記者コラム「見た 聞いた 思った」

2005年08月17日

為末父にみた家族愛:横田和幸

 夏の高校野球大会が佳境に入ってきた。スポーツ記者は、担当競技に関係なく1度は、この甲子園で取材のイロハを学ぶ。基本はアルプススタンド巡り。選手の家族を何千人の応援団の中から探し、取材できれば関門突破だ。そこでの出会いで、選手の思わぬエピソードを聞けたりする。選手との距離が縮まった気もする。その意味で家族という取材対象は、我々に欠かせない存在だ。

 世界陸上ヘルシンキ大会で、為末大(ためすえ・だい、27=APF)が男子400メートル障害で2大会ぶりの銅メダルを獲得した。雨の中で拳を掲げる写真を紙面で見ると、熱いものが伝わってきた。

 今から11年半前の94年1月、彼が広島・五日市中3年時に取材した。6種目で93年度の中学記録トップに立っていた。当時、広島総局で勤務していた私は「怪物ランナー」の特集を組むために学校に出向いた。河野裕二顧問(現美鈴が丘中校長)と2人で、体育教官室で応対してくれた。

 「僕は小学校のころ、本当は練習が嫌いだった。長距離練習をしていると、頭の中で悪魔が『もうやめておけ』とささやく。でも中学になると、天使が『頑張れば記録が伸びるよ』と言ってくれるようになった。今は天使と友達なんです」。

 15歳とは思えない感受性豊かで、人なつっこい笑顔の受け答え。最後に本人は「ずっと陸上選手でいたい」と話した。法大から大阪ガスに入社し、安定した生活を保障されながら03年に退社した。プロに転向したのは、当時から将来設計していたのかもしれない。

 話は戻る。特集記事が掲載された当日、広島総局の会社を見知らぬ中年男性が訪ねてきた。「今日の日刊スポーツを10部ほど売っていただけますか?」。偶然に対応した私は、紳士然としたその人と会話しているうちに、為末の父親だと分かった。

 「紙面に息子が載っているんです。記念にたくさん取っておきたいと思いましてね」。にこやかで、物腰の柔らかい人だった。広島の地元新聞社で事業関係の仕事をしているという。あれこれと、10分ほど会話が弾んだ。取材時の為末の笑顔は、お父さんから譲り受けたのだろうと、勝手に想像したりもした。

 それが2年前の03年7月に、敏行さんは54歳の若さで他界した。小さな訃報(ふほう)記事を読んだ当時、私でさえショックを受けた。まだ20代の為末のことを思うと胸が痛んだ。01年の大会で獲得した銅メダルを、為末は母文枝さん(55)に贈っている。「今回のメダルは、父にあげる約束をしていました」。残念ながら果たせなかった夢。先輩記者の書いた記事を読み、再びジーンときた。

 彼が中学卒業後は、取材機会に恵まれていない。それでも、身近に感じられるのは、お父さんとの出会いがあったから。取材対象との距離を縮めてくれた典型的な例だった。「侍ハードラー」の背中を、天国のお父さんが押している。私は為末父子をこれからも応援していく。

August 17, 2005 11:30 AM