記者コラム「見た 聞いた 思った」

上野耕太郎

2006年01月04日

必死さあっての親切

 年末のある夜、部長とデスクが「不幸自慢」で一騎打ちをしていた。「ソ連での取材では」「取材して夜行の寝台列車に乗って次の日の昼に」などなど…。それを聞きながら、自分には劇的なネタがないものだと思ったりした。帰宅してから「ある人」に助けてもらったことを思い出した。日付も覚えている。95年3月1日だった。

 3週間近い行き当たりばったりの出張。当時は1度北海道から「内地」に出ると、これ幸いという感じで日替わりで飛ばされた。高校野球のキャンプ(名古屋)とスキーの取材(福島)の後だったため、巨大な荷物と極寒の装いだった。目的地は福岡ドームだった。前日、デスクに「福岡に行って北海道出身の佐藤真一(40=昨季で引退)から話を聞いてこい。担当記者に失礼のないように」と言われた。

 福岡ドームに着いた。多くの記者がスーツ姿だった。福岡のダイエー担当にあいさつし、趣旨を説明した。「ごめんな。忙しいから勝手にやって」と言ったきり、バタバタとその先輩記者は飛び出していった。何かムードがピリピリしている。当然だ。この日は就任した王監督の福岡ドーム初オープン戦だった。

 新人だった私はプロ野球の取材の仕方も分からず、途方に暮れた。グラウンドに出ても、どうしていいか分からなかった。居場所がなく食堂でボーッと立っていると北海道弁が聞こえてきた。「道産子の先輩」がなぜか座って雑談をしていた。1人に耐えきれなくなり、その初対面の「先輩」に近づき突然あいさつした。今の窮地を訴えていた。「お前、難儀だなー」。妙に厚着をした私をいきなり「お前」と呼び、気さくに笑った。歌手の松山千春氏(50)だった。

 「行くぞ」と言うなりグラウンドに向かった。「王さん、久しぶりっ」と松山氏はいきなり王監督にあいさつ。周りに記者、カメラマンが殺到する。握手をしながらカメラマンにポーズを取る。そして私を小さく手招きした。「こいつ、北海道から真一の取材に来たんだよ。ちょっと話してやってよ」。緊張しながら取材した。同じように「真一っ~」と佐藤選手を手招きしてくれたのも松山氏だった。

 3年後に取材で再会した松山氏にお礼を言うと「そっか、そっか。でも、覚えてねーよ」と言っていた。でも私は覚えている。本当にうれしかったからだ。

 仕事をしているなかで、いろいろな「親切」に出会うことがある。さまざまな人に支えてもらった。ただし、こちらに必死さがないと相手には伝わらないと思う。松山氏が見ず知らずの田舎の兄ちゃんに親切だったのは、地元が一緒だから? それとも北海道弁だったから? 違うと思う。私が恐ろしく必死で焦った表情だったのだろう。

 新しい年を迎えた。今年4月で36歳と年男だ。こんな話を書きながら思うことがあった。余裕をかますのはやめよう。大人の雰囲気? そんなものはいらないな。いつまでも情けなく、焦っている自分であり続けたい。苦しくても1歩を踏み出そうとするなら、それが自然だ。

January 4, 2006 10:19 AM

2005年12月24日

ジャンプ陣誇り持て

 不振のジャンプ陣にカミナリが落ちた。全日本スキー連盟の伊藤義郎会長(79)が16日の理事会のあいさつで「こういう状態で五輪に出す必要はないんじゃないかと思う。枠があるから出すというのではない」と発言したという。来年2月のトリノ五輪を前に派遣回避を示唆する発言は大きく取り上げられた。

 確かにジャンプ陣は苦しい戦いを強いられている。世代交代も進んでいないようにみえる。でもなぁ、正直に言えば仕方がないような気がする。だって最近、スキーをやってる人、少ないもんねぇ。

 ジャンプだけではなく、スキー人口が減っている。地元の少年団の数も激減。北海道のスキー場も国内ではなく、オーストラリアやアジアといった海外からのスキー客獲得を目指しているという。

 私が子供のころ、冬のスポーツと言えばスキーだった。地元の旭川市はスキーのメッカ。シーズンチケットを買い毎日、ゲレンデに出る友人も多数いた。高校でも週に2回、午後にスキー授業があった。1年生の最初の授業のときだ。全員を滑降させランク付けするのだが、95%がモーグル選手のような派手な滑降を見せていた。大げさな話ではない。

 80年代後半、スキーは大きなブームを迎えた。映画にもなった。最高のデートコースだった。スキーがうまければモテるなんて話も実際にあった気がする。しかし、時代は流れた。

 今年入社した新人に「学生時代ってスキーをやってた」と聞いてみた。

 「やるわけないじゃないっすか。寒いっすよ」。

 がっかりだ。最近では学校でのスキー授業も減少しているという。

 スポーツにも流行はあるのだろう。幼い時期からやってきたスキーの人気の低下は寂しい。寒くて、厳しい冬の到来。それでも、スキーができるという喜びもあった。

 今、担当している日本ハムから入来祐作投手が米大リーグ入りの道を模索している。野球、サッカーの多くの選手たちは90年代、可能性を求め海外へ旅立った。それにつれて海外の試合中継も増えた。

 よく考えてみると、常に海外で戦い続けてきたスポーツがある。ジャンプであり、複合でありスピードスケートといった冬季スポーツだ。海外でW杯を転戦し、4年に1度の五輪でその力を見せつけてきた。プロ野球選手も少なかった北海道にとって、選手たちの活躍は誇りに思えた。

 成功するときもあれば、失敗もある。海外に行ったプロ野球選手のすべてが活躍しているわけではない。冬季スポーツはルール変更などで一気に成績が変わることも多い。

 はっきり言って身びいきだが、自信を持ってジャンプ陣には戦ってほしい。自分たちの町で最強だった選手が日本でトップに立ち、海外で勝負してきたのだ。スキー人口は減っても、海外での成績が落ちてきても…。冬季スポーツの選手たちはメジャー挑戦の先駆者なのだから。

December 24, 2005 11:08 AM

2005年12月14日

貢献する貴重な人柄

 ちょっとした出来事で人柄が垣間見えることがある。

 私事で恐縮だが今年2月、娘が生まれた。初めての子だ。あまり丈夫ではないのかよく熱を出す。新米だけに慌ててしまう。

 11月下旬、担当する日本ハムの選手会の納会が山梨で行われた。朝6時、早朝ゴルフコンペが始まった。新庄選手が「1本足打法」で笑わせれば、ダルビッシュ選手がルーキーらしく? 大たたきをする。シーズン中では見ることのできないシーンが続く。こういう取材は見ていても楽しい。

 一転した。午後4時すぎに妻から電話が入った。1週間近く続いた娘の熱が引かず、病院でもお手上げの状況だという。慣れていないだけに動揺してしまった。出張予定はまだ先にも続いていた。焦った。

 取材するときに思わず顔に出てしまったのだろう。勘がいい選手がいた。この日、選手会長に選ばれた金子誠内野手(30)だった。自分の方が年上ではあるが、3歳と1歳の子供を持つ「先輩」に思わずこぼしてしまった。金子は静かに言った。

 「今、9カ月ですよね。この時期に高い熱を出して赤ちゃんから子供になるんですよ。心配しないでください。自分の子供も少し重い診断を下されたことがありましたけど、大丈夫でした。親が心配するほど子供は弱くないですよ」。

 何か自分の中で引っ掛かっていたものがスーッと引いていくのを感じた。その一言で救われた感じがした。

 アテネ五輪にも選ばれた金子はシーズン中、あまり笑顔を見せない選手の1人だ。常にピーンと張り詰めた空気を身にまとっている。実は今季、取材するタイミングが図りきれなかった選手だった。失礼ながらシーズン中とは違う一面を垣間見た気がした。

 ゴルフ場で話した後、ゆっくりと周りを見渡してみた。選手はラウンド終了後、宿舎に引き揚げていく。金子は最後までゴルフ場に残っていた。マスコミから要請されていた全員分のスコアの集計用紙の手配、ゴルフ場関係者へのあいさつなど見えないところでやっていた。外見はクールに見える。ただし、そういった作業を後輩任せにせず、自分からやるとこに「人柄」がにじみ出ている。

 プロ野球は社会の縮図だ。かつての「4番でエース」がプロの世界に入り、それぞれの役割を与えられ、こなしていく。観客を動員する力を持つスター選手、勝ち星でチームをけん引するエースがいる。一方でつなぎ役に徹し、自分を封じ込めてチームに貢献する選手も必要だ。V9時代の巨人、その後の西武など常勝球団ほど役割分担がはっきりしていた気がする。

 役割を自分自身で把握し、徹している企業やプロジェクトチームは強い。しかも「4番」や「エース」ではなく、勘所の良い「つなぎ役」は貴重な存在だ。

 金子は言う。「年下の選手に嫌われてもきついことも言っていこうかなって思う」。グラウンドのプレーだけでは見えない、縁の下の部分がそこにある。

December 14, 2005 11:35 AM

2005年12月04日

育成選手からヒット

 最近、北海道で「不思議な」ものが売れている。ジンギスカンキャラメルだ。食品メーカーの札幌グルメフーズが昨年6月に製造、あまりに忠実に再現したその味は強烈だ。ぜひとも機会があればチャレンジしてほしい。北海道のラジオ局で同社が自虐的にその商品をアピール。テレビ番組でも紹介されたこともあり「まずそう」「ちょっと怖いけど食べてみたい」という消費者心理を逆手にとって売れに売れている。

 世の中、何が幸いして好転するのか、さっぱり分からない。

 「たなからぼたもちとはボクのためにあるのかというくらい」「新幹線もグリーンですよ、グリーン」とトンデモ発言を連発し、バッシングを受けた自民党の杉村太蔵衆院議員も今やしっかり、人気者だ。街頭では人に囲まれ、笑顔をみせる。応援演説でも候補者を押しのけるほどの露出だった。脇の甘い発言が「正直でかわいい」という認識に推移している。今後、その評価がどう変化するのかは分からないけど…。

 さて本題。プロ野球界で初の育成選手選択会議が1日、東京・内幸町のコミッショナー事務局で開催された。この育成選手は1軍の試合に出場することはできない。背番号も100番以降。最低参稼報酬は年額240万円となっている。その名の通り、育成を目的とし、将来の一流選手を目指していく。通常のドラフトがプロ入りの夢をかなえたというならば、この育成選手選択会議で指名された選手は大きくその夢に近づいたことになるだろう。

