記者コラム「見た 聞いた 思った」

2006年05月27日

「煙たがれる」存在?:荻島弘一

 日本がW杯初戦で戦うオーストラリア代表取材のために、メルボルンに来ている。オーストラリアは「禁煙先進国」といわれているそうだ。公共施設はもちろん、レストランやカフェ、バーなどすべての建物内は禁煙。ホテルでも、自室以外では吸えない。昼休みのオフィス街や、夜のカフェなどでは、屋外で紫煙をくゆらす人が目に付く。嫌煙家にとっての天国は、喫煙者にとっての地獄だ。

 日本も、最近は喫煙者に冷たくなってきている。新幹線などの列車は喫煙車が激減。全車両禁煙の列車まである。レストランも全面禁煙を掲げるところが増えた。シアトルから進出した某コーヒーショップも、店内は完全禁煙。スポーツ新聞を読みながらタバコを吸い、コーヒーをすするのが正しい「喫茶店」だと思っていたが、そういう店も少なくなった(確かにコーヒーはおいしいけれど…)。

 ここ数年、喫煙者に対する風当たりは急激に強くなった。「健康に害を及ぼすから」と言われれば、返す言葉はない。実際に科学的な証明はされていないともいわれるが、まあ「健康にいい」と胸を張っていえるものでもない。ただ、喫煙者の立場で言えば、精神的な面も含めて体にいいところだってあるとは思うが。

 嗜好(しこう)品だから、吸うか吸わないかは個人の自由。極論かもしれないが、だいたい大人になるというのは、体に悪いことを楽しむことだ。タバコを吸い、酒を飲み、美食を好み、夜遊びをする。どれも、体にいい訳はない。いい訳はないけれど、人間が豊かに生きるためには重要なものだ。

 もっとも、個人の自由などと口にすれば、必ず「受動喫煙」という言葉が返ってくる。嫌煙家にとって見れば、喫煙者は「殺人者」らしい。酒は個人の自由でもいいが、タバコはダメというわけだ。とはいえ、酒に酔って暴れる人は数多く見ているが、タバコを吸って暴れる人は、これまで見たことがないのだが。

 決して「自由にタバコを吸わせろ」と言っているのではない。非喫煙者の言い分も分かる。ならば、分煙にすればいい。喫煙者がマナーを守ればいい(守れないから言うんだと言われそうだけれど)。「タバコの完全撤廃」を求める最近の嫌煙運動の過激さは、ヒステリックにさえ感じる。

 だいたい、禁煙運動の発信元は、地球温暖化を防ぐための京都議定書に調印しなかった米国なのだ。人類のためには、嫌煙運動も大切かもしれないが、排ガス規制などもっと早急に取り組むべき問題はあるのに。どうして、これほどまでに文字通り「煙たがられ」なければならないのか。「バカの壁」の養老孟司氏は、禁煙運動は、かつて米国がベトナム戦争での枯れ葉剤に対する環境団体の避難をかわすため、反捕鯨キャンペーンを張ったのに似ているとも指摘している。

 繰り返すけれど、嫌煙運動に反対しているわけではない。ただ、もう少し冷静に、しっかりと考えた方がいいとは思う。このコラムでも何度か嫌煙の話題が出た。それはいい。ならば、吸う立場の声があってもいいだろう。喫煙者の排除ではなく、喫煙者と非喫煙者が共存できる社会づくりを考えるべきだ。寒さに震えながらも幸せそうにタバコを吸うオーストラリアの人たちを見て、そう思った。

May 27, 2006 10:26 AM