASAKIは日本スポーツ界の理想郷なのかもしれない。
4月末のLリーグ・日テレ戦の観戦に突然、田崎社長が神戸ユニバー記念競技場に現れ、サポーターに数百本の缶ビールを差し入れた。関係者は「典型的な、金は出すが口は出さない社長」と感謝している。北京五輪は3年後の夏。なでしこジャパンの成績は、ドイツ語で「真珠」を意味するペルーレが握っている。
May 9, 2005 10:43 AM
2005年04月29日
西野イズム復活を
人間は年齢を重ねていくうちに、性格や考え方は変わっていく。
サッカー日本代表のMF中田英寿(28=フィオレンティーナ)と初めて会話したのは、平塚(現湘南)入団2年目の96年3月。アトランタ五輪アジア最終予選を開催していたマレーシアだった。当時は19歳。話題提供の意味で「(Jリーグ開幕戦で)平塚が負けたよ」と振ってみた。
「僕はそのことに関知していません」。機械的な口調はまるで国会の答弁。腰が抜けそうな感覚に襲われた。アンタの所属先ちゃうの? 記者は内心では突っ込みを入れていた。
その2年半後、98年8月にまたもや取材の機会を得た。W杯フランス大会で活躍、平塚からセリエAペルージャに移籍した直後だった。ヒデ様の取材で渡欧することになり、日本で最新号のサッカー誌を購入、手土産にして現地入りした。
「ごめんなさい、先週号をまだ読んでないので、その雑誌は読めません。僕はバックナンバーの順番に読まないとだめなんです」。神経質やなあ~、と心の中で突っ込みを入れたが、その口調は実に人間味があった。ホッとした。
同じ五輪組で現在、丸くなり過ぎた人がいる。ブラジルから歴史的金星を奪った西野朗監督(50)だ。五輪後は柏で、02年からはG大阪監督に就任し、年間順位は3、10、3位。4年目の今季も現在5位につけている。数字自体は合格なのだろうが、個人的に大きな不満を持っている。
記者は西野イズムが大好きだった。過去形だ。9年前、信念を曲げない姿にしびれた。不必要と思えばヒデ様でも試合に使わなかった。規律は絶対に守らせた。非公開練習は五輪時はブラジル戦前日の1回だけ。言動に確固たる自信がにじんだ。柏時代も強気な采配でナビスコ杯を飾った。
それがこの1、2年、すっかり変わった。今季は練習に遅刻した選手を試合に即起用した。試合前のミーティングが長くなった。週に1、2回は非公開練習を実施。試合中はベンチで迷った表情を浮かべる。格下との対戦で、あえて先に選手、システムをかえて自滅を招く。周囲からは「普通の監督になってしまったなぁ」という声を聞く。
Jリーグでは同じクラブで続けて指揮するのは3年が限界という定説がある。安住の地は決してプラスにはならないからだ。4年目以降に突入しているのは鹿島トニーニョ・セレーゾ、東京原、G大阪西野の3監督だけ。続投できるのは好成績を収めている証拠で否定する気はない。要は丸くなっても優勝できればいいのだが。
中田は現在、所属先で出場機会が激減している。西野監督は善戦マンの汚名返上に立ち向かう。キーワードは9年前、カナリア軍団に正面から立ち向かった精神力だと思う。懐古趣味と言われても構わない。あのストイックな勝負師・西野朗に戻ってほしい。ならば、今年はG大阪の優勝で決まりだ。
April 29, 2005 11:46 AM
2005年04月19日
左ハイをプロレスで
ノドが渇けばジュースの1杯でも飲みたい。でもお金がない。財布を忘れたわけでなく本当にない。先輩から教えられた「麦茶に砂糖を入れて紅茶と思え」という生活の知恵を思い出した。欲求を満たすために、その若手プロレスラーは実行したという。彼の月給は家賃を除けば5万円。まさに極限の生活で、笑うに笑えない話だった。
K-1でも活躍している村浜武洋(30)が、5年間所属していた大阪プロレスを4月1日で退団した。冒頭の生活苦は、村浜でもなければ大阪プロの話ではない。ただ、プロレス業界全体が低迷しており、年収1000万円を超えているのは限られた団体の限られた選手だけ。かつて新日本のIWGPジュニア王座に挑戦し、ノアでも大暴れした村浜とはいえ、K-1出場は不定期で、プロレスが経済基盤だと、ファンに夢を与えられるような生活に達していないという。
悩んだ末の結論が、全国区への本格進出だ。大阪限定のインディーでは甘えが出てしまう。収入の限界も見える。だから、10日にはゼロワンMAXの東京・靖国神社相撲場の興行に視察目的で乗り込んだが、ジュニアの強豪・高岩竜一にケンカを売られ、スーツ姿の村浜が買ったことで、ゼロワンMAXという全国舞台が主戦場になるかもしれない。同団体が中心となって開催される5月のディファ杯への出場が早速決定した。