 四国アイランドリーグからは2選手が指名された。少ない賃金で夢を実現させようとしている選手にエールを送りたい。そして、思う。1年後、2年後。その力を見せつけてくれと。

 プロの世界を取材していてもやっぱり、何が幸いするか分からない。

 実力があっても首脳陣の評価が低いこともある。同じポジションに有力な選手が集まり、出場機会が少ない可能性もある。指導者によって突然、その才能が開花することだってある。各球団で違うと思うが、育成選手の獲得に向け重要視されるのは「売り」だ。全体のレベルはプロまでもう1歩だが、肩が強い、足が速いといった魅力を持つ選手がピックアップされているように思える。チームに育ててみたいと思わせる何を持っているか-、それがカギだ。

 ジンギスカンキャラメルも開発段階で「まずいから発売はやめよう」となっていたら、こんなブームは起こっていない。人気が出始めている杉村衆院議員だって選挙に出ていなければただの若者だ。

 確かに育成選手は枠や規制があり、活躍してもすぐに1軍の舞台とはいかない。周りの選手と自分を比較してしまうこともあるだろう。でも、このチャンスを生かしてほしい。やっぱり、回り道してでも自分の夢を貫きたいという選手に自分を重ね合わせていく。今回の育成選手から球界を代表する「ヒット商品」が誕生して欲しいって、心から願う。

December 4, 2005 10:28 AM

2005年11月24日

偽造 今回だけなのか

 危険マンションが話題になっている。耐震強度が偽造され、調査の結果、震度5強の揺れで倒壊する可能性があるという。不動産業者は入居者に転居を要請し、転居費用を負担するとしている。

 マンションの購入って人生のなかでもっとも、高い買い物だ。私も昨年、マンションを買った。35年ローンだ。70歳まで払い続けることになる。そんなマンションが「危険マンション」だったとしたら…。シャレにならない。

 というか、震度5の地震がすでに来ていたらと考えると、怖い。しかも偽造は闇に葬り去られたかもしれない。無性に腹が立つ。つくったやつら、お前らが代わりに住んでみろと言いたくもなる。結構、この事件を自分に置き換えて感じ取っている人が多い気がする。

 日本ハムを担当している私がオリックスの試合のため神戸に行った時のことだ。タクシーに乗った。無口な運転手だった。ある道を通るとポツリと言った。

 「この辺はきれいになりましたよ。私が買ったマンションもこの辺りにありました」。

 95年の阪神・淡路大震災で家が倒壊し、ローンだけ残ったという。そして職も失った。

 「まさか神戸で地震が来るなんて考えてませんでしたよ。保険もかけていなかったし」と運転手は小声で言った。再度、家を購入して二重でローンを支払っていた知人もいたという。「借金が苦しかったのかなぁ。後になって自殺したやつ、姿を消したやつもいましてね…」。やりきれない気持ちになった。

 家を購入する直前ってワクワクするものだ。今後の人生設計を考えながら自分や家族の幸せをちょっとばかり期待したりして。そんな小さな幸せであり、人生で最大の支出が不幸な形で終わるのはたまらない。

 少し脱線するが、一昨年に北海道のある市営住宅を取材したことがある。取材するからには普通の物件ではない。すべて「ワケあり物件」だった。理由があって空き室にしていたところをあえて公表し、募集した。

 「平成10年、火災事故、焼死、男性68歳」「平成14年、害虫(シミ虫)の大量発生」。生々しい記載が続く。「事故内容」と「室内の写真」も提示した。

 「絶対、入居者が来るわけないよなぁ」と取材しながら思っていた。予想は覆る。気にしないって人が集まり、10室のワケあり部屋には111人の応募があった。

 家については人それぞれで考え方や主張があるだろう。ただ、売る側、貸す側には住む側に正確な情報を伝える義務がある。どんな商取引でも必要なこととは思う。ただし、住宅って駄目だからすぐに買い替えってことはよほどのお金持ちでないとできない。だから、誠実に対応してほしい。

 ただし、本当に耐震強度の偽造って今回発覚しただけなのかな。実は、知らないだけでかなりの建物がそうだとしたら…。人は家に安らぎを求める。購入者も伝え聞く我々も裏切られた気持ちだ。知らないで「ワケあり」物件に住むのはごめんだ。

November 24, 2005 11:40 AM

2005年11月14日

視線は常に視聴者に

 先日、このコラムで小林千穂記者が方言について書いていた。そうだよなぁ。確かに今、バラエティー番組でも「なまり」が流行している。04年に公開された映画「スウィングガールズ」を見たが、東北地方の女子高生のなまりがかわいらしかった。長きにわたって封印されてきた「なまり」が解放されようとしている。

 「なまり解禁」を先取りした番組が実は私の住む北海道にあった。地元のHTBが制作する「水曜どうでしょう」って深夜番組だ。96年10月9日に放送を開始。地元出身のタレント鈴井貴之と大泉洋が掛け合いながら旅をしていく内容。北海道弁も全開なのだが、異常にウケた。99年8月の秋田朝日放送を皮切りに全国20局以上がオンエアした。あの「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに大泉が登場するなど全国区に広がった。

 そしてこの10月、札幌に異変が起こった。東京に住む他社の日本ハム担当が「ホテル、飛行機が取れない」とぼやく。原因は…。14日から3日間、札幌真駒内競技場でファン交流イベント「水曜どうでしょう祭」を開催。道外客を中心に、4万人が集結した。おかげで札幌市内のホテルのほとんどが満室になり、新千歳空港行きの便も混雑した。

 これまでもグッズがネットオークションで高騰し、同番組のDVDは20億円を売り上げたという。先日、妻が友人と電話をした。その友人は同番組の熱狂的なファン。東京出身にもかかわらず番組の影響から見事な北海道弁を使っていたそうだ。

 昨年5月、1年9カ月ぶりに再開する同番組の取材に行った。ロケ中に大泉から話を聞こうとすると、いきなり吐き捨てた。

 「はっきり申し上げます。声を大にして言いたいですね。(ふーと一瞬、空を見上げ)番組を見るな!」。

 突然、何を言っているのかさっぱり分からず取材を進める。今度は藤村忠寿ディレクターがにこやかな笑顔で言う。

 「当初は放送を5回にしようと思っていたんですけど…、7回くらいになっちゃうかも」。

 スタートした番組の回数が決まっていない? 冗談かと思い同局の広報に確認した。「本当に未定で発表もできないんですよねぇ」。言葉の割に笑顔だった。
 すごいと思った。記者に対してテレビカメラも回っていないのに叫ぶ大泉、回数を決めずに編集作業をする藤村ディレクター、そして、それを認めてしまう局も。大胆であり、プロの仕事を感じた。私たち、そして番組でも普通に使っている北海道弁は他県の人からみるとちょっと間が抜けたように聞こえるかもしれない(北の国からとかね)。そして番組は目線が低く、誰もが親近感を覚えてしまう。

 藤村ディレクターは言う。「大泉、鈴井さんはカメラを見て話をしない。目線は常にカメラの後ろの僕たちで、視聴者に向かっている感覚の手法が面白い」。なまりを使った周到な仕事ぶりを感じた。人気は偶然に生まれるものではないんだよなぁ、やっぱり。

November 14, 2005 12:03 PM

2005年11月04日

葛西の笑顔が見たい

 私の住む札幌では「雪虫」と呼ばれる小さな虫が飛び始めた。厚手のコートを着込んで取材をしている。冬が近づいてきている。

 来年2月のトリノ冬季五輪まで100日を切った。個人的に応援している選手がいる。スキー・ジャンプの葛西紀明選手(33=土屋ホーム)だ。代表候補に入り、5度目の五輪出場に挑む。

 北海道で記者をやっているのにもかかわらずジャンプの取材は数えるほどしかない。恥ずかしながら片手で足りる程度だ。そんな私が今でも覚えていることがある。

 95年の冬のこと。入社1年目の私は初めて大倉山ジャンプ競技場に向かった。ジャンプ場は寒いと先輩記者から聞いていた。前日にスキーウエアを探したが、ない。大学時代は弟のウエアを借りていた。仕方がない。12歳からほとんど身長が伸びなかったせいで、小学校時代のウエアがまだ着られた。鏡を見ると流行からかけ離れた姿だった。

 テレビで見ていた冬のアスリートたちの取材に緊張していた。そんな不格好も気にしている余裕もなかった。「あっ、葛西だ」。緊張しながら取材に行った。あいさつをしている途中だ。葛西が人懐こい笑顔で噴き出し、言った。

 「どうしたんすか、その格好」。

 周りの記者も思わず笑っていた。その笑いを気にしたのか、すぐに真顔に戻った。

 「僕ので良ければ明日、持っていきます。もらったものとかありますから」。
 翌日に私は取材へ行けず、もらえずじまい。翌月、2回目の取材のとき。

 「この間、ウエアを持ってきていたんですけど。どなたかに渡せば良かったですね」。

 正直、その気遣いに驚いた。しかも、初対面の人間に対して。その後の記者経験でもこんな出来事はない。

 親切にしてもらっただけで、応援しているわけではない。信じられないような人生の厳しさを味わっているからだ。葛西が21歳の時、5歳下の妹久美子さんが大病を患った。97年5月には母幸子さんが知人宅で火事に遭い48歳の若さで他界した。

 天才は苦悩する。下川中3年の宮様大会ではテストジャンパーを務め、優勝者の記録を上回った。16歳8カ月での世界選手権の出場は日本人選手として破られてはいない。所属した地崎工業も98年3月末、その後移籍したマイカルも01年10月に廃部になった。

 絶えることのない笑顔。33歳の年齢以上に背負ったものがある。だからこそ、人の痛みが分かり過ぎるのかもしれない。2度しか取材をしていない私が言うのも失礼な話だが。

 日本のエースと呼ばれて15年。なぜか五輪、世界選手権といった大舞台で力が発揮できずにいる。02年のソルトレークシティー五輪では不調のため、団体戦の出場を辞退した。

 五輪のメダルは94年リレハンメル大会の団体銀のみ。来年こそ。わがままに、自分だけのために大きく飛んでほしい。優しい男の笑顔が見たいんだ。

November 4, 2005 12:11 PM

2005年10月25日

願えばかなう!?進化論

 先日あることに気が付いた。千葉・鎌ケ谷で日本ハムの若手選手が練習していたときだ。「鎌倉って足、長いなぁ」。他社のベテランカメラマンが20歳の鎌倉健投手のランニング姿を見てつぶやいた。確かにそうだった。189センチの長身で腰の位置がすごいところにある。

 ただし気付いたのは鎌倉の体形ではない。「足が長い」という褒め言葉を久しぶりに聞いたということだ。子供のころ「足の長さ」は絶対的な威力を誇っていた。松田優作、草刈正雄のスタイルも話題になっていた。私の母は言う。「石原裕次郎が出始めのとき、その足の長さにびっくりした」。股(また)下何センチというデータが重要視されていた。

 男性の格好良さ=足の長さという時代が存在した。少女漫画では体の5分の4が足っていうすさまじい「生物」も存在した。小学校時代の身体検査の話。座高を測るとき、猫背になるという姑息(こそく)な手段を用いた。田舎の子供は暇だ。その数値の引き算が測定後の話題になった。嫌な思い出だ。

 今、足の長さって「死語」なのかもしれない。今の10代では長いのが普通になったからだ。それに代わって褒め言葉の王座に君臨するのが「顔、小さいねぇ」だ。「伝道師」はタモリだ。笑っていいとものテレフォンショッキングで出演した芸能人に連発。小顔の芸能人があこがれの対象になった。永年の布教活動の末、新しい価値観を創造した。って、大げさ?

