記者コラム「見た 聞いた 思った」

2006年12月03日

考えようもっと何か:井上真

 ある会議の中で提案をしたら出席者に「もっと何かないか?」と言われたことがある。「もっと何かって?」と聞き返すと黙った。これは、誰もが陥ることだ。どこかにきっとあるはずの「もっと何か」は、人をあてにしていては絶対に見つからない。

 安倍首相直属の教育再生会議は、いじめ問題に8項目の緊急提言をまとめた。批判的な意見ばかりが耳に入ってくる。確かに「これはすごい。絶対にやってみるべきだ」と思える提言はなかった。でも、と思う。「いじめ撲滅へのもっと何か」など、最初からどこにもない。即効性があって、夢のような解決策はない。地道にコツコツとやるしかないのだ。その間に自殺していく子供は何人も出てしまうだろう。

 最初から妙手はないと分かっていて取り組んだ。だから「なあんだ、その程度か」とは言わない。例えば「見て見ぬふりをする者も加害者だと徹底指導する」などは、乱暴でむちゃくちゃな結論だと思うが、そこに踏み込んで行った迷走ぶりを想像すると、よっぽど紛糾して苦しんだはずだ。

 ならば、みんなで考えるしかない。たとえば、こんな実体験からも学べることはある。下校時、5年生の男子ばかり約40人が校門に集結していた。集団心理も加わり、1人の少年を待ち伏せしていた。少年が現れたが、グループは何もできなかった。たった2人の少年が付き添っていた。それでも40対3だ。ケンカになれば勝負は見えている。なのに誰も手は出せなかった。それは2人の圧倒的な人望、抜群のリーダーシップに、みんなが尻込みをしたからだ。

 なぜ、その子を守ったのか? 大人になってから聞いたことがあった。答えは簡単だった。「ただ、先生に『守ってあげてね、お願いね』って頼まれたからだ」。あっけない答えに「じゃあ、頼まれなかったら?」と聞くと「さあ? 何も知らなかったらそのまま帰っただろうな」。

 大切な教訓がある。その担任の先生の目は確かだった。その2人を選んだこととその頼み方。待ち伏せを知っていたこと。学年内の子供の力関係を正確に把握していた。この観察力が救ったといえる。
 何でもかんでも、先生がする必要はない。頼りがいのある子供、周りから一目置かれる子はどのクラスにもいる。その子に託すことがあってもいい。きっとその先生は、どこかで校門の様子を見ていたはずだ。

 子供の世界を知るには、現場の教師や、親の観察と判断に勝るものはない。子供が肌で感じ、日々塗り替えられていく勢力図を知るためには、子供の情報は欠かせない。子供の力を借りてもいい。時として子供が子供を救う。頼りになり、勇敢で信頼できる児童は、何十人もの大人以上の働きをすることだってある。

 「いじめを減らす『もっと』は何か」。それはいつだって子供の中にある。見る、話す、聞く、その繰り返しだ。人の議論の結末を批評するだけでなく、自分で思い巡らすことが大切だ。

December 3, 2006 09:57 AM