記者コラム「見た 聞いた 思った」

2005年05月31日

野球の魅力探す喜び:飯島智則

 ◆西武中村剛也(なかむら・たけや)21歳。大阪桐蔭から01年ドラフト2巡目で入団。4年目。選手名鑑は身長173センチ、体重95キロとなっているが、実際は102キロという。座右の銘が「おかわり」というだけあり、食べるのが大好き。丸いお腹も気にせず「これで動けるし、減量するつもりはありません。年々増えています」。ダイエットブームの昨今に逆行しながらも、本塁打を量産して台頭中。太めの体に似合わず? 50メートル走は6秒台で、動きも柔らかくセンスあふれる。一見の価値あり。


 ◆ロッテ渡辺俊介(わたなべ・しゅんすけ)28歳。国学院栃木から国学大、新日鉄君津を経て00年ドラフト4位で入団。5年目。投げる時、手にしたボールが地面に着いてしまうほど体を倒して投げるサブマリン投手。120キロ台の速球も、相手打者には脅威に映る。ただ、注目すべきは、最近では珍しくなった美しいフォームだけではない。3月27日の楽天戦でロッテは26ー0で大勝した。猛攻ばかりが目立ったが、彼は最少の27人で1安打完封をしてみせた。その後、5月8日横浜戦でも18ー0という大差の試合で完封した。大味になりがちな試合展開でも「いくらでも援護はありがたい」と言って、淡々と自分の仕事を全うするプロである。


 ◆巨人矢野謙次(やの・けんじ)24歳。国学院久我山から国学大を経て02年ドラフト6巡目で入団。3年目。チャンスを得ることすら困難な球団にあって、高橋由の故障による抜てきで名前を売った。5月5日に昇格即、今季1号を放ったとき、私はテレビで見ていた。ベースを周りながらガッツポーズを繰り返す表情も、真剣そのもの、必死さがあふれていた。やったな。思わず口に出してしまうほど感情移入して、胸が温かくなった。最近(ドラフトで逆指名制度を導入して以降といってもいい)の巨人で、こんな体験は珍しい。高橋由の復帰で2軍落ちしたが、再挑戦を楽しみにしている。


 ◆西武石井義人(いしい・よしひと)26歳。浦和学院から96年ドラフト4位で横浜入団。故障と闘う生活が続くが、西武トレード後に華開く。現在、パ・リーグ打率トップ。


 ◆オリックス後藤光尊(ごとう・みつたか)26歳。秋田から法大に進むも中退。川鉄千葉を経て01年ドラフト10巡目で入団。今季はサヨナラ弾、満塁弾、逆転弾、代打逆転弾と勝負強い打撃が目立つ。その分、痛い失策もするけど…。武骨な顔付きもよく、個人的には注目度NO・1。


 ドラフト制度などの構造改革をはじめ、球界の問題点を取材する機会が多い。本欄でも様々な問題や改善点を指摘してきた。もちろん球界発展のため必要な作業と自負している。しかし、ややもすると欠点ばかりを探そうとする自分に気付く。今回も野球協約上の矛盾点を指摘する原稿を書こうと準備していたのだが、西武中村が本塁打を放った後の笑顔を見ていたら気が変わった。


 スター不在といわれるけど、捨てたものではない。マリナーズ・イチローやヤンキース松井は、見る側が何もせずとも感動を与えてくれる。今の球界で、それを期待するのは無理かもしれない。しかし、見る側が積極的に求めていく喜びや楽しさもある。

May 31, 2005 12:46 PM

2005年05月30日

全頭の無事祈る裏方:高木一成

 今日は競馬界最大のレース・日本ダービーが行われる。レースの興味は皐月賞馬ディープインパクトがどんな勝ち方をするか。穴党には悪いけど、個人的には「強い馬が強い競馬で2冠達成」という競馬の醍醐味(だいごみ)を味わいたい。


 と、同時にやっぱり全馬無事にレースを終えてほしいなと思う。ダービーを最高の舞台で整えてくれたスタッフのためにも。


 27日の朝、ダービーを目前に控えた東京競馬場の芝コースを歩かせてもらった。たまにやるゴルフでも、しっかり刈りそろえられたフェアウエー上は滅多に歩けない僕だが、この日もボールが入ったらなかなか出せなそうなラフをひたすら歩いた。通る馬が多い内側はさすがにボコボコしていたが、ちょっと外めは芝がびっしり。一緒に馬場を回って案内してくれた東京競馬場の矢島輝明馬場造園課長(45)によると「例年になくいい状態。これ以上ない馬場」と力強い声が返ってきた。