 そうすると、いつの間にか小顔になっていく。日本ハムの若手選手の顔もやはり小さい。鎌倉、ダルビッシュ、鵜久森と長身の選手たちは、体にちょこんと顔が乗っている感じだ。モデル体形で野球がうまい。それは反則だ。それに加え、ファンの目がある。素材が磨かれていく。

 体形の変化って昔に比べ食糧事情が変わり、欧米化が進んだから? 違うな。新しい格好良さの基準の創造→なりたいという願望→現実化-という流れが世代にわたって具体化している。「末代までたたってやる」というセリフがあるが「末代まで願ってやる」という感じか。これまでも「彫りが深い」「背が高い」「足が長い」「顔が小さい」という難題をクリアし、平均値を上げている。

 社会全体の願いは実は、かなったりするのではないか。ただし、世界平和とか人に優しくといったものではなく、「モテる」ことに直結するものだけだが。進化って意外と単純な願望からきているのかも。加速する進化に加え、注目されることでの研磨があるスポーツ選手って次世代の未来形なのかもしれない。

 「丸顔」「だんごっ鼻」「手足が細い」のがセクシーなんて時代が来たとする。10年後、かつて中日の投手として活躍した宣銅烈(現サムスン監督)のような選手が続々と出現。20年先、街角にはアンパンマン顔の若者が大量発生していたりして。

 ダーウィン先生、今西錦司先生、そして宣銅烈監督、バカみたいな「進化論」ですいません。

October 25, 2005 10:15 AM

2005年10月15日

「逆境」こそ試される

 第2の人生-。言葉では簡単に表現することができるが、直面すると難しい。4日、私が担当する日本ハムで8人の選手に戦力外通告がなされた。その2日後には岩本、芝草、山田というベテラン3選手が退団することになった。コーチ5人が解任され、スカウトは3人、すでに球団を離れることが決まった。プロの世界は厳しいと頭では理解しているつもりだった。その現場に直面すると胸が痛くなることもあった。

 私は今年で35歳になる。自分と同じような年代の選手たちが戦力外となっていく。体力と技術の世界は、自分の技量だけではなく若い選手の台頭などいろいろな側面を持つ。「高額の年俸をもらっているじゃん」という声もあるかもしれない。ただ、子供のころからやってきた野球と決別するのは選手にとっても大きな決断が必要だろう。引退後も野球に携わる仕事に就けるのはほんの一握りだ。

 戦力外通告を受けた選手たちは一様に「この日がいつか来ると思っていましたが、実際に来てみると…」と複雑な表情をみせた。投手コーチを打診されていた岩本も「野球人として現役希望の気持ちが強い。ファイターズで燃え尽き、現役を全うするのが夢だったが…」と現役続行を決意した。ただし、野球の世界だけではない。サラリーマン社会も会社の倒産、リストラといった現実がある。

 退団していく選手を取材しながら自分に置き換えてみた。マンションのローンあと、34年もある。経理や簿記ができるわけでもなく、営業職もやったことのない自分にとって転職が容易ではないと想像できる。美容師をやっている1つ下の弟は「腕」がある。自分にはそういった「売り」がない。

 と、暗くなりそうな時、自分の地元のある動物園のことを思い出した。私が中学、高校時代だから20年以上前の話だ。ラーメンが有名な我が町はデートコースといえる場所が皆無だった。そんな時、唯一のテーマパークであるこの動物園に足を運ぶことはなかった。友達同士でも「なんまら、がっせー(標準語訳=とても格好が悪い)」という評判だったからだ。96年には年間入場者が26万人とピーク時の半分に減少。地元の人からも興味を持たれず、ひっそりと営業していたその動物園は市議会でも不要論が飛び出し、閉館の危機を迎えた。

 逆境と発想、そして信念が重なり合った。「動物のありのままを見てもらう」。その独創的アイデアが「行動展示」という見せ方につながった。98年、オランウータンが空中で散歩し、ペンギンが水上を跳ねた。そう、旭川市にある旭山動物園は息を吹き返した。昨年度は7、8月と本年度は7月から3カ月間、上野動物園を抜いて月間入場者数が日本一になるなど快進撃を続ける。小泉首相が地方のV字回復の例えに使うほどの人気だ。

 言葉は悪いがまさに「火事場のばか力」だ。転機を迎えた選手だけではなく、自分にもいつか「逆境」は訪れるだろう。そのとき、自分の持っている力をどこまで発揮できるだろうか。正念場に強くありたいと思ったりする。

October 15, 2005 11:43 AM

2005年10月05日

ダルの武器は「自分」

 3日に高校生ドラフトが行われた。対象となった選手たちにとってはドキドキの1日だったと思う。ただし、私がこの原稿を書いているのは2日の夜なので結果は分からない。お手数ですが、詳細は3日の野球面をお読みください。

 さて、私が担当する日本ハムは残念ながらプレーオフ進出がならず、シーズンは終了した。昨年のドラフト時期から担当を始め1年が過ぎようとしている。早かった。しみじみ思う。前日にこのコラムで永井記者が1週間を振り返っていた。私も負けずにこの1年を思い出してみたいと思う。

 やっぱり、個人的にはダルビッシュに始まりダルビッシュに終わった1年だった。昨年のドラフト会議終了後、東北高や地元の大阪を行き来した。取材した最初の印象は「口の重い少年」だった(失礼)。1月の新人合同自主トレではいきなり、右ひざの関節炎でドクターストップがかかる。2月、沖縄でのキャンプでも練習メニューは限定。動けないけど、毎日同じような質問ばかり受ける。自分を含めてだが。イラだっていたのが分かった。

 そしてキャンプ中の喫煙が発覚し、無期限の謹慎処分を受けた。キャンプ帯同が中止になった。ダルビッシュを追いかけ同便で急きょ沖縄から羽田に向かった。空港には200人以上の報道陣とテレビカメラが待ち受けていた。手荷物を受け取る場所からガラス越しに見えた騒然とした雰囲気に私は思わずのまれてしまった。横を見た。ダルビッシュは全く表情を変えなかった。目の前にある現実に1歩も引かないその性格の一部を垣間見た気がした。

 3月末あたりから投球練習ができるようになった。ゆとりができたのかしゃべり方も、変わってきた。「ホンマっすか」「ちょっと、面白い話があるんすけど」と会話もするようになった。そして6月15日、プロ初先発で初勝利を挙げた。その後もローテーションを守り、5勝を挙げた。

 ある日のこと「緊張をしないのか」と聞いた。そうすると少し考えこう言った。「緊張をするのは自分をよく見せたいとかこう思われたいとかそういう気持ちがあるからじゃないですか。自分にはない。出た結果が今の自分のすべて。それ以上でもないし、それ以下でもない」。高校を卒業したばかりの少年の言葉にハッとした。あまりにクールな発言にも取れるが、本質を突いている。確かにそうだが、平常心を保つのは難しい。慌てれば顔に出るし、耳も赤くなる。その言葉にダルビッシュの根っこの部分があるように思う。

 札幌の寮に住むが、1人で買い物に出かける。各選手が移動用にブランド品のオシャレなバッグを所持するなか、ダルビッシュはスポーツメーカーの色のはげたものを肩に担いでいる。服装も髪形もこだわらない。「人にどう評価されるかってあんまり関係ないんです。自分は自分の目で見たものを信じます。ただし、自分のことは自分で見れないので…」。

 多彩な変化球、長身から繰り出す角度のある直球-。その特長のなかで一番、際立っていたのは、その少年の「自分へのスタンスの取り方」だったような気がする。

October 5, 2005 12:03 PM

2005年09月25日

すごい議員が現れた

 すごい新人が登場した。私が担当している日本ハムのルーキー、ダルビッシュ有投手(19)の話ではない。そのルーキーは北海道旭川市出身とだという。私と同郷だ。

 名前は杉村太蔵氏といい26歳。先日の衆院選で初当選した。21日、新人議員研修会に参加し、1人だけ「居残り特訓」をさせられたという。党執行部からその奔放発言に対し「待った」がかかるという得意なキャラクターですでに知っている方も多いと思う。

 強烈だ。「たなからぼたもちとはボクのためにあるのかというくらい」「新幹線も飛行機もグリーンですよ、グリーン」「当選して最初に議員報酬を調べました。そしたら年収2500万円ですよ」といった発言を繰り返す。怪物だ。

 旭川の有名な歯科医師の息子でテニスで札幌藻岩高に越境入学。国体で同校初の全国制覇をエースとしてもらたしたという。居残り特訓を終えた杉村議員は「お父さん、お母さんに『お前らしくやれ』と言われた。感じたことはどんどん言いたい」と言い放つ。自分の主義主張を説明するときに「お父さん、お母さんに」というもっとも社会人として危険な言葉を選択してみせる。

 はっきり言って、理解できない。すご腕だ。というか予定調和といったらよいのだろうか、様式美のようなものが、ぶっ壊れている。こういうときはこう話すとか、そもそも国会議員とは、といった固定観念からはるかに逸脱している。かつて我々の世代は「新人類」と呼ばれたが、また新たな人類の登場する時期にきているのだろう。「既存概念からの脱走兵」だ。

