記者コラム「見た 聞いた 思った」

2006年09月19日

自然体で楽しむ人生:山内崇章

 笑っているようにも見える老女の目からポロポロと涙が落ちてきた。稲川誠さん(70)がエンディングに選んだ曲は「見上げてごらん夜の星を」。お年寄りだけのギャラリーで埋まった館内は、稲川さんの優しい声と柔らかなギター音にしっとりとした空気に包まれた。白髪の主役が歌い終えると、しばらく拍手と歓声が鳴りやまなかった。

 稲川さんは、3年前から神奈川県茅ケ崎市の老人養護施設で定期的にコンサートを開くようになった。12人で結成したアマチュアバンド。メンバーの平均年齢も60歳を軽く超えている。高校時代から音楽を趣味にしてきた。担当はボーカルと得意のギター。「お金は一切いただきませんよ。だって人を喜ばせられるだけで十分幸せじゃないですか」。ボランティアを始めた理由をしみじみと話す。

 本業は、横須賀市にある横浜ベイスターズ寮の寮長さん。オールドファンなら知っている人も多い元プロ野球選手だ。1962年(昭37)から実働7年で83勝、入団2年目に球団記録の年間26勝を挙げたエースピッチャーだった。負けん気の強い投球スタイルで全盛期の王さん、長嶋さんをきりきり舞いさせたこともある。年間300イニング以上の登板が当然とされていた時代だけに、肩ひじの消耗も早かった。

 「それはもう昔話。野球選手に限界はあっても、人を喜ばせる趣味の世界に定年はありません。変わってるでしょ、僕」。のんびりした口調には、過去の栄光にしがみつかず自然体で今を生きるすがすがしさがある。人生の楽しみ方を知っている人だ。チョウの採集家でもあり、日本に生息する240種以上を標本にしている。ギターの腕前もプロ級だ。サザンオールスターズ桑田佳祐の実姉と親交があり、直接指導を受けて技術を磨いた。

 試合中、記者席にいる僕によく電話がかかってくる。現役引退後は20年間、大洋のコーチを務めた。選手を見る目も温かい。「山口は夏場に懸命に走っていたんだ。ボールだって走ってるはずだよ。那須野の制球はどう?」。寮から1軍の試合に通う若手が気になって仕方ない。打たれて帰ってきた夜、部屋で落ち込んでいる選手に声を掛けるのも稲川さんの仕事だ。「1点取られたら2点やるな、2点取られたら3点やるな、3点取られたら絶対に4点目をやるな。そう思って投げれば次は勝てる」。

 歌い終えた稲川さんが、僕を見つけてポツリと話した。「ここにいる人はね、みんなどこか寂しさを抱えているの。本当は家族と一緒にいたくても、迷惑を掛けたくないって、自分でためたお金、年金をはたいて来る人もいるんだよ」。握手に駆け寄る老女たちの目は輝いている。花束を渡して「私と恋愛してみる!?」なんて冗談を飛ばす人もいた。何となく稲川さんの言う意味が分かる気がした。

 「読む人を喜ばせる記事を書きなさいよ。それが記者の生きがいじゃない」。僕に話してくれる言葉もすうっと心に落ちてくる。球界に身を置きながら、視野を広げて人生の楽しみを見つけてきた稲川さんならではのアドバイスに思える。野球でファンを魅了し、歌でお年寄りを喜ばせている70歳は文句なしに格好いい。モテモテの稲川さんの顔は本当に幸せそうだ。こんな大人になれたらと思う。

September 19, 2006 11:09 AM