記者コラム「見た 聞いた 思った」

2006年08月10日

日常から感じる平和 :山内崇章

 ふいてもふいても汗がこぼれ落ちてくる。梅雨の明けた7月最後の広島は、肌に痛みを感じるほどの暑さだった。ナイター取材までの空き時間を利用して市内の平和公園を歩いた。園内はいつになく慌ただしい。夏休みとあって子供連れの観光客も多い。慰霊碑前の芝はきれいに刈り取られ、ボランティアで清掃に励む人も忙しそうだ。1週間後に控えた平和記念式典への準備が着々と進んでいた。

 元安川のほとりから眺める市内の景色はいつ見てもいい。寂しそうにたたずむ原爆ドームの背後には、カープの本拠地・市民球場がどっしりと構えている。悲しい過去から立ち上がった広島の強さを表す象徴的なアングルにも見える。広島には縁もゆかりもない自分だが、子供のころから思い入れがあった。植え付けられた「恐怖心」から忘れられない地名になった。

 親に手を引かれて見に行った映画が広島を知るきっかけだった。小学校に上がったばかりのころに見た作品。親、兄弟との死別、壮絶なシーンは今も頭から離れない。人間が人間を一瞬にして死に追いやった現実の話だと知ったショックは大きかった。自分の住む街に原爆が落ちたらどうなるのかと本気で心配もした。

 新聞を読めるようになったころは、米ソの軍拡競争がたけなわ。日本の首相が米大統領に「日本は不沈空母」と発言したときは、映画で見た最悪の光景を想像させた。冷戦構造と固く結ばれた日米関係、もはや日本にいつ核兵器が飛んできても不思議ではない。純粋な恐怖心から、教室で友達に力説したこともあった。

 園内を1周して1時間近くがたっただろうか。慰霊碑が見える日陰のベンチに座っていた初老男性が、まだ同じ場所に腰を下ろしていた。公園の近くに住む67歳の男性はここに来るのが日課だという。4人兄弟の末っ子として広島市に生まれたが、生後すぐに福山市の親せきの養子になった。

 「父親の顔も母親の顔もほとんど覚えていません。福山はここからだいぶ離れているから…、原爆のことはよく知らないんです」。両親と姉2人を原爆で亡くした。戦後も福山に暮らしたが、息子のいる広島に5年前に引っ越してきた。「ずっと広島には来たくなかったが、やっぱりこの年になって1人では寂しい」。

 中央慰霊碑に向かって園内の左手には、在日韓国・朝鮮人の慰霊碑がある。おそろいの赤いシャツを来た団体は、広島市と姉妹都市の韓国・大邱市から来た旅行客。鄭基徳さん(45)は、妻と息子を連れて初めて広島を訪れた。「不本意な形で日本に来た人、夢を求めて異国の地で生きる道を選んだ人、いずれにせよ将来の希望を捨てていなかった私たちの先祖の無念さを考えると心が痛みます」。

 帰り際、元安川のほとりに差し掛かると、横浜から遠征に来たプロ野球選手が走りすぎていった。広島で登板予定のないエースピッチャーは、次戦に備えた調整に余念がない。きっと、61年前に広島で暮らしていた人々も、さまざまな日常を送り、先々の予定や目標を見据えて暮らしていたはずだ。原爆ドーム、街をさっそうと駆け抜ける野球選手。当たり前の日常が断ち切られずにきたからこその光景だと、ふと思った。平和のありがたさを感じさせるコントラストに見えた。

August 10, 2006 10:40 AM