 まあ、どうでもいい。

 結局は結果だったりする。26歳の新人議員に居残り特訓が課せられた日、後藤田正晴氏が91歳で死去したことが報道された。官房長官や副総理を歴任し、護憲派と呼ばれた。72年のあさま山荘事件で警察庁長官として事件解決を指揮したことでも知られる。亡くなった日の報道では、政界のご意見番に対し賛辞を惜しまなかった。近年、政治家の死でこれほど惜しまれた人を私は知らない。

 ただし、後藤田氏は政治家に成り立てのころの評判は悪かったように記憶している。田中角栄首相がごり押しし、後藤田氏は地元徳島から出馬。当時の実力者だった三木武夫氏の強い影響力があった四国からの強引な出馬に後々、遺恨を残したという。後藤田氏の旧内務省出身という肩書も「独善的」というイメージを先行させた。そして30年が過ぎた。政治思想というのは人によってそれぞれあると思うが、評価は大きく変わった。

 分かり切ったことですが…。「入る」ことが目的ではなく、そこで何をするのかが大切なわけですよね。年収2500万円になることも、グリーン車に乗れることもそれが付随してくるだけで、目的ではないわけですよ。杉村議員は言う。「ボクが国会議員になってどう感じるのか、庶民とどう違うのか…」。すでに自分は庶民と違うとでも言いたげなその言葉を選んでみせる。「トホホ…。頼むよ、同郷の後輩先生」と思わず言いたくなった。

September 25, 2005 10:26 AM

2005年09月15日

薄らいでいる熱と信

 夏の甲子園の優勝校、駒大苫小牧が13日、秋の大会の地区予選の初戦を突破した。前部長の体罰問題に発した事件からようやく、再出発となった。私が住む北海道では8月、同校の甲子園連覇とそれ以降に発覚した体罰問題で大きく揺れた。私自身もいろいろ考えさせられた。

 今、教育って大きな問題だと思う。今回の衆院選でも少子化問題、教育現場の荒廃が盛んに取りざたされた。ただし、具体的な中身が伝わってきたとは言い難い。日本高野連は高校野球を教育の一環としてとらえている。度重なる不祥事などは高校野球の問題ではなく、教育の現場の今を伝えているのではないか。

 少し前に私は小学校時代の恩師と連絡を取った。その恩師は現在、校長を務めている。「正直、今は大変だよ。大人が大人じゃない。授業参観でも親同士がおしゃべりをしている。そんな中で教師もどうなのだろうか。若い先生に部活動を持ってほしいとお願いしたんだよ。そうしたら『休日が減るからいやです』と一言で断られたよ。寂しいねぇ。教える方にも親にも問題はあると思うんだ。すべてとは言わないが…」。何か大人全体が周囲の状況を把握していないというのか…、一言で言うなら子供だ。

 正確には思い出せないが、かつて田中角栄は「子供は3人つくりなさい。両親のひざは2つしかない。1つ足りないと子供に競争心が生まれてくるから」と言ったそうだ。少子化から子供は過保護に育っている。その言葉には単純だが、含蓄があるように思える。

 一方で北海道で数度、甲子園に出場を果たした監督はこう言った。60歳を超えるその監督は「子供はつくらなかったんだ。生徒が我が子だ。子供ができたらどうしてもそっちに目が行ってしまうからなぁ。母さん(妻)も良く理解してくれたもんだよ」と振り返った。野球漬けの毎日。そこに自分の人生をかけた情熱を感じる。

 難しい時代だ。情報の流通によって価値観の多様化が進む。だからこそ、みんなが同じ方向には向きにくい。私は全体主義が嫌いだからその傾向には異論を挟まない。NHKの紅白歌合戦の視聴率低下もそういう時代なのだろう。その代わり、人と接するときの深さというのか、密着度が減ってきているように思う。その希薄さは教師と生徒の関係だけではないだろう。これって一体なんだ。

 ある著名な教育評論家は取材時に「引きこもりと言われる現象は確かに問題だ。その引きこもりの高齢化も進んでいる。ただ戦後すぐに比べ、犯罪件数が激減しているのも人は外に向かず、内に向かっている証拠なのかもしれない」と説明した。そう考えると今の我々は「熱」というものが薄くなっているのかもしれない。「情熱」は「微熱」になり、「信頼」は「信用」に変わってきている気がする。私は教育現場の暴力を是認しているわけではない。ただし、情熱と信頼が薄らいでいるのであれば、そこに一番の問題がある。

September 15, 2005 12:54 PM

2005年09月05日

いつか実る時が来る

 時間を超えて結実する仕事-。スペインの建築家、アントニオ・ガウディが設計したサグラダファミリア教会が有名だ。バルセロナでは1880年代から今も建設が続いている。

 私が住む札幌にもそんな「仕事」がこの夏に完結した。米ロサンゼルス生まれの彫刻家であり建築家のイサム・ノグチが死の1カ月前の1988年11月に設計した「モエレ沼公園」だ。札幌の市街地を公園や緑地の帯で包み込むという「環状グリーンベルト構想」から生まれたもの。札幌市の北側に面し、水を所々に使った公園はすぐに人気スポットとなった。時計台やクラーク像といった観光名所に加わることだろう。

 鬼籍に入ってしまった今、喜ぶ人たちの顔を直接見ることはできない。ただ、そういった「遺産」と言うべき仕事が生き続けている。正直、うらやましい。

 ちょっと思い出した偉人もいる。生涯学習の祖とも言われる伊能忠敬だ。江戸時代に初めて実測で日本地図を作製した人物として知られる。千葉の漁村出身、伊能家に17歳で婿養子に入り新田開発などを行った。49歳で隠居して好きだった天文学を勉強するため江戸に向かう。55歳で蝦夷地(私が住んでいるとこ)に入り測量をスタートさせ、73歳で死去。その志を引き継いだ人たちが3年後に地図を完成させた。その40年後には英国艦隊が来日、伊能がつくった地図の正確さに舌を巻いたという。

 偉人たちの話だが、すごいなって思う。伊能忠敬なんて第2の人生ですもんね。まあ、そういう人だから代々、伝記として受け継がれていくのだろう。今、プロ野球の担当をしているが、これも「記憶」や「記録」に残る仕事だ。感動や大記録は刻み込まれる。モエレ沼公園ではないが、人々に喜びを与えている。

 そんな話を思い浮かべながら「仕事」って何だろうと思うときがある。自分だけではなく人それぞれ「食べていくため」「家族を守るため」「お金のため」「偉くなるため」などといった動機はあるだろう。確かにお金を稼がずに生活していくのはつらい。

 ただし、単純に睡眠欲とか食欲とか同じように「労働欲」のようなものもある気がする。「1年、働かなくてもいいよ」と言われると自分は体がムズムズしてしまいそうだ。もし、遊んで暮らせるだけのお金があったとしても、働かないかなぁ。それでも仕事をしている気がする。

 そう考えると、働くということは生活を維持するだけのものではないようだ。成功したり、失敗したり、没頭してみたり…。人生の糧のようなものなのかもしれない。時間を超越した仕事とは言えないが、自分にも充実感を感じるときがある。失敗して悔しいときの方が多いけど…。

 義父は十数年に渡り青函トンネル工事を続けた。途中で事故もあった。工事の騒音で耳も悪くした。子供にも会えず、寡黙な父は終わったあとの一杯だけが楽しみだった。それだけに開通したときの喜びは計り知れなかったという。前述したが死後に結実する仕事もある。ただ、結実するその一瞬の喜びのために働き続けるのかもしれない。

September 5, 2005 11:53 AM

2005年08月26日

駒苫…悲しいの一言

 正直に言えば、今回のコラムは甲子園での駒大苫小牧の57年ぶりとなる連覇をテーマに書き終えていた。北海道に住む私としては単純にその快挙をかみしめていた。そして、優勝後の22日、野球部長の体罰問題が発覚した。日本高野連では優勝の取り扱いについて審議委員会を招集するという。

 このコラムはその名の通り「見た聞いた思った」だ。私はその「思った」の部分をいまだ、まとめきれないでいる。

 いろいろな意見があると思う。「甲子園は教育の場とするならばいかがなものか」「報告義務があるはずであり、注目度や影響も学校関係者は考えるべきであった」という意見の一方で「では、他の高校で体罰は本当にないのか」「一生懸命にやってきた選手はいったいどうなるのか」といった考え方を聞いた。

 単純と思われても仕方がないが、今回の件で私が思ったのは「悲しい」という一言に尽きる。

 選手たちもあの暑い甲子園で偉業を成し遂げた。その喜びは選手たちだけではなく、道民である私にも分け与えてもらった。私が記者として取材をする数年前まで、北海道の高校野球の地区予選では「人間フェンス」が登場したという。球場がなく、大きなグラウンドに野球部員が立ち、外野フェンス代わりになっていた。雪があり、インフラは整っていなかった。甲子園でも思うような成績を残すことは少なかった。

 その十数年後、57年ぶりという連覇という「事件」が起こった。本州へのコンプレックスというわけではないが、胸のすく思いがした。当然のことながら北海道は熱狂した。視聴率も50%を超えた。町の中に設置されたテレビには人だかりができていた。大きな輪をつくり、夢中で応援する。こういうたとえは適当なのか分からないが、プロレスの力道山が外国人を空手チョップで倒していくような場面を思い浮かべた。堂々と戦い抜いていく球児たちを誇りに思った。

 駒大苫小牧が劇的に強くなるその過程で多少の無理があったのかもしれない。昨年の優勝で道内では一気に注目度を増した。北海道拓殖銀行が破たんしてからは活気を失い、悪いニュースが続いていた。昨年は日本ハムが移転し、甲子園では優勝と久しぶりに素直に喜べる出来事だった。異様な熱狂とともにチームはオラが町のヒーローになった。それがかえって重圧にもなったのかもしれない。

 今後、どういった処分が学校側に下されるか現時点では分からない。その判断については、いろいろな意見が出るだろう。優勝から不祥事発覚へと、ここ数日の目まぐるしい状況。選手たちにとって現状をどう受け止めてよいのか分からないだろう。出張中のため肌で感じることができないが、北海道でもその熱気が急速に冷めていっているかもしれない。個人の意見だが、選手たちは目標に向かい力の限りを尽くした。その戦いを私は決して忘れないでいようと思う。

