2005年11月06日
見ぬふりできぬ「改憲」:桐越聡
よく利用する地下鉄の駅で、この半年間ほど目にしていたポスターが、数日前、はがされた。それは、ぼう然と立ち尽くしたサラリーマン風の中年男性が「今朝、痴漢の現行犯逮捕を目撃した。人として情けないと思う」と、利用客に訴える「痴漢・盗撮行為撲滅キャンペーン」の啓発ポスターだ。
痴漢や盗撮は被害者に深い心の傷を残す卑劣な犯罪行為。痴漢や盗撮の加害者、あるいは被害者がいると気付いたとき、助けるような行動に出たいと、ポスターを見るたびに強く思った。後ろめたさが残ったり、釈然としないことを「見て見ぬふり」するようなことはできる限りしたくない。そんなことを時々思う。
10月28日、自民党は新憲法草案を公表した。戦力不保持、国の交戦権は認めない憲法9条第2項は削除され、代わりに「自衛軍」を保持と明記。現行の憲法が禁じているとして、政府が否定してきた、集団的自衛権の行使を認めると解釈できるような条文になっていた。私にとっては、まさに「見て見ぬふり」できない草案だった。
同盟関係にある国が第三国から攻撃されたとき、日本は攻撃されていなくても、その攻撃された国とともに武力攻撃できるという権利が集団的自衛権。その権利を行使するということは「親友がケンカを仕掛けられたのだから、助けるのは当たり前」という言い分と似ている。実際、親友が目の前でケンカに巻き込まれたら止めようとする。だれしも、静観できないだろう。
しかし、ケンカなら百歩譲っても、国対国の戦争となると話は大きく違う。日本の交戦権を認めることを、平然と受け入れるのは難しい。
同盟国が攻撃されているのに、手出ししないのは現実的な選択としてあり得ない-。自民党、民主党はそんな方向へ傾くようだ。しかし、集団的自衛権の行使を認められた「自衛軍」が武力攻撃すれば、米国と一体とみなされる日本は敵の攻撃対象にもなるだろう。家族が生命の危険にさらされるようなリスクを毅然(きぜん)として受け入れるような覚悟は、私にはまだない。
改憲論議を進めたい。そんな動きが増している。「郵政民営化、賛成か反対か」と、国民に問い掛けられた今夏と同じく「集団的自衛権の行使を認めるのか、認めないのか」と問い掛けられるのは、決して遠くない将来ではないか。そんな気持ちがしてくる。
国土を守る、国民の生命を守るには「自衛軍」は必要だろう。もちろん、米軍との関係強化もしていかなければならないと思う。しかし、戦争を放棄した国の憲法が集団的自衛権の行使を認めるのは釈然としない。
これは1人1人にとっても「見て見ぬふり」できない問題だと思うのだが。
November 6, 2005 11:37 AM