 芝には、見栄えはするが暑さに弱い洋芝と、夏は大丈夫だが冬は枯れてしまう野芝の2種類がある。1年を通して緑の芝コースを保つために、この2種類を併用しているが、ダービーはちょうど気温が上がり始める時期。「1番きれいに見せたいダービーのときが、芝の1番難しい時期」と矢島さんは言うが、大雨の開催が少なかったこともあり、今年はファンが喜ぶ状態をキープできた。


 芝がもっとも育つ時期は6月から7月半ば。ダービー、安田記念が終わった瞬間に張り替え、修復作業に入らないと、翌1年間保つ芝を育てることはできない。「来年のダービーの馬場は、今年のダービーが終わった瞬間に勝負が始まる」と矢島さん。馬場を馬に置き換えると、厩舎関係者がよくいう言葉になるのが面白い。やっぱり競馬はダービーを中心に回っている。


 「おそらくディープインパクトはこの辺を通るんじゃないかな」。当日を思い浮かべて話しながら差し掛かった3角すぎ。矢島さんはふと、コース内にある大木、俗にいう大ケヤキに向かっていった。側に奉られている地元武士の井田是政の墓の前で立ち止まると、しばらく手を合わせた。「ここでレース前は出走馬の無事を祈り、レース翌日は無事に開催を終えたお礼を言うんだ」。


 昨年のダービーは、残念ながらレース中の故障で安楽死処分になった馬、重度の骨折をした馬が出た。ローテーションに無理はなかったのか? 厳しいレースをした代償では? 他にも故障の原因は考えられるが「馬場が硬すぎるのでは」という人もいた。何が本当の原因かは誰にも分からないが、それでもケガがあれば、馬場状態は常に指摘の矢面に立つ。そんな思いはもうしたくない。毎朝の馬場チェックにも自然と力が入る。


 「とにかく全馬が無事でいてほしい。何も事故がなく大きなレースが終わるといつもホッとするよ」と矢島さん。ダービーの大舞台。華やかなレースの裏側には、全頭が無事にレースを終えて、はじめて胸をなで下ろす人もいる。

May 30, 2005 12:35 PM

2005年05月29日

優れた指導者の条件:横田和幸

 今週は貴重な体験をしてきた。JR京都駅から湖西線の鈍行電車に揺られ、比良駅で下車。琵琶湖、比良山の風景を横目に10分ほど歩けば、びわこ成蹊スポーツ大(滋賀)にたどり着いた。開校3年目。サッカー元日本代表DF井原正巳さんが客員教授で在籍しており、校舎には新築のにおいが残っていた。


 私がJ1広島担当だった時代、同クラブで国際担当部長をしていた伊藤庸夫教授から特別講師の依頼を受けての訪問だった。「スポーツ情報論」の授業で、スポーツ記者とは? を90分間にわたって講義した。対象は入学1期生にあたる3年生の30人。


 質疑応答では「記者は作文が得意でないとなれないの?」という質問から「次に欧州に移籍するサッカー選手は?」「阪神の井川投手はメジャーにいけないのか?」と多種多様。普段は原稿を書くのがメーンの仕事だけに、大人数を相手に話すことが、いかに難しいか。自己採点は赤点デビューだった。


 そういえば、広島で育った選手は、指導者として成功している。小林伸二(C大阪)松田浩(福岡)ら各監督は一線級で活躍中だし、2年前に引退した元日本代表MF森保一氏は、すでにU-18日本代表コーチに就任している。彼らの共通項は、大人数を前に自分の意思を的確に伝えられる力があること。学校の授業で教師に求められる要素と、近いものがある。


 広島は、選手以上に指導者の育成を手がけた組織だった。前身マツダだった日本リーグ時代の87年にオフト監督が就任。そのころから、指導者同士による4、5人のグループ討論会が義務づけられた。選手には根性論ではなく、理論で教えられないといけない。年に数回はコミュニケーションスキル発達を目指し、専門講師を招いていた。