August 26, 2005 10:30 AM

2005年08月16日

「無駄」から「有効」へ

 いやぁー、暑いですね。道産子の私としては、この時期の本州への出張はつらい。先日も日本ハムとともに千葉へ行ったのですがもう、暑いこと暑いこと。

 そこで稲川淳二師匠のように怪談ができるほど筆力はありませんが、涼しくなる話を1つ。今、北海道では「雪冷房」というシステムを研究しています。簡単に言えば、冬に積もった雪を夏まで保管し、それを冷房代わりに使うという発想です。雪の利用法を探ろうと97年ごろから研究が始まり、最近では地元不動産会社が100トンを貯蔵できる貯雪庫付きの6階建てのマンションを建設。この冷房システムで二酸化炭素の排出量が減ったのはもちろん、経費が電気冷房より約3割安くすんだという。

 すごいでしょ。冬ならば「もう勘弁して」と思うくらい、大量に降り積もる雪を有効利用してしまう。早く解かしてしまいたい雪を長く保存する技術を発達させる。研究者によれば札幌の「雪まつり」でつくった雪像を夏まで延命させることが可能だという。北海道まで物資を運んだ貨物船に雪を詰めて首都圏に送れば、エネルギーとして代金に変わる世界がすぐそこに来ている。愛知万博でも「雪冷房」のパビリオンがあるそうだ。

 いやはや、無駄だと思っていたものも発想と努力があれば有効になるんですねぇ。旭川に住んでいたころ、毎日、学校へ通う途中、石狩川から湯気が出ていた。まるで温泉のように見えるが、要は気温より水温が高いからだ。ダイヤモンドダストがキラキラと輝き、大雪山が神々しくそびえる。まるで絵はがきのような光景。でも気温はマイナス20度。はなをすするとピタッとくっつき、一冬で右耳は凍傷に。おかげで右耳が巨大化し、眼鏡をかけると20度近く傾斜がつく。その後遺症から現在では眼鏡が傾いた間の抜けたおじさんになってしまった。

 そう、雪とか冬とか私たちにとっては、厄介で大変なものなんです。でもその雪が夏になると恋しくなる。みそやキャベツや米を雪の中で熟成すると甘みがでておいしくなるという。実際、「雪冷房」の発想は農作物の保管や熟成から始まっている。マイナスをプラスに転じる発想、ホントに誰がやり始めたのだろうかと感心してしまう。

 春に咲く「スノードロップ」という花がある。一輪、こぢんまりと下向きに咲く。柄にもないが、花言葉は「まさかの時の友」。ドイツの言い伝えでは、色が欲しかったが誰にも見向きもされなかった雪に、その花だけが白という色を与えた。その代わりに冬の間、雪がその花を覆い、守り続けているという。

 なんて、書きながらふと思ったりする。今の自分にとって「自分のためにならないから」と思って素通りしている知人やものごとってありません?

 「まさかの時の友」。自分がごう慢になりそうな時、別に北海道出身というわけではありませんが、その言葉を思い浮かべたりする。人を忌み嫌うのは簡単ですから。

August 16, 2005 11:36 AM

2005年08月06日

視聴率より満足度

 巨人戦の視聴率が低迷しているという。僕の住む北海道でも移転2年目にして日本ハム戦が巨人の視聴率を上回ったそうだ。ただ、これって何かに似てません? そう、番組へのてこ入れなど常に言われているNHKの紅白歌合戦だ。

 視聴率に一喜一憂するのはもう、いいのではないかと思う。時代は急速に変化している。

 だって、最近、地上波のテレビを見てないもの。はっきり言えば暇がない。僕の場合、図式はこうだ。(1)不景気もあり1人の人間の仕事量が増えた→(2)ケーブルテレビやCSなどに最近入った→(3)子供が生まれ、自分の時間が減った→(4)テレビをつける行為が激減した→(5)毎回継続的に見る番組もそれによりなくなった。

 それにより、弊害も出てくる。今、売れているお笑い芸人やミュージシャンの名前が極端に分からなくなった。「もう、自分はおじさんなんだなぁ」って再確認することが増えた。

 まあ、加齢臭への階段を上っている自分の状況を重ね合わせてはいけないのだろうが、継続的に驚異的な数字を稼ぎ出すお化け番組の出現する可能性は少ないと思う。

 ただし、そこにチャンスが転がっているのかも。インターネットなどの普及で今、世の中は細分化されている。「年収300万円時代を生き抜く経済学」の著者で経済評論家の森永卓郎氏(48)に昨年、取材した。その時の言葉が印象に残った。

 森永氏「僕は『IT革命』の後は『OT革命』が来ると思う。『OT』って『オタク』のことなんだけど。今、圧倒的な国際競争力があるのはオタクなんです。ものすごい細分化された世界だけに、その分野では世界一になることもできるんです。好きなことを突き進むことによって自分の競争力を高められるかもしれない。資格を取ったり、専門学校に通ったりするのも無駄。お金があればコスプレ・メイド喫茶にでも行って見聞を広めた方がいい」。

 物事は集中していた方が効率的だ。そうは言うがこれほど情報がどこからでも入手できる世界になると、「個」が拡散していく。力道山が日本を席巻した時代はもうないのだろう。圧倒的な力を持つテレビもまた、新しい時代を迎えている。それを見るにつけ、個性の真っ向勝負の時代が始まったとも思う。標準的なものが寄り集まって集合体をつくっても駄目なのだろう。

 何人が見た…という視聴率って確かに重要な情報だ。それ以上に見た人がどのくらい満喫したという顧客満足度がもっと大切になると思う。ネットオークションでは売り手の評価も分かる仕組みになっている。ホテルを予約するときに使うホームページ「旅の窓口」(楽天トラベル)などでは利用者のコメント欄がある。「朝食が絶品」など利用者からの情報も有効だ。ユーザーは満足するために余念はない。そこで、テレビが自らをどう変化させていくのか。テレビ番組以上に実は気になったりする。

August 6, 2005 12:22 PM

2005年07月27日

郷愁呼びさます味

 私が担当する日本ハムの本拠地、札幌ドームは札幌市の豊平区羊ケ丘という場所にある。農業試験場だったこの場所、その名の通りかつて羊が放牧されていたようだ。

 03年から北海道グルメの1つ、ジンギスカンのブームが続いている。ブームの火付け役となったのはその年の4月に放送された情報番組だ。「食べても太らない肉」と放送し、一気にファンを拡大させた。「癖がある」といわれた羊肉も一般化し、首都圏でも専門店がオープンして人気だという。

 戦前、羊は毛をとるため軍需目的で飼育され、戦後の食糧難でジンギスカンが普及していったという背景があるようだ。62年に羊毛の輸入自由化、化学繊維の登場により飼育数が激減。冬の時代を乗り越え今や脚光を浴びている。北海道には食べ方が2種類ある。札幌周辺ではたれにつけて、北空知地方ではたれにつけ込んだものを食べる。東京では札幌周辺のたれをつけて食べるものが広まっているそうだ。

 ちなみにジンギスカン料理の名の由来と思われる、チンギスハン(漢字表記は成吉思汗)が帝国を作り上げたモンゴルでは、羊肉をゆでた物を食べる。モンゴルからやってきた食べ物ではなく、オリジナル(中国料理が発祥)という説もあるそうだが。モンゴル出身の力士が北海道にやってきて「食べたことがない。うまい」と言っていたそうなので、どうやら独自の食べ物らしい。

 宣伝みたいになったが、書きたいことはそうではない。北海道の人にとってジンギスカンって何か郷愁の漂う食べ物なんですよね。こどもの日の思い出というか…。

 わが家だけではないと思うのだけれど、とにかくジンギスカンだった。運動会が終わったその日の夕食、日曜日の食卓、花見、海水浴、キャンプ…。ジンギスカン専用の鍋がどこの家庭にもあった。一家だんらんの象徴だった。今はいない祖父と祖母、そして両親と弟と食卓を囲んだ。日曜日の夕暮れ時、食べ終わってアニメの「サザエさん」が始まると、「明日から学校だなぁ」って思ったものだ。

 僕を含めた北海道人はジンギスカンに少なからず郷愁を覚えてしまう。多分、その地方で象徴のような食べ物があるのだろう。それって幸せなことだと思う。

 人はいろいろな風景が写真のように折り重なって、記憶の中に刻まれていく。当時の味や音楽などがそのきっかけとして、その写真を頭の中に浮かび上がらせる。毎日、気ぜわしく働いていると、今の自分の「風景」ってあと数十年たつと、何だろうとって思う。そして今の子供たちにとって、どんなものが記憶されていくのだろか。

 ところが今、ジンギスカンって家で食べなくなった。外で食べるものになり、1年に数回、口にするかどかという感じだ。それだけ、食卓に人が集まることがなくなったということか。よく「食文化」という言葉を耳にするが、生活なんだよな。原稿を書いていて、記憶の底にあった部分が鮮明によみがえってきた。無性に寂しくなった。

July 27, 2005 11:58 AM

2005年07月17日

極端な欠点が特長に

 北海道に住んでいると、よく人に聞かれる。「クマがよく出てくるんでしょ」。残念ながら「生グマ」は登別のクマ牧場で見ただけ。生活の中で会うことは本当に少ない。キノコ狩りが好きな父も65年の人生で1度しかない。そんなものだ。「森の熊さん」に出会う可能性は限りなく少ない。

 北海道の秘境、知床が14日、世界遺産への登録が決まった。地元は盛り上がっている。日本の自然遺産登録は屋久島(鹿児島県)白神山地(青森、秋田県)に次いで3件目で、海洋を含んだ国内の自然遺産は、知床が初めてという。

 いったい知床半島とは。北海道の斜里町と羅臼町にまたがる地区。なかなか会えないヒグマは1平方キロに1頭いるそうで、世界的にも高密度の地区だそうだ。世界に200羽しか生息しないシマフクロウ。そのうち数十羽がこの知床にいる。それだけではない。流氷が来る。流氷のおかげでプランクトンが大発生。海の幸が増えると、トドもカラフトマスもサケもやってくる。ドラマ「北の国から」でも取り上げられた大自然だ。中学時代に習った「食物連鎖」の世界がそこにある。それを自然の楽園ともいう。

 ところで、知床はアイヌ語で「シリエトク」という。岬・地の果てという意味だそうだ。

 地の果てだよ。

 確かにそうだ。デートコースに知床って北海道の人はなかなか思わない。外から見て、その雄大さを知る。その周辺で漁業をする人も生態系を崩さないよう細心の注意をする。人が簡単に行けない場所だから、自然が残った。「地の果て」だから世界遺産になったといってもいい。

 自分のことを客観的に見る。平均的だと思う。それがいいことだとも思っていた。中学時代、ファッション雑誌を手にとって「どうすれば格好良くなれるのかな」なんて研究をしたりした。ギターなんかも練習しちゃったりして。ちょっと頑張れば届きそうな所に一生懸命、背伸びをしようと頑張った。

