2006年11月26日
フリー=自由ではない:藤中栄二
「フリー」と呼ばれる地位は本当に自由なのか。
11月15日、北海道・札幌で行われたサッカーの日本-サウジアラビア戦直前の練習。MF中村憲剛(川崎F)が10対10のゲーム形式練習で1人だけ違う色のビブス(背番号の入ったゲームベスト)を着用した。常に攻撃チームの味方としてボールに絡む、その役割はフリーマンと呼ばれる。
オシムジャパンではゲームメーカーを務める選手が、この役割になることが多い。中村は「とにかくフリーなのでミスがないようにトライしました」と照れ笑いを浮かべた。フリーはフリーでも、周囲の流れを強く意識する「制約」がある。その中で中村は独自性を打ち出そうとしていた。
サッカー取材で最初に耳にしたフリーマンとはDFのことだった。主に3バック守備でDFの中央に入る選手のことを意味した。イタリア語で自由を示すリベロとも言われる位置。このDFはマークする相手選手が存在しない。「フリーの状態」ということが語源だ。しかし他のDFの誰かが抜かれた時、代わりにマークしてボール奪取に向かわなければならない。また積極的な攻撃参加も要求される。本来のプレーは自由とは言えない。
最近、新聞社を辞める記者が少なくない。筆力と取材力のある記者ほど、フリーライターやフリージャーナリストとして羽ばたいていく。一見、まぶしく輝いてみえるが、先輩フリーライターにこう指摘された。「今の記者の給料をフリーでキープするつもりなら今の給料の3倍は稼がないと同じ手取りにならないよ」と。会社員と違い、フリーは交通費、取材費は当然のように自腹を切る。取材で使用した携帯電話の通話料、ノートやペンにしても諸経費は自分で購入する。そんな細かい重ねが、実は大きな支出となっている。
また同年代のライターには、こう嘆かれた。「フリーは採用してくれる媒体がなければ一銭にもならない。自分の考えと編集者が一致すればいい。大体、一致しない。その時は、編集者が要求する原稿を書かないと採用されない。フリーだからって本当に書きたいことなんて書ける人はほんの一握りさ」と。フリーは自分の「思い通り」を貫いては生きていけない。自分の主張を封印し、時には意思を曲げてまでペンを握る。あるいはパソコンに向かわなければならない。ライター、ジャーナリストのフリーにも自由がない。
フリーが意味する自由とは何をしてもいいということではない。誰よりも周囲を観察し、全体を把握できる能力=「空気を読む」という力がなければ、自由な立場に到達することは無理だろう。読者の皆さんの周りにも、自由人と見られる人物がいると思う。実は結構、無理をしているのかもしれないと想像できる。
何のものにも依存せず、依存されない立場に到達することは簡単ではない。本物の「フリー」とは決して誰かに与えられるものではない。しいて言えば勝ち取るものか。少なくともフリーの肩書を持つ人物は制約や制限の中で、責任を背負って生きている。フリーとは相当、疲れそうだ。
November 26, 2006 08:48 AM
