2005年12月06日
人を裁くという重さ:桐越聡
先日、都内で開かれた公開討論会の席上、ある弁護士がこんな話をしていた。「裁判に裁判員として参加する以上、被告人の生命を奪い、自由を奪い、財産を奪うことにかかわるんだと十分に認識してほしい」。市民が、プロの裁判官と一緒に裁判を進めていく制度が始まるとは聞いていたが、深くは考えていなかった。市民が被告人の生命を奪う? ちょっと待ってくれよ、と言いたくなった。
調べてみた。裁判員制度は09年5月までに始まる。殺人や強盗致傷、傷害致死…。死刑や無期懲役などの刑を含む重大事件の1審に、選挙権のある人の中からくじで選ばれた市民が裁判員となって参加する。70歳以上の人や20歳以上の学生を除くと「やりたくない」ぐらいの理由では、断ることができないらしい。
計算上は年間1万人以上の市民が裁判員になる。読者の皆さんも、裁判員になる可能性は大いにある。しかし、何人かの知人に聞くと「言葉は知っているけど…」がほとんど。制度導入が決まり1年半ほどになるが、広く浸透したとは言い切れないような気がする。
法務省には「市民の感覚が裁判に反映される。その結果、国民の司法に対する理解と信頼が深まる」という狙いがあるようだ。もちろん、その意図は分かる。裁判員は被害者や遺族に直接質問する機会があるようだから、きっとやりがいがあるに違いない。学生時代なら、制度が始まるのを待ち望んでいたかもしれない。
しかし、正直言ってこの制度には不安を感じている。情に流されて正しい判断ができなくなるかもしれない。被告人のウソにだまされたら取り返しのつかないことになる。もし、被告人の関係者から「報復する」と脅されるようなことがあったら、裁判どころではなくなると思う。過去に刑に処されていても禁固以上の刑でない人は裁判員になれる、という資格のあり方にも、ちょっと抵抗がある。
何より、人を裁くということ自体に自信がない。被告人の一生を左右する責任の重い仕事だ。裁判員が参加する裁判は、裁判員6人と裁判官3人の構成となるらしいが、自分は9人のうちの1人だからと、軽くは考えられない。知識がない。冷静な判断に自信がない。いくら刑罰は裁判官が決めるといっても、「冤罪(えんざい)だ」という被告人の叫びが頭から離れず、長く悩むかもしれない。
下校途中の女児が殺害される事件が連続して発生するなど、最近の事件は凶悪化している。その背景は複雑で、よく分からないことも多い。この制度が始まるころには、市民感覚ではとらえられないような事件が、さらに増えている可能性がある。裁判を通じて事件の事実関係や動機などを深く探っていこうとするとき、裁く側に市民感覚が求められるというのはよく分からない。市民感覚という言葉は聞こえがいいが、法律の知識がない裁判員が裁くのは、被告人に対してある意味では失礼ではないか。そもそも必要なのだろうかという思いさえしている。司法改革という言葉のもと、この制度は、市民に重すぎるものを突き付けているような気がしている。
December 6, 2005 11:52 AM