 そして今、気が付くこともある。自分のいいところも悪いところも捨ててしまったのではないか。自己啓発セミナーなんて、その人のとがっている部分を丸くしちゃったりするものって思ったりする。

 人の行けない秘境-。極端な欠点が1つの特長を伸ばした。ガイドブックで紹介されるような「なんちゃって秘境」であれば、すでに荒らされているのだろう。世界遺産に選出されたからって正直、知床のことを心配していない。なぜなら、そこには人が踏み入れられない強さがあるからだ。簡単に荒らされるような場所であれば、もうすでにヒグマはいない。

 欠点と長所は表裏一体なんですよね。今年、子供が生まれた。やっぱり、親になると子供がかわいいから、人から嫌われないように「丸く」育てると思う。でも、それでは「世界遺産」にはならないよなぁ。じゃあ、どっちを選ぶのと考える。それは徒労だ。それは考えてなるようなものではなく、なるべくしてなるもの。と、

 知床の「強さ」を見ながら思ったりする。

July 17, 2005 12:23 PM

2005年07月07日

苦しい時こそ安心感

 久しぶりの仙台出張は…、最悪だった。日本ハム担当の私は楽天戦の取材のため先月30日、仙台に向かった。その日、牛タンをほおばると、奥の歯ぐきが痛い。するとリンパ節がはれ上がってきた。翌日、起きるとのどが痛く食事が飲み込めない。2日の試合中には関節が痛くなってきた。「やばいなぁ。こんなの35歳で初めての経験だ」。思わず、自分の体の異変に緊張した。

 病院が苦手だ。5年前、背中がつって、身動きが取れなくなったことがある。「ゲームでもやりすぎたかな」と思ったが、トイレにも行けず1時間後、救急車を呼んだ。ストレッチャーに横たわると救急隊員のひそひそ話が聞こえた。「これって場所的に心筋梗塞(こうそく)かも」「う~ん、可能性ありだな」。一気に動転した。低血圧だった自分が血圧180と自己最高値をマーク。心臓外科に直行した。結局は問題なく、ハートがチキンだったことだけが判明した。

 試合後に覚悟を決めて、仙台の救急センターに向かった。熱を測ると39度。「もう、ダメだね」とぐったりした。そして診察を受けた。医師は初老の男性だった。「出張中なのかい? 難儀だねぇ」と柔らかい聞き慣れた北海道弁だった。診断はリンパ節とへんとうの炎症。医師は考え込んだ。「いつ北海道に戻れるの? じゃあ、きつい薬だけど、これにしようかな」とブツブツ。何度もカルテに消したり書いたり。その「あなただけに特別な処方せんを書いているのだよ」という姿勢にホッとした。熱が下がっていく気がした。

 周りが見えるようになってきた。待合室ではやけどをした生まれて半年くらいの赤ちゃんが運ばれてきた。落ち着いた対応で慌てる母親をまず冷静にさせていた。昔から「病は気から」と言う。救急医療を見てなるほどと感じさせられた。

 日本ハムのファームによく似た現象があることに気が付いた。今季から地元北海道の球団にやってきた佐藤義則2軍投手コーチ(50)のことだ。阪急、オリックスと投げ続け、95年8月26日の近鉄戦、球界最年長記録を更新する40歳11カ月でノーヒットノーランを達成した。北海道の生んだ偉大なる鉄腕だ。98年限りで現役を引退、オリックス、阪神でコーチを務めてきた。

 右肩痛で解雇が決まったミラバルの不調など、ローテーションの維持にチームは泣かされてきた。その中で佐藤コーチは投手を1軍に送り出す。昨年まで8年間で15試合にしか1軍登板のなかった矢野の復活を手助けした。右肩痛でファームで調整したエース金村は復帰後、「佐藤コーチのおかげ」と頭を下げた。注目のルーキー、ダルビッシュの鬼教官でもあった。選手は佐藤教室に「安心感」があるという。

 そうなのだ。経験に裏打ちされた技術と実直で熱い人柄。才能を持って入団する選手たちの「気持ち」の部分をそっと後押しする。苦しいときにこそ、そういう「医師」が必要なんだなって思う。

July 7, 2005 11:54 AM

2005年06月27日

新人の存在は大きい

 新入社員の皆さん、仕事は慣れましたか。5月病(古い?)も乗り越えて、いよいよ周りも見えてきたころ。わが北海道本社にも2人の新人が久しぶりに入った。編集部に配属されたN君も、私を含めた先輩にどやされながら記者生活をスタートさせている。各業界、各社の新人君たちもバタバタと仕事に追われているのだろう。

 担当する日本ハムでも1人の新人が6月15日、ド派手なパフォーマンスでデビューした。そう、ダルビッシュ有投手だ。札幌ドームでの広島戦の9回、新井、野村に2発を打たれ降板したものの、高卒ルーキーでは99年西武松坂以来の初先発初勝利を飾った。1月の新人合同自主トレで右ひざ関節炎で別メニュー。2月のキャンプ中には喫煙が発覚し、無期限の謹慎処分と何かとお騒がせの18歳がつまずきながらも結果を出した。新人の初仕事をきっちりとやってのけたのは称賛に値する。

 この18歳の少年に何か勝負運、そしてハートの強さを感じた。試合直前になるとさすがにピリッとしたムードに変わったが、自然体そのものだった。登板日も午前11時までぐっすり眠った。前日には札幌の市内で買い物を楽しんだ。「これまで緊張したことがないっす」と言う。緊張感を感じさせない。そしてチームは彼を必要とした。エースのミラバル、金村が離脱、新外国人のナイト、トーマスもピリッとせず投手陣が手薄だった。投手陣が万全であれば、この時期に「初登板」が回ってこなかった可能性が高い。チャンスを自分でものにしたが、度重なるアクシデントもあった。そこにダルビッシュ自身の運の強さを感じてしまう。

 この新人の活躍がチームの起爆剤となった。交流戦11連敗とどん底を味わったが、ダルビッシュらの活躍で22日まで6連勝と勢いを取り戻した。ダルビッシュの投球は先輩たちに火を付けた。先発ローテーションを担う、ある選手は「一気に抜かれた感じで悔しい」と話し、年齢の近い別の選手は「うれしいけど、ちょっと複雑」と快投を見ながら漏らしたという。そうなのだ、悔しがる姿が正しい。

 30歳を過ぎたころ、会社の先輩の言葉を思い出した。「優秀な先輩から仕事を教えてもらうより、優秀な後輩を持つ方が成長するんだよ。負けたくないって思うものだしね」。企業や集団にとって、新人の存在って大きいと思う。自分たちを凌駕(りょうが)してくる発想やバイタリティーに負けたくないという気持ちもある。その緊張感が組織を活性化していくのだろう。変な派閥行動にならなければですが…。

 そして、ダルビッシュは早くも偉大な先輩に胸を借りる。明日27日、2度目の先発となる西武戦で松坂との対戦が濃厚だ。甲子園を沸かせた「平成の怪物対決」という大きな仕事が待ち受ける。伝え聞いたダルビッシュは「へっ? ホンマっすか…、予想外っす」と目を丸くした。そんな言葉の中にも楽しさが見え隠れする。楽しみなのはファン、そして担当の私も一緒なのですが。

June 27, 2005 01:28 PM

2005年06月17日

地方の強み手触り感

 私が住む北海道には圧倒的な人気を誇るイベントがある。最終日となった12日、そのイベントを2つの地元テレビ局が生中継した。北海道が誇る日本ハム戦、NHKの大河ドラマ「義経」、そしてゴルフの藍ちゃんにも視聴率で圧勝した。その怪物イベントとは今年で14回目を迎えた「YOSAKOIソーラン祭り」だ。

 地元のテレビ局TVh(テレビ北海道)はゴールデンの午後8時から9時48分までで札幌地区平均26・3%、瞬間最高39・2%。STV(札幌テレビ放送)はなんと12日に6時間ぶっ続け生中継でプロ野球、ゴルフとかぶった午後4時台の平均が22%(占拠率47・5%)。ちなみに8日の開幕日はサッカーW杯北朝鮮戦とぶつかったが、観客動員に影響はなかった。

 知ってます? 今や「さっぽろ雪まつり」に対抗するほどの人気があるんです。北大生が始めたこのイベントは、手に鳴子を持って、ソーラン節のフレーズの入った曲に合わせてチーム単位で演舞するもの。今年は5日間開催され、計334チーム、約4万3000人の踊り子が参加。観客動員数が今や200万人規模となった札幌の風物詩に酔い続けた日々だった。

 祭りは92年にスタート。初年度は10チーム1000人の参加者、20万人の観客だった。今では地元の大学の講義の1つにもなった。浅井学園大(江別市)は、踊り手として出場した学生に、単位を与える制度を今年から始めた。119人が履修。祭りに出場してリポートを提出すれば、2単位が認定されるそうだ。

 魅力にとりつかれ夢中になる人が続出している。踊りに専念するために仕事を辞める人、参加者同士で結婚する人、趣味の域を越え、生きがいにする人。参加した50代の女性に聞くと「自分がスポットライトを浴びている感じなんです」と言う。やめられない止まらない。恐るべしイベントなのだ。

 この人気、ある意味で時代を先取りしたんじゃないかと思う。「双方向性」「地方の独自性」の2つだ。見て楽しむも良し、参加するのも良しというのはインターネット時代を先取りしたものだ。ネットのホームページを作成する楽しさ。「自分の思いや趣味、し好を見て欲しい」という意識が根底にあると思う。それに加えてこのイベントはライブ感があり、人から見られるという快感もある。そういうものは強い。

 さらに地方の独自性だ。朝日新聞の調べでは一昨年まで北海道で圧倒的だった巨人の人気を日本ハムが上回ったという。全国区ブランドから、身近な対象への興味。Jリーグは理念として地域密着型のスポーツ振興を打ち出した。球界の盟主、巨人の視聴率低迷ではないが、全国的なもので継続的に興味が集中するということが難しい時代に入ったのかもしれない。情報が豊富な今だからこそ、手触りを感じることのできる機会に飢えてくる。

 自分に置き換えてみる。夢中になれるものって何だろう。う~ん、必要なのかどうかも、正直分からない。ただ、踊っている人たちの表情を見ると、うらやましくなったのは確かだけれど。

June 17, 2005 11:20 AM

2005年06月07日

ゲームに感じる本気

 ソニー・コンピュータエンタテインメントは先月中旬、次世代機「プレイステーション3」を発表した。発売は来春を予定しているそうだ。処理速度も今までとは比べ物にならないという。

 よく、子供に「ゲームなんかしないで外で遊べ」というセリフを聞く。それはその通り、やっぱり外で遊ぶのは基本だよね。でもね、すごいよ、ゲームは。「ゲームなんか」とは言ってはいけない。

 そう書いている私は35歳。大声でいうのも気が引けるが「遅れてきたゲーマー」だ。大学を卒業するころからテレビゲームにはまった。はっきり言って、今回のコラムは私の同年代の人に向けて書いている。どう思います、ゲームって?