 C大阪で今季、守備を再建させた小林監督から「当時は指導者による1泊2日の研修旅行が、定期的にあった。リポートも書いていたねぇ」と聞いたことがある。例えば選手との接し方では、不調の選手には自分の真正面ではなく横に座らせ、互いに視線を合わさないで会話するのが圧迫感を与えないコツだとも教えられて、自らも経験で悟ったという。


 総監督として当時、対話術の習得を推奨してきた今西和男氏は現在、吉備国際大(岡山)の教授に就任している。伊藤教授には広島在籍時、私を含めた記者育成のために、クラブ組織について講習会を開いてもらったことがある。広島出身ではないが、元日本代表DFの清雲栄純氏は法大教授に、元東京V社長の坂田信久氏は国士大大学院教授になっている。


 理論的で実戦的な結果を残してきた人は、現役を引退したり、Jクラブを退団しても引く手あまたという証拠なのだろう。Jリーガーも引退後は、指導者へと進んでいく。成功するカギは、言葉の伝達をいかにうまく行えるか。過去の実績は関係ない。「話す」という行為は、奥が深い。

May 29, 2005 01:52 PM

2005年05月28日

背伸びはいけない:上野耕太郎

 プロ野球で初の試みとなった交流戦も前半戦が終了しようとしている。日本ハム担当の私は広島でこの原稿を書いている。広島に来ても思うのだが、野球というスポーツ、その接し方が各地で違うものだなあって感じる。


 町の中心部にある広島市民球場はその名の通り、市民が行きやすい球場だなと感じた。スーパーの買い物袋を持った人、制服姿の学生、仕事前に「ちょっと寄ってみました」という感じの飲み屋のママさんたち…。オレンジ色の独特なカクテル光線のなか、ファンが手軽に球場に立ち寄る。生活に密着した姿が見えて、ホッとするような気持ちになった。


 担当だけに、チケットの売り上げも気になるところ。広島の松田オーナーは言っていたそうだ。「新庄選手のおかげで、平日の外野席が2000人のところ、3000人も来てくれたよ」。交流戦だけに、めったに見ることのできない選手が来る。それを見たいと感じるお客さんも詰め掛ける。やっぱり、スターって大切だと思う。


 見てもらう職業に「華がある」という要素は重要で、才能だ。新庄選手を見るため球場に行った飲み屋のママさんが言っていた。「新庄さんを見て、びっくりした。あの体形はテレビじゃ分からない。プラモデルみたい。今日、見て感動したのは実物の新庄さん」と熱く話す。プレーもそうだが、その姿を見て感動するのも「生」で観戦するからこそなんだろう。特に広島の球場はファウルゾーンが狭く、観客席から選手が近い。より選手を身近に感じられることが、テレビにはない臨場感を生む。


 ファンサービスって選手とファンの間をどう縮めるかってことなのかもしれない。


 でも、何でも米国流っていうのは疑問を感じてしまう。メジャー流に臨場感を追求して、フェンスを低くする。一方で危険も生まれる。身を守ることは自己責任とされ、銃を所持することも是とされている国と何でもお役所任せになる国とでは状況も違う。冷や水を掛けるようで申し訳ないが、ファウルボールで事故でも起こると、急ぎ再検討されることになるだろう。ゆっくりと時間をかけて定着させることが必要だと思う。


 「客寄せ」というわけではないが各地のレッサーパンダが立って、注目を浴びている。その先駆けなのだろうか、北海道の登別に「クマ牧場」というテーマパークがある。30年以上前からだそうなのだが、ヒグマが立ってエサをもらう。その姿は愛らしい。ただし、クマ牧場では警笛が鳴る。立つ時間が長いとクマでもヘルニアになってしまうそうで、それを防止するための措置だそうだ。「立ち過ぎ注意」。何事も過ぎるのは良くない。


 身の丈って意識は必要だ。生活と野球が程よい距離にある広島でそう思った。背伸びはいけないんだろうとも感じた。少しずつでもそのコミュニティーに近づいていき、そしてなくてはならない物になる。日本ハムが北海道に移転して2年目。先輩チームと地元のあり方を見ながら「焦らず、ゆっくりと」とその歩みを再確認した。

May 28, 2005 12:25 PM

2005年05月27日

31年間守り通した魂:永井孝昌

 5月18、19日。於日本武道館。


 よみがえった鋼鉄神は、そこにいた。へビーメタル(以下HM)の権化、JUDAS PRIEST(以下JP)がロブ・ハルフォード(ボーカル)を擁するラインアップで復活した、実に14年ぶりの来日公演。はち切れそうな期待感が、会場を覆い尽くしていた。


