2006年11月23日
徹底した話し合いを:井上真
正しいと確信していた価値観が一瞬にして揺らいだ。テレビ番組の中で、映画観賞前の漫画家蛭子能収さんが言った。「ボクが戦争映画に求めることは、できるだけ残虐に描いてほしいということなんです。見た人が、こんなことは2度と繰り返しちゃいけないと思うからです」。
言われてみてその通りだと感じた。そんな観点から戦争映画をとらえたことはなかった。血しぶき、肉片が飛散するリアルな映像で、事実に即した記録映画などを見ると「こんなむごいシーンを誰が好むのだろう」といつも感じていた。
むしろ、そうしたシーンを流すことと、犯罪が横行することは、どこかでリンクしていると思っていた。戦争に限らず、殺人、拷問、暴力、犯罪をリアルに描くつくり手の感覚が分からなかった。暴力の連鎖への「助長」「誘発」に目が行き、「抑止」の視点はなかった。蛭子さんが感じたことを、みんなが意図しているとは思えないが、受け手の感性はさまざまで「戦争はあってはならない」と同じ結論に至るにも、そこまでの思考は1つに縛られないと痛感した。
心に引っ掛かっている事がある。自民党の中川昭一政調会長が提起した核武装是非論だ。最初から中川氏の発言は冷静に受け止めていた。もちろん、核兵器で殺されたただ1つの国民として、核兵器を落とされることも、落とすことも、どんな理由があっても絶対に許されないと言い切れる。それでも、核の傘の元で安全が保証されるか、と聞かれれば「どうかな?」と思う。
他国を尊重しつつ日本がこれからも平和で繁栄することが最優先される。そのために、政治家はあらゆる可能性を探るべきだ。核の保有を一貫して放棄してきたことは、唯一無二の被害国として立派な態度だ。一方で、何が何でも持たないの1点張りではなく、豊かな国を残すために、あらゆる議論の結論として「持たない、つくらない」のゴールを導き出す道もあるのではないか。
戦争はこんなに悲惨ですよ、とすべてをさらけ出すことで「ああ、やっぱり戦争はいやだ」と思う人も多い。同じように核兵器はこんなに人類と地球を破壊する。その兵器を周囲の国はすでに持ち、日本も保有するのに十分な技術がある。さあ、日本が核兵器を持てばどんなことが起こりますか。その上で「やはり核は持たない、つくらない」と再認識してもおかしくはない。
被爆した広島や長崎の人は、日本人だろうが他国の人だろうが、決して同じ目に遭ってはいけないと思うから反対する。その現実を踏まえ、核を使わない、使わせないために、どんな方法があるか、あらゆる角度から話し合う必要性を感じる。
戦争放棄した日本の思想は、悲惨な経験の上に築かれた。その価値観は正しい。ただし、その価値観が日本の平和を永遠に守るか、と自問すると即答できない。豊かに育った世代の1つの率直な考えだ。
November 23, 2006 11:12 AM