 子供のころ、お金持ちの友達の家に行くとテニスゲームとかあった。そのあとにインベーダーとか平安京エイリアンとかが流行し、任天堂からはゲームウオッチが発売されたりした。コロコロコミックには「ゲームセンターあらし」が連載されていた。

 でも、当時のゲームって平面だった。今、見ると、何が楽しくてやっていたのか分からないくらい精度は低い。私が小学生だったころから四半世紀が過ぎた。僕の中で一番、進歩したのはゲームだって思っている。だって、信じられないでしょ。平面だったものが今は映画のようなクオリティーの高さだ。ゲームの世界は一体、どうなるんだろう、どこまで行くんだと思っちゃいます。

 遊びでしょ。ゲームって。でもね、作っている人たちには命懸けだそうだ。大手ゲームソフト会社の知人に聞いた。ゲーム制作者は締め切り間際になると徹夜が続き、会社に寝泊まりしながら食事もとらずに奮闘する。「遊び」を死に物狂いで提供しているのだ。そういった人たちにとってはそのPS3の登場はうれしいという。制作者側は「これまで以上に自分の表現ができるようになる」と喜んでいるという。

 「ウイニングイレブン」という爆発的に売れたソフトの制作者は当時のゲームに憤りを感じていたという。十数年前のサッカーゲームは単純に大量得点になってしまっていた。「サッカーはきん差で決まる。リアリティーを持たせたい」と細部にこだわっていったそうだ。自分へのこだわりは当然のことながら仕事量を増やす結果となる。ただ、制作者たちはそれを楽しんでいる。

 なんて話しを聞いていると「ゲームやっちゃだめ」「この番組を見ちゃだめ」とか簡単に言ってはいないだろうか。子供のころ、最高に面白かったのは「8時だよ全員集合」だった。個人的な意見だけれど、楽しかったもの。ドリフってやっぱり、大人が本気で作っているすごみを今になって感じる。人を楽しませることって、想像以上に難しい。夫婦間でもそうだし、親子関係でもそう。しかも、相手に気遣いを感じさせないで。今、本気のこだわりを感じるもの。私はそれをゲームに感じる。

June 7, 2005 11:56 AM

2005年05月28日

背伸びはいけない

 プロ野球で初の試みとなった交流戦も前半戦が終了しようとしている。日本ハム担当の私は広島でこの原稿を書いている。広島に来ても思うのだが、野球というスポーツ、その接し方が各地で違うものだなあって感じる。


 町の中心部にある広島市民球場はその名の通り、市民が行きやすい球場だなと感じた。スーパーの買い物袋を持った人、制服姿の学生、仕事前に「ちょっと寄ってみました」という感じの飲み屋のママさんたち…。オレンジ色の独特なカクテル光線のなか、ファンが手軽に球場に立ち寄る。生活に密着した姿が見えて、ホッとするような気持ちになった。


 担当だけに、チケットの売り上げも気になるところ。広島の松田オーナーは言っていたそうだ。「新庄選手のおかげで、平日の外野席が2000人のところ、3000人も来てくれたよ」。交流戦だけに、めったに見ることのできない選手が来る。それを見たいと感じるお客さんも詰め掛ける。やっぱり、スターって大切だと思う。


 見てもらう職業に「華がある」という要素は重要で、才能だ。新庄選手を見るため球場に行った飲み屋のママさんが言っていた。「新庄さんを見て、びっくりした。あの体形はテレビじゃ分からない。プラモデルみたい。今日、見て感動したのは実物の新庄さん」と熱く話す。プレーもそうだが、その姿を見て感動するのも「生」で観戦するからこそなんだろう。特に広島の球場はファウルゾーンが狭く、観客席から選手が近い。より選手を身近に感じられることが、テレビにはない臨場感を生む。


 ファンサービスって選手とファンの間をどう縮めるかってことなのかもしれない。


 でも、何でも米国流っていうのは疑問を感じてしまう。メジャー流に臨場感を追求して、フェンスを低くする。一方で危険も生まれる。身を守ることは自己責任とされ、銃を所持することも是とされている国と何でもお役所任せになる国とでは状況も違う。冷や水を掛けるようで申し訳ないが、ファウルボールで事故でも起こると、急ぎ再検討されることになるだろう。ゆっくりと時間をかけて定着させることが必要だと思う。


 「客寄せ」というわけではないが各地のレッサーパンダが立って、注目を浴びている。その先駆けなのだろうか、北海道の登別に「クマ牧場」というテーマパークがある。30年以上前からだそうなのだが、ヒグマが立ってエサをもらう。その姿は愛らしい。ただし、クマ牧場では警笛が鳴る。立つ時間が長いとクマでもヘルニアになってしまうそうで、それを防止するための措置だそうだ。「立ち過ぎ注意」。何事も過ぎるのは良くない。


 身の丈って意識は必要だ。生活と野球が程よい距離にある広島でそう思った。背伸びはいけないんだろうとも感じた。少しずつでもそのコミュニティーに近づいていき、そしてなくてはならない物になる。日本ハムが北海道に移転して2年目。先輩チームと地元のあり方を見ながら「焦らず、ゆっくりと」とその歩みを再確認した。

May 28, 2005 12:25 PM

2005年05月18日

道民の願い、札幌復活

 北海道のプロスポーツの先駆けでもあるコンサドーレ札幌に激震が走った。9日のことだ。運営する北海道フットボールクラブ(HFC)の取締役総務部長(46)が児童買春禁止法違反の疑いで札幌・中央署に逮捕された。1月にテレホンクラブで知り合った札幌市内の当時14歳と13歳の中学2年の女子生徒をホテルに連れ込み、現金1万円ずつを渡してわいせつな行為をしたという。


 ショックだった。97年、私はコンサドーレ札幌の担当だった。この総務部長は当時、サポーターの代表格で何度も取材した。03年6月にHFCに入社し、元銀行マンとして辣腕(らつわん)を振るっていた。経営が厳しいチーム再建のキーマンでもあった。


 事件が発覚した9日、私は現在担当する日本ハムの試合がなく休日だった。会社に忘れ物を取りに行くと編集部が何やら騒がしい。事件を知った。担当が出張中のため急きょ、謝罪会見に向かうことになった。会見に頭を丸めて臨んだ石水会長は「入社してくれないかと頼んだのは私、最も信頼していた。裏切られたというか、悔しい」と涙ながらに陳謝した。


 チームはここ数年、低迷している。昨年8月、当時20歳の選手が酒気帯び運転で交通事故を起こして現行犯逮捕され、解雇された。不祥事が続く。今回の事件後、石水会長も引責辞任し、教育関係の企業はスポンサーを降りた。


 本当にどん底の時だろう。


 私事だが、ちょっと思い出したことがある。数年前、仕事がうまくいかず、元妻からも愛想を尽かされた。食器を洗えば厚い皿が割れ、右手の親指が裂けた。病院で5針縫った後、通院に使った自転車が盗まれていた。踏んだり蹴ったりの1日だった。そんなとき「ここが最低。これ以上悪くなることはないよな」と思った。


 97年にコンサドーレを担当したときは勝ち続け、J1に昇格した。札幌市内をパレードした。ビールかけで祝勝した。北海道が沸いた。サッカーの楽しさ、プロスポーツの醍醐味(だいごみ)を北海道にもたらしてくれた。03年にJ2に転落し、昨年は最下位に低迷した。不祥事も続く。経営難もある。外国人を獲得せず、若手の大胆な起用で苦境をしのいでいる。必死にもがいている。


 ただ、もしチームが北海道に来ていなかったら…。札幌ドームもなく、もしかすると日本ハムの移転もなかったかもしれない。一部の若手経済人が誘致し、大きな運動となった。コンサドーレ札幌の移転は反対意見が多かったと聞く。プロスポーツの先駆けとして、切り開いてきた。その功績も大きい。


 事件についての是非は問わなければならない。ただし、ピーク時に比べ、少なくなったかもしれないが、必死に応援する「本物のサポーター」もいる。私も北海道に住む1人として、そのV字形の復活劇を期待したい。逆境をはねのけるチームの姿に自分を重ね合わせたいのだ。

May 18, 2005 10:50 AM

2005年05月08日

野球を愛したハムの父

 球団とたたき上げのオーナー。その蜜月というか、幸福な形を少しだけ見せてもらった。


 日本ハム球団の前オーナーで食肉業界最大手の日本ハム創業者、大社義規氏(享年90)が4月27日、心不全のため死去した。同29日のオリックス戦、選手たちは喪章を付け、試合に挑んだ。スタンドには「日本ハムの『父』のために絶対勝つ」との垂れ幕もあった。


 5月1日、札幌から大阪に向かった。本願寺津村別院で行われた前オーナーの葬儀を取材するためだ。27歳で独立し、日本ハム本社を1兆円企業にまでにした。02年8月、牛肉偽装問題で引責辞任し、第一線から身を引いたが、カリスマ経営者と呼ばれた。一方で熱狂的な野球好きとしても知られたオーナーだった。


 大阪は小雨が降っていた。祭壇には大きな遺影と棺(ひつぎ)が置かれていた。その上には背番号「100」のユニホームが飾られた。今年3月に前オーナー用に新調したものだ。背番号も永久欠番になるという。葬儀を終え、参列者が見守るなか霊きゅう車が出発した。その横には応援旗を振るファンの姿があった。


 29日の試合後だった。寡黙な小笠原がオーナーに対して追悼の言葉を取材陣から求められた。一言ずつ、選びながら目に涙がたまっていった。そんな小笠原の表情を見たことがなかった。大社前オーナーは「日本一球場に足を運ぶオーナー」と呼ばれた。自分が観戦すると負け試合が続いたことがあった。「選手が気にするといけないから」。後楽園球場を車で数度、回って球場を後にすることもあったという。