 暗転。「The HELLION」が流れると場内はメロディをなぞるように大合唱を始める。続く「Electric Eye」でロブが姿を現せば大歓声。「Metal Gods」「Riding on the Wind」でロブが命を削るような叫びを絞り出せば、K.K.ダウニングとグレン・ティプトン、2人のギタリストは発表から29年を経た今も色あせない「The Ripper」のイントロを紡ぎ出して、JPの音楽の深淵へと聴衆を誘っていった。


 74年に英国でデビュー。以来、常にHMとは何か、その答を体現してきた。鋭く硬質なリフとハイトーンボーカル、スタッド&レザーというスタイル、激しい演奏を大音量で繰り広げるライブ。その攻撃性ゆえに社会からもまた攻撃され、生まれては消えていく音楽シーンの流行の中で時代遅れと揶揄(やゆ)され、90年代には少年の自殺事件の原因がJPの曲にある、といわれなき裁判を起こされたりもした。92年にはロブが脱退し、バンドは存続の危機にも直面した。


 そうした苦難にも決して信念を曲げることなく、ロブの復帰で復活を遂げたJP。武道館で見せたライブには、デビューから31年間もの長きに渡り、様式美を守り通してきたバンドにしか表現できない「何か」が漂っていた。あえて言葉にするならば、大切に飾られてきた名刀の軽やかな切れ味ではなく、幾多の戦いで血を流し、実戦を生き抜いてきた刀だけが持つすごみ。武道館を2階席までびっしりと埋め尽くしたあの夜の観客は、汗をぬぐうことすら忘れていたJP入魂の演奏になぜ自分がHMという音楽を愛しているのかを再認識したに違いない。


 ライブは続いていく。今年2月発表の新譜「ANGEL OF RETRIBUTION」からの曲を連続して、再結成がノスタルジーではなく、未来に目を向けたものであることを証明する。終盤にはこの2日間のライブが録音され「RE-UNLEASHED IN THE EAST」として発表される予定であることをアナウンスして「Victim of Changes」「Exciter」と名曲をたたみかける。キャリア31年、50歳を超えてなお屈強なメンバーたちが提示したのは全23曲、2時間超のあまりに強烈なショーだった。


 批判に揺らぐことなく、己を貫いてきた強い信念。ライブを見終わった2日間とも、武道館を背にした帰りの坂道で同じことを考えていた。「不器用な生き方でも、どんなに批判されようと、信念なき人生に価値はない」と。けれど自分は、そう思い続けて生きられるほど強い人間じゃない。


 だからJP、この思いが揺らぐ前にもう1度「必ず日本に帰ってくる」と誓った言葉を実現してほしい。

May 27, 2005 12:06 PM

2005年05月26日

広島の嶋「きっかけ」は55:栗原弘明

 高校3年生だった11年前と、まったく変わっていなかった。アマチュア時代から同じ気性を持ち続けている選手というのは、うれしいものだ。太い腕に、少しポッチャリしたおなか。年齢より落ち着いて見える癒やし系の顔立ちに、屈託のない語り口も変わらない。ただニックネームが「東北の快腕」から「赤ゴジラ」に変わった-広島の嶋重宣外野手(28)だ。


 交流戦の恩恵で、アマ時代に見ていた数多くの選手を、チェックできるのはありがたい。体格の変ぼうやプロ入りした後の成長を直接、感じることができる。嶋も同じだ。広島-ロッテ3連戦で、ゆっくり話をする時間を持つことができた。95年春、宮城・東北高校の卒業式後に一緒に立ち寄ったラーメン店以来だろうか。広島県にある福山市民球場の通路のパイプいすに、どっかり腰を下ろしている嶋を発見した。「久しぶりですねえ。変わらない? 当然ですよ」と、彼は人懐こい笑みを浮かべた。


 ドラフトの目玉投手として入団した。なかなか活躍することが出来ず、その後、打者に転向。あれほど投手にこだわると言っていたのに「そんなこともありましたねえ」と笑っていた。毎年、オフには戦力外通告されるのではないかと心配していたほどだった。が、背番号を55番に変えてから昨年、突然ブレイク。首位打者まで獲得した。


 -出来るんなら、もっと早く頑張ったら良かったのに。


 嶋「自信はずっとありましたよ。1軍でやっても結果を残せるという。練習は本当に、必死にやってきましたからね。だけど、自分の持っているバッティングの基本というか、それを変えたくなかったので、時間がかかっちゃった」。


 -背番号はヤンキース松井秀喜の「55」を意識したの?


