記者コラム「見た 聞いた 思った」

2006年04月27日

育まれ52年、代表の幹:荻島弘一

 「世界サッカー極東豫選開く 日本チーム全く精彩なし」。日本代表がW杯に初めて挑戦した試合。今から52年前の54年スイス大会予選韓国戦翌日の日刊スポーツの見出しだ。まだ戦後だった昭和29年、1-5の大敗に「体力的に劣った。韓国の実力は戦前以上にある」という竹越監督のコメントも掲載されていた。

 それから、半世紀以上がたった。その間、紙面に多くの日本代表の原稿が載った。64年東京五輪でアルゼンチンに勝った時は「28年ぶりベスト8 まるで金の喜び」とある。「あっぱれ釜本2ゴール 杉山へ感謝の抱擁」は、68年メキシコ五輪銅メダルの時だ。

 ただ、W杯では悲しい見出しが続く。74年西ドイツ大会予選でイスラエルに敗れて「日本の野望ソウルに散る」。78年アルゼンチン大会予選で再びイスラエルに敗れ「世界は遠し… お粗末の一言」と厳しい。86年メキシコ大会で韓国に屈した時は「体制の差 プロ化こそ急務」。94年米国大会予選の「ドーハの悲劇」では「日本呆然 W杯消えた 砂漠にシンキロウ 世界の扉無情」だった。

 日刊スポーツの日本代表記事を1冊にまとめた「サッカー日本代表新聞 W杯への栄光と挫折の50年闘争史」が今月下旬、飛鳥新社から発売される。出来上がった本を見て、日本サッカーの歴史を思い返した。94年米国大会予選に臨んだオフト監督は「歴史が代表を作る」と言ったが、今の日本代表もまた、長い日本サッカーの歴史の上に築かれたものだと、あらためて思った。

 担当記者も50年の間にずいぶん変わっている。故人もいる。24日には、70年代にサッカーを担当していた谷口博志さんが69歳で亡くなった。70年のメキシコ大会で日刊スポーツとして初めてW杯を取材。世界のサッカーを見るトヨタ杯もない、日本代表もW杯からは程遠い時代に、世界のサッカーを紙面で伝えた。

 メキシコからの原稿には「ペレを見た」というのもあった。「パーティー会場の数メートル先に意外に小さい王様がいた」という内容。身近に世界的スターを取材できる今は信じられないが、当時はそれが大ニュースだったのだろう。日韓大会開催が決まるずいぶん前に「記者として、1度はW杯を見ておいた方がいい」と言われたが、その言葉にこそ歴史を感じる。

 試合は勝つこともある。負けることもある。選手のコンディションやモチベーション、さらに運も結果を左右する。しかし、代表を支える大きな幹は変わらない。過去の歴史が変わることはないからだ。前代表監督のトルシエ氏は「今のチームの基礎は私が作った」という。らしい言葉だが、当たっている部分もある。

 ジーコジャパンの元はトルシエジャパンにあり、その元は岡田ジャパン、そしてその元は加茂ジャパンにある。その積み重ねが、今の日本代表を作っている。多くの監督が、多くの選手が、そしてそれを伝える多くの記者が、応援する多くのファンが、今の代表を作った。日本が挑む3度目のW杯を目の前に他界した先輩記者が積み重ねてきたものも、我々が受け継いでいかなければならない。

April 27, 2006 11:38 AM