 確かに73年、球団買収をしたおかげで売り上げが倍増していった。石油危機の中での決断。73年7月決算では850億円だった売り上げが、翌74年に1091億円、75年に1262億円、76年に1650億円と加速度的に伸びた。オリックスが球団買収したときの参考例になったともいわれる。食肉の牧場横に工場を建てて、大都市圏に「肉」を加工して送り届けた。これが当時、新発想といわれ、日本人の体格に影響を与えたのではないか、とも思ってしまう。


 前オーナーの葬儀でふと思ったのは業績のことではない。そんな財界人が野球をこよなく愛した。選手やスタッフを大事にした。選手たちは一番、身近に熱狂的なファンというものをこの前オーナーに見たのではないか。引退後も車いすで野球を観戦した。キャンプ地にも訪れ、2軍の優勝時にも球場を訪れた。


 はて、酔った勢いで選手をくさす元オーナーもいる。成績が上がらないからと1カ月で人事を断行するオーナーも。昨年、選手会が球界再編劇の最中で訴えたのは「プロ野球を職業とする人たち、そして応援する人たちのプライド」だと思う。


 かつて、大社前オーナーは優勝したときに着ようとロッカーに背番号「100」のユニホームをしまっていたという。ニコニコしながら。故人に失礼だが、圧倒的な企業人のそんな子供っぽい姿に引かれる。そして選手たちは、今年こそ優勝をしたいと願うのだろう。人の気持ちは叱咤(しった)激励だけでは動かない。

May 8, 2005 12:52 PM

2005年04月28日

真剣勝負、苦い思い出

 プロ野球の取材を担当している。当然のことだが負け試合の取材は選手たちの口も重い。連敗でもしていれば余計にだ。ピリッとしたムードだが、そこで取材をしないわけにはいかない。25日、1-10で日本ハムはソフトバンクに完敗した。選手たちが厳しい表情で引き揚げていくなか、ふっと思い出したことがある。


 2つの失敗だ。1つは94年のドラフト会議。私は新人だった。北海道で取材をしていた。この日は駒大岩見沢高から駒大に進学した本間内野手がお目当てだった。当時のダイエーに3位指名された。周りの記者がざわめいていた。よく分からず聞いてみると駒大に進学が決まっていた城島捕手をダイエーが1位に強行指名したという。駒大関係者は激怒し、本間選手のプロ入りも厳しいという話も会場では早速、伝わってきた。


 長嶋、王監督というきらびやかなスターが集うドラフト会議で、ものすごい迫力を持つ初老の男性が登場した。50人以上の記者が囲み始めた。初老の男性はいちべつして「何だ」と記者たちを「目」で押し返した。当時球団の専務を務めていた根本陸夫氏だった。99年4月30日に王ダイエーの基礎を築いた根本氏は66歳で急死した。球界の寝業師とも呼ばれた同氏に私を含めた記者はたじろいだ。さわるな-。体からそんな雰囲気が出ていた。「本間君は…」という一言が聞けなかった。反省した。一方でプロ野球ってすごい人がいるもんだと正直、思った。


 聞きたくても聞けない。そんな体験は新人だったからなのかと思っていた。03年9月9日のこと。東京で社会部員だった私は総裁選を前に橋本派の藤井孝男元運輸相を担当した。この日は自民党本部で小泉、亀井、高村、藤井氏の4人による立会演説会が開かれた。それが終わって7階のホールから議員が出てきた。階段で追いかけると偶然、藤井氏の後見人的な立場だった野中広務元幹事長が横にいた。


 タイミングが良かった。階段で2人きりだ。話を聞いてしまおう。「今日の藤井氏の演説は…」。聞こうとした。ふっと野中氏に近づいた。さわるな-。体からすさまじいばかりの何かが発散されていた。あの時と同じだ。ひるんだ。もう1度、覚悟を決めたが全身がビリビリした。硬直し、言葉が出なかった。勇気がない。深く反省した。そして、その2時間後、野中氏は政界引退を発表した。悔やんだ。


 今、プロ野球を取材していて思う。記者として当然だけれども前に1歩、足を出そうと。私はよく言う相手との「立ち合い」に弱い方だ。ズケズケ聞けるようなタイプでもない。ただし、これが仕事だ。その状況を生で見て、感じて、それを自分の言葉で伝えることが。


 なぜか負けた試合でそんな基本的なことに立ち返った。そして、ビリビリとしたムードを持つ人たちに会うことができる仕事だとも思い返した。真剣勝負だからこそ味わえる醍醐味(だいごみ)。もっと伝えなければと真剣に思った。

April 28, 2005 10:25 AM

2005年04月18日

“自己責任論”の矛盾

 このコラムを東京ドームで書いている。15日、日本ハムと楽天の試合前だ。ちょうど1年前、起こった出来事を思い浮かべている。イラクで3人が拘束された人質事件だ。解放されたのは1年前の今日だった。


 カメラマンの男性、ボランティアの女性、そして高校を卒業したばかりの少年がイラクで拘束された。自己責任論-。この言葉が盛んに取りざたされた。北海道で取材活動をしていた私にとっても大きな出来事だった。


 拘束された18歳(当時)の少年、今井紀明君をその年の初めに取材した。札幌市の住宅街にある自宅に向かった。近くの地下鉄駅で待ち合わせした。好奇心の強い少年だった。部屋には無数に並んだ本があった。今井君は劣化ウラン弾の被害を訴えるため、NPO法人を立ち上げていた。18歳にして代表を務めていた。熱っぽく一生懸命、素人の私に説明してくれた。「頭だけで考えていても駄目だと思うんです。実際にイラクに行って、その状況を知らないと人には伝わらない」。今井君はそう言っていた。


 そのときのことだ。自室で取材した後、居間で祖母と母親とともにお茶をいただいた。バウムクーヘンがお茶菓子だった。母親と話すときの今井君は普通の少年の顔に戻っていた。母直子さんは今井君の活動について私に言った。「心配なんです。でも、本人も今、何かをすることが大切と思っているんです」。


 北海道は当時、世論が割れた。イラク派遣の第1陣は旭川を中心とした部隊に決まっていた。反対運動も盛んに行われていた。イラクに派遣される方も、反対する側も北海道が拠点だった。そして事件は起きた。


 4月8日、イラクで日本人が拘束されたニュースが流れる。当初、名前は特定されず、午後8時45分すぎだったと思う。NHKが人質の映像を流した。正直、目まいがした。少年がテレビの中にいた。パスポートが写され、名前を画面で確認した。血の気が引いた。


 それからの1週間、テレビの臨時ニュースの音が聞こえるたびにビクッとした。自己責任論という論調が大きくなっていた。被害者の家族たちの対応がその声を強くさせたともいわれる。ネットでの中傷も勢いを増した。


 そのときに思った。1度しか会っていない私でさえ、動揺した。家族に冷静さを保てというのは非常に難しいことだと思った。ましてや自衛隊の派遣が絡む日本にとってナーバスな問題だった。嫌悪感を覚えた人たちは家族のむき出しの感情をターゲットにしていった。


 取材をした。そして思った。反対する声の中で自衛隊員は飛び立った。命懸けの決意だった。それは不幸だ。それに反対する人間もイラクに向かった。今井君も今、英国にいる。曇天の空から何を思うのだろうか。安全なところから簡単な言葉でそれぞれを批判した。我々もだ。私が最も間違っていたと思うのは国民のコンセンサスを取れなかったこと。自己責任論という言葉を用いてもいいが、肌触りが違う。ドラマではないんだと思う。現実は。

April 18, 2005 10:33 AM

2005年04月08日

オラがスター育成を

 プロ野球が開幕し、一足早くJリーグもスタートを切っている。私が住む北海道には日本ハムとコンサドーレ札幌がある。「プロ不毛地帯」と呼ばれた10年前から比べると夢のような話だ。この2チーム、実は日本で唯一という共通点がある。そう、札幌ドームをともに本拠地としているところだ。


 土日にユニホームを着て家族で応援にきている姿を見る。「新庄がさぁ」なんて小学校低学年の子供と父親が話をしているのをみると定着してきた気がする。スポーツが身近にあることは楽しい。忘れかけていたものを再確認した。北海道にプロチームってぜいたくかもしれないが、もう1つ、わがままだけど思ってしまう。2チームのコラボだ。


 先日、ある会合でパネリストとして日本ハムの大社会長とコンサドーレの石水会長が参加した。そこで、一番興味深かったのは子供たちの育成の話だった。確かに日本ハム本社はセレッソ大阪に資本を投下している。難しい問題はあると思う。少しずつ協力し合って子供たちの運動をする環境をつくってほしいと思った。実は両球団事務所は、札幌ドームに隣接するビルに「同居」している。2人の会長が「そういったことが大事だ」と口をそろえていたことに期待してしまう。


 プロ野球、サッカー、さらにはウインタースポーツが連動したクラブ組織ができたら、と本当に思う。


 自分の子供を塾に通わせるようにクラブに入って、いろいろなスポーツの適性を見てもらう。育成やけがもケアするような組織があれば、なおいい。日本ハム球団関係者が言っていた。


 「プロ野球って選手はもちろんプロだけど、教える人やトレーナーもプロなんです。成長期のトレーニングメニューもその子にあったものをつくる。アイシングなどのセットも貸してあげればいい。それがどれだけ野球を上達させ、長く続けられるか…」。


 少子化で社会は変わってくると思う。公園でキャッチボールができないところが増えてきた。学校でのクラブ活動を避ける生徒も多い。それ以上に指導者のなり手がいない。「今の先生って、部活動を持ちたくないんだよ。休日がないからね。この前も若い先生に頼んでみたけど『自分の時間が大切』って断られたよ」。小学校時代に野球を教えてもらった恩師は寂しそうに言った。


 ファンサービス-。球界再編問題以降、何かと聞く言葉だ。プロ選手がサインやイベントをすることで身近に感じられるようになれば確かにいい。でも、本当にファンの拡大になるのかな。日本ハムもコンサドーレ札幌も元選手が北海道の各市町村を回り指導している。地道な活動だ。ただ、元プロ選手からかけられた一言はどんなものにもまして宝物だろう。


 じゃあ、日本ハムさん、コンサドーレさん子供たちをよろしく、では駄目。スポーツを報道している立場の者としても少なからず考え、努力するべき問題だと思う。みんなが知恵を出し、育成した子供たちの中から、素晴らしい選手が生まれたら…。これが本当の「オラが町」のスターなんだろうな。

April 8, 2005 11:03 AM