 嶋「あんまり関係ないですね。まあ、「赤ゴジラ」でいろいろ取り上げてもらったので、ありがたかったですけれど。本当は、背番号は変わったんじゃなくて、変えられたんです。まず、自分の背番号を新人に譲ってくれと球団から言われたもので。ああ、いいですよ、と答えました。悔しかった? 当然です。それでゾロ目が好きだったのと、有名な占い師の方に『5』がいいとアドバイスされたので、55となりました。本当にその通りに活躍できたので、うれしかったですね」。


 プロ野球で、10年選手が突如ブレイクするというのは珍しいことだ。野球でも、人生でも、根本的には変わっていないのに、少しのきっかけで、結果が変わってしまうことがある。それを証明した彼の言葉を、不思議な気持ちで聞いていた。


 ロッテ3連戦で、嶋は1安打1打点に終わった。「本当にロッテはピッチャーがいい。強いチームですよ」と悔しそうに話していた。昨年のタイトルホルダーも、同じように数字を残し続けるのは簡単なことではないだろう。だが、せっかくの「きっかけ」を手にしたのだ。それを大切にして活躍を続けて欲しいと思う。

May 26, 2005 01:12 PM

2005年05月25日

アナウンサー 目が命:中山知子

 日本テレビの福沢朗アナウンサー(41)が6月30日付で日テレを退社し、フリーアナウンサーとして独立することを発表した。「ズームイン!朝!」「高校生クイズ」など、日本テレビの人気番組を担当し、日テレの「顔」的な存在だ。


 4年前、福沢さんにインタビューをした。アナウンサーとして、バラエティー番組や情報番組の司会者として、早口で、立て板に水のごとくしゃべる人、というイメージを持って取材に出かけた。


 早朝、3時間の生番組を終えてインタビューの場所に現れた福沢さんは、こちらが勝手に想像していた早口でもなく、おしゃべりでもなく、穏やかに話す人だった。顔を見て、目についたのは目だ。真っ赤に充血していた。当時、ニューヨークの9・11同時多発テロが起きて間もないころだったため、連日の長丁場に、疲れているのだな、と勝手に解釈した。でも福沢さんの説明は違った。


 「ニュースを読む時は、ずっと原稿を目で追う。『目を使う』んです。今の番組では読む原稿の量が多いから、どうしても目に力が入ってしまうんです」。


 事前に用意された原稿は、新しいニュースが入ってくるたびに次々に差し替えられる。読む直前に差し替えということもある。覚えていた内容から頭を切り替えて対応しなくてはならない。声に出して読むと同時に、原稿の文字を目で追いながら下読みすると、目に力が入る、と教えてくれた。


 よほどのハイビジョンのアップでないかぎり、目の充血までは、ブラウン管を通じて視聴者には見えない。でも刻々と状況が変わるニュース現場で、原稿をさばき続けるアナウンサーの「職業病」だったのだ。アナウンサーは「声が命」だが、目も大事な商売道具だった。


 想像以上に、体力勝負でもあった。司会者が立ったまま進行するニュースやワイドショーは最近増えたが、当時の「ズームイン SUPPER」では福沢さんも3時間立ちづくめだった。足のむくみ対策で、サイズが緩めの靴を履いていても、忙しい日は番組が終わるころには足がぱんぱんに張った。夜が明けぬうちに出社し、番組が終わっても仕事が続く。番組を仕切るプレッシャーも加わる。「ストレスは倍、気合は3倍、でもお給料は一緒です」「1日の過ごし方は、会社で働くか、家で寝ている。だから携帯電話も必要ないんです」。まるで「修行談」を聞いている気分になった。


 アナウンサーという職業が、実はとても厳しい職場環境にあることを、福沢さんは体をもって見せてくれた。独立してフリーになれば、置かれた立場も仕事の中身もサラリーマン時代とは変わるし、緊張感も違うだろうが、これからも、一寸先が見えないニュースの現場に身を置き続けることには変わりがない。


 「人生の第2ステップ」で今までと同じ職業を選べる環境にあることは、ある意味、うらやましい。プレッシャーや「目を真っ赤にする」ストレスがあったとしても、それでも選択するのは、やっぱり今の仕事が好きだからなのだろう。