番記者とすれば、村浜には大阪で培った力でトップに君臨してもらいたい。いわば高校野球地方大会を勝ち抜き、甲子園でどれだけ通用するかという期待に近い感覚だ。
そんな村浜の送別会が先日行われ、2月に出場したK-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメント以来、記者は2カ月ぶりに再会してきた。K-1では魔裟斗と同格に扱われた実力者だが、昨年に山本KID徳郁に完敗してからは株価急落。今回は1回戦HAYATO戦でミルコ顔負けの左ハイキックで復活KO勝利を飾った。
「(1回にダウンを奪われて、最終3回に)ハイキックで逆転勝ちって、一番盛り上がるパターン。いかにもプロレス的な勝ち方ができた。(準決勝での判定負けは)不完全燃焼ですが、1回戦の派手な勝ち方で観客の印象には残ったはずでしょう」。大会で得た賞金で、新婦とオーストラリアのケアンズに行き、コアラを抱いてきたという。
プロレスの環境は変化していくが、今後も生活の拠点は大阪に置く。早ければ5月から自主運営の格闘技教室を開催する。これは利益追求ではなく、技術や精神面を受講生に伝授していくのが目的。プロだから名誉やお金への欲がある一方で、純粋な格闘家の血がそうさせていく。
送別会の席では「ぜひプロレスのリングで、あのハイキックをしてほしいなぁ」と、個人的なリクエストを出しておいた。「考えておきますわ」とニヤっと笑っていた。もしかして、もしかすると近いうちに見られるかもしれない。
April 19, 2005 10:50 AM
2005年04月09日
信長の子孫は大らか
新年度が始まり、関大(大阪・吹田市)の入学式を取材してきた。歌手の矢井田瞳、落語家桂三枝を輩出した有名大に、今春は約8000人の新入生が誕生した。その中に、フィギュアスケート世界ジュニア選手権(3月・カナダ)で優勝した織田信成(18)がいた。
戦国武将・織田信長から17代目にあたる子孫で、トリノ五輪の有力候補になったことで、世間の注目度は一気に上がった。信長は天下統一を目前にした1582年、京都・本能寺で明智光秀の謀反によって命を落とした。自分の先祖が歴史上の人物ってどんな感覚なのか。今回ばかりは俗っぽい好奇心に襲われた。
幸運にもこの1週間、彼に密着できた。大学内でのイベントで語った内容を含めて、興味ある質疑応答を紙上再現した。
初めて信長の子孫と知ったのはいつ?
「(大阪・高槻市立郡家)小6の時に、親から知らされました。その直後の社会のテストで戦国時代の問題が出て、僕は満点でした。(高槻市立第二)中学の時は、日本史で戦国時代の授業になると先生が丁寧に教えてくれました」。
信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と言ったが、あなたは?
「僕は殺しはしないけど、うーん…鳴くか鳴かないかは、あんまりどうでもいい(苦笑い)。ちなみに『信長の野望』(テレビゲーム)はやったことはないです。先祖といっても、人ごとみたいですね」。
大学での目標は?
「友達1000人つくること。ショートカットの彼女募集中。安藤美姫? 友人ですね(大笑い)」。
これらの受け答えで、彼がごく普通の18歳と分かった。座右の銘は「ダラダラ頑張る、です。一生懸命に頑張りすぎても、やる気がなさすぎてもダメ。マイペースという意味です」。スーツのスソからのぞく緑色の靴下はユニクロで買ったという。信長の子孫で、お堅い先入観は消えた。
母でコーチの憲子さん(57)の話も紹介したい。織田の父で16代目にあたる信義さん(62)と結婚して1度、大失敗したという。信義さんの実家に仏花を届けた際、本能寺の変で戦った明智家の花・桔梗(ききょう)を交ぜてしまった。織田家に嫁いだという意味を強く感じたという。信成という選手が天真らんまんなキャラであるだけに、ご両親の子育てに対しての気苦労がうかがえてならない。
トリノ五輪男子の出場枠は1と超難関。今後は成功率4割という4回転ジャンプ習得にも果敢に挑戦していく。大阪・阿武野高時代はオダリンと呼ばれていたとか。女の話題はミキティに、男子はオダリンとフィギュア界はにぎやかだ。今回の取材で、日本史の参考書を開いてみた。描かれた信長の似顔絵を見て、ふと気付いた。4世紀の時を隔てても信成の鼻は、ご先祖様とそっくりだった。楽市楽座に検地と、信長が施した歴史用語まで再び勉強できるとは。春から少し得した気分になった。
April 9, 2005 11:11 AM
