記者コラム「見た 聞いた 思った」

2005年10月14日

失ってから感じる幸せ:永井孝昌

 見覚えのない、財布だった。

 朝、ある記者が街を1人で歩いていると、突然、右肩にドン、と衝撃を感じた。少し前につんのめりながら驚き、振り返ると、後ろには肩にぶつかった制服姿の警官が立っていた。

 目の前に回り込む警官を目で追う。前をふさぐようにして立ち止まった警官が、視線を落とす。つられるように下を向くと、そこには、見知らぬ財布が落ちていた。

 「おい、オレの財布がお前から落ちたぞ」

 つたない英語で言っている。言っていることは分かるが、何のことなのかは分からない。だが警官は構いもせずに財布を拾い、中を開け、続けた。

 「金が足りない。盗んだんだろう。お前の財布を見せろ」

 わざと財布を落として詐欺に持ち込む旅行者狙いの犯罪がある、とは知っていた。だがとっさのことで、しかも制服を着た警官が相手では、頭の整理が追いつかない。両脇を通り過ぎる人々は、ちらりと目をやることはしても立ち止まることはない。

 言われるままに財布を出した。盗難に備えて手渡すことはせず、自分で握りながら

 「では確認してくれ」とだけ伝えた。

 そのタイミングで、今度は左後方から別の警官がやってくる。

 「何をやっているんだ」

 こちらも英語はたどたどしい。だが、説明しようとしてもなかなか置かれた状況を説明するうまい言葉が見つからない。その、思案していた数秒で“ヤツら”の仕事は終わっていた。

 「もういい」

 財布を調べていた警官が言うと、2人は足早に、街の雑踏に消えていった。

 慌てて財布を確認する。一見する限り、カードを盗まれた様子はない。お金も残っている。だが、これが“ヤツら”の手口だった。

 円を少し、グリブナを少し、そしてユーロも少し、実際に数えてみなければ分からない程度に巧妙に、抜き取られていた…。

 これが世にいう「財布拾い」。日本代表取材で報道陣が泊まっているお湯の出ない、バスタブの栓もない、夜中になればバカでかい冷蔵庫が突然ブンブンとうめき出すウクライナのホテル近くで、報道陣の1人が被害に遭った。その方はこう、言っていた。

 「ガイドブックで『財布拾い』は知ってはいたけど、いざ警官に呼び止められると怖さが先にたって混乱する。いくら気を付けていても、やられる時はやられちゃう」。

 海外で、街灯のない夜道に迷い込んで「うっ、暗いな」と思った瞬間に込み上げる恐怖心は、日本の比ではない。メーターのないタクシーに乗り込んで、降りる瞬間の「ふっかけるのか?」という緊張感は、怖い思いをしたことがないから緊張で済む。

 年末年始が近づいて海外旅行の準備を始めた方も多いと思うが、君子でも、ひとたび狙われれば危うきに近づかずには済まされない時代。大丈夫、と高をくくるのは簡単だが、暖かいシャワーもそう、気軽に街を歩ける治安もそう、あるべきものがあるべきところにあるという幸せは、あるべきものがあるべきところにない時にしか感じない。

October 14, 2005 11:49 AM