May 25, 2005 11:07 AM

2005年05月24日

そこに愛はあるのか:盧載鎭

 磐田MF藤田俊哉(33)の浦和への移籍問題が浮上して1カ月がたった。移籍に向けて両クラブ間で少しずつ前進はしているものの、いまだ決着はついていない。藤田の立場は「宙に浮いた」状況なのである。


 移籍を表明しながら、1カ月も磐田のために黙々と戦うベテラン。気を使う後輩たちに「オレ個人の問題なのに、ゴメンね」と気配りも忘れない。仲間からの信頼も厚く、そんな貴重な財産を磐田側も簡単に放出するわけにはいかないだろう。


 しかし移籍交渉のスタンスにはかなりの問題がある。浦和から最初の移籍金提示を受けた翌日、執行役員を兼任する山本昌邦監督は報道陣の前で「提示した金額が低すぎる。僕たちはのんびり。焦ることはない。あんな低い評価で、藤田本人がかわいそう」と力説した。


 常々「説得して残したい」と言いながら、言い換えれば「もっと金を積めば出す」とも取れる発言だ。磐田は「のんびり」の構えかもしれないが、藤田本人がその「のんびり」の期間中に、どれだけ大変な思いをしているのかを考えれば、言ってはいけない発言である。藤田を「かわいそう」な立場に追い込んだのはどっちなのか。


 当たり前の話だが、浦和は安く買いたい。磐田は高く売りたい。交渉事はお互いに条件を提示して、譲歩する部分は譲り、歩み寄らないと成立しない。同監督の「金額が低すぎる」の発言は、交渉相手の浦和にまず伝えるのが筋だろう。マスコミから磐田の考えを伝え聞いた浦和の心境は考えたのか。


 日本代表がペルーと戦った日、藤田は磐田のACL消化試合などのためベトナムへ出発した。移籍問題が早期決着して代表復帰を目指したい気持ちは当然あるはず。しかし、本人は両クラブに迷惑が掛かると思ったのか、重い口を開かない。このままずるずると時期を延ばされれば、移籍したとしても浦和FW永井とのポジション争いに勝てる保証はない。


 浦和の犬飼社長は「磐田はサポーターへの配慮もしているようだ」と言う。藤田との別れを惜しむファンに「クラブとしてはベトナムまで連れて行って必死に引き留めたのですが、本人の移籍したい意思があまりにも強すぎて残念ながら移籍させることになりました」とでも言いたいのか。それで示しがつくのか。


 プロのサッカー選手は、個人事業主であり、クラブと比較して弱い立場である。クラブが選手を保護する義務はないが、お互いの信頼がないと両者の関係はうまく機能しない。しかも日本は、徹底した契約社会の欧州とは微妙に違い、人情を重んじる独特の文化がある。


 「そこに愛はあるのか」。愛が必要ないのなら、契約書を盾に浦和からのオファーを蹴ればいい。中途半端な対応で、せっかくの代表戦士を悩ますことは、両クラブ、選手、日本代表にとっても望ましくない。

May 24, 2005 10:44 AM

2005年05月23日

映画界の風雲児健在:松田秀彦

 映画の世界にはこういう人物が必要なのかも知れない。かつて「映画界の風雲児」と呼ばれた角川書店元社長の角川春樹氏(63)。現在、プロデューサーとして大作映画「YAMATO 男たちの大和」を製作している。広島・尾道市内に原寸大の戦艦大和を“再現”した巨大セットを建設した。現場に足を運んでみるとその大きさに驚いた。撮影の主舞台になるなら“本物”を作ってしまう試みは予算と時間が許すなら正しい発想だと思う。これまで取材してきた俳優たちはみな、衣装やセットが演技に及ぼす影響の大きさを口にしていた。事実、美術費と呼ばれるセット予算が製作費の多くを占める作品は多い。名演技を引き出すための大切な要素なのだ。


 とはいえ、8億円もかけて巨大セットを作る春樹氏の豪快さはけた外れと言っていい。主要キャストの撮影が終わっているにもかかわらず「格好がつかない」と、船首部分を2億円かけて継ぎ足した。周囲のスタッフが置いてきぼりにされそうな勢いだ。しかもこれが、麻薬取締法違反で懲役4年の服役を終えた直後の復帰作というから、その活力には驚かされる。


 記者たちを前にした発言も、この人らしかった。主題歌を歌う歌手の長渕剛が現場に招かれた。こうした状況で、普通のプロデューサーは、いかに長渕がこの作品にふさわしい歌手なのか懸命に訴える。


 ところが、この人は違った。「最初は中島みゆきにお願いした。そしたら断られた」と、ぶっちゃけた。思わぬ舞台裏の暴露に長渕も苦笑するしかなかった。本音をさらけ出して、メディアを引き付ける術(すべ)を持っている。さらに「刑務所にいた時、NHKの『プロジェクトX』ばかり見させられて(中島みゆきが歌う)主題歌が耳に残りまして」と服役生活のエピソードまで披露した。最後に「観客1000万人を動員する」と豪語。この人の勢いは、もうだれも止められない。


 角川書店時代、映画の製作規模はもちろん、大量の予算をつぎ込み、常識を超えるスケールの宣伝キャンペーンを得意とした。ワンマンで徹底したトップダウン方式に振り回されるスタッフも多かったが、結果的にヒットさせるカリスマ的手腕の持ち主だった。


 思えば、豪快なプロデューサーはみんないなくなった。映画予算が、どんぶり勘定だった時代が終わったことも背景にあるが、取材する身として少し寂しい。鶴田浩二、高倉健の任侠(にんきょう)映画シリーズや、「仁義なき戦い」などを製作した俊藤浩滋さん(享年84)は、撮影で警察官からピストルを借りてしまうような大胆な発想の持ち主だった。豪放磊落(らいらく)な性格は東映のスターたちに親しまれた。徳間書店の徳間康快社長(享年78)は、宮崎駿監督に「金はいくらかかってもいいから、納得のいくものを作って」と、自分の会社の経営危機をよそに、巨額の製作費を提供。金は出すが作品内容には一切口を出さず、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」など宮崎監督の才能を引き出した。


 春樹氏は、黒沢明監督の名作「用心棒」「椿三十郎」のリメーク(再映画化)権を3億円で取得した。不朽の名作を相手にした大胆な挑戦だ。


 こういう人物が映画界にいると、取材者として興奮する。そのエネルギーは映画界全体に伝わっていくはずだ。

May 23, 2005 02:29 PM

2005年05月22日

3歳からイチ流だった:鹿野芳博

 「夢」


 ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。


 ぼくは3才の時から練習を始めています。3才~7才までは、半年位やっていましたが、3年生の時から今までは、365日中、360日は、激しい練習をやっています。だから1週間中、友達と遊べる時間は、5~6時間の間です。そんなに、練習をやっているんだから、必ずプロ野球の選手になれると思います。


 そして、中学、高校で活躍して高校を卒業してからプロに入団するつもりです。そしてその球団は、中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、1億円以上が目標です。


 ぼくが自信のあるのは投手と打げきです。去年の夏ぼくたちは、全国大会へいきました。そしてほとんどの投手を見てきましたが、自分が大会ナンバー1投手とかくしんできるほどです。


 打げきでは県大会、4試合のうちに、ホームランを3本打ちました。そして、全体を通した打りつは5割8分3りんでした。このように、自分でもなっとくのいくせいせきでした。そして、ぼくたちは、一年間まけ知らずで野球ができました。だからこの、ちょうしで、これからもがんばります。


 そしてぼくが一流の選手になって試合にでれるようになったら、お世話になった人に、招待券をくばって、おうえんしてもらうのも夢の1つです。とにかく一番大きな夢はプロ野球選手になることです。


 豊山小(とよやましょう)6年2組、鈴木一朗


 マリナーズ・イチロー外野手(31)が小学6年生のとき書いた作文だ。「夢」というタイトルでありながら、夢を実現するという強い信念がうかがえる。毎日続けた厳しい練習が、その裏づけとなっているのだろう。プロ野球選手になる自信すら感じられる。


 先日、著書「夢をつかむ イチロー262のメッセージ」(ぴあ発行)が話題になった。女子ゴルフの宮里藍(19)がこの本を読んでいることを明かしたためだ。


 15日、宮里はヴァーナルレディースで今季初勝利を飾った。最終日前夜、宮里はこの本を読み返したという。その中に「実力差を見せつける時は、見せつけろ」というイチローのメッセージがあったのだという。宮里はこの言葉を胸に、大会記録を7打も更新し、2位に8打差で優勝した。


  「262」はイチローが昨年達成した米大リーグ新記録の安打数と同じ数となっている。小学生の時に、こんな作文を書いていた少年が世界一の記録を作る打者になって、何を語っているのだろう。


 この本を購入するため都内の書店を7店回ったが、どの店でも売り切れと言われた。


 天才少女が天才打者に共感した本を、読みたくて仕方なくなった。

May 22, 2005 12:37 PM

2005年05月21日

変則投球禁止徐々に:飯島智則

 横浜三浦、楽天岩隈、中日落合、阪神安藤…。彼らは来季からフォームの変更を余儀なくされる。実行委員会では来季から投球の際に足を2度上げる、いわゆる「2段モーション」を禁止すると承認した。


 ルールが変わったわけではない。野球規則の8・01(a)の「打者への投球に関連する動作を起こしたならば、中途で止めたり、変更したりしないで、その投球を完了しなければならない」は以前から同じ。今回は、あくまで「ルール通りに」と確認したわけだ。


 先駆者の三浦がこの珍しいフォームに改造する際、コーチが審判のところに行って認められるかどうか確認。一連の動作として認めるという見解を得て始めた。三浦は2段モーションでエースとなった。


 三浦は言う。「詳しい話を聞いていないので何とも言えません。でも報道で知る限り疑問は残る。ルールが変わったのならば分かるけど、同じルールのままで以前は認められたことがダメになるものか」。


 丸山博規則委員は「突き詰めて言えば、過去に認めたことが間違いだったと思う」と言う。三浦が2段モーションを始めたとき、ルール研究会などでは「あれは認められない」との意見が大勢を占めていたという。しかし結局は「2度上げたり1度で投げたり、その都度変えてはいけない」という注釈付きで認めた。


 三浦は2段モーションを始めてから12年目を迎えた。なぜ今、解釈が変わるのか。実行委員会では「国内外から疑問の声が上がっていた。国際化に対応するため来季から規則通りとする」と説明した。今秋のアジアシリーズ、来春予定のワールド・ベースボール・クラシックと国際大会が続く。


 アマ側からの要望も強かった。プロで許可されているため、アマでもマネする投手が増えた。好ましい傾向ではないという認識。3月に巨人清武代表らが日本高等学校野球連盟(高野連)と会談した際に強く要望され、これが契機となり実行委員会の議題に上った。私は国際化より、こちらの影響が強かったとみている。


 2段モーションが規則違反か否かは別問題として、公に長期間、認めてきた事実を無視はできない。来年から禁止となれば、三浦は10年以上かけて培ってきたフォームを、わずか半年のオフで大幅に直さなければならない。三浦に限らず、多くの投手の選手生命にかかわる恐れがある。


 84年に耳付きヘルメットの着用義務が明文化された際、対象は74年以降の入団者に限定され、なおかつ前83年に耳付きを着用していなかった選手は「この限りではない」という条文が加えられた。つまり耳付きだとプレーしにくいという選手に考慮して選択の余地を残した。古い話だが、1920年に大リーグでスピットボール(だ液をボールにつけて変化させる)が禁止になった際も、それまで投げていた投手に限り認められた。ともに、何年か後に特例者はいなくなる。いわば緩やかな変革である。


 一部の人だけ認められる形は、いびつだろう。しかし、過去の経緯が引き起こした結果だと認識する必要がある。無理やり形を整えるばかりが正しい方法ではない。

May 21, 2005 12:52 PM

2005年05月20日

騎手の本音 聞きたい:高木一成

 3歳世代NO・1を決めるダービーの日が迫ってきた。もちろん注目は皐月賞馬ディープインパクトがどんな走りを見せるか。皐月賞の時にはテレビのニュースにもなった。きっと来週の栗東トレーニングセンターは、いつも以上に多くの取材陣が集まるのだろう。


 本番はもちろん楽しみだが、その前に注目しているイベントがある。ダービー1週前のオークスの日(22日)に、午後5時から東京競馬場のパドックで行われる「ダービーウィーク開幕祭」だ。ダービーに騎乗する騎手数人が本番への思いを語ることになっている。


 実は昨年まではダービー週の月曜日に「ダービーフェスティバル」というイベントが、都内の会場を借りて行われていた。だが年末の「有馬記念フェスティバル」とともに、今年から廃止になった。


 理由は、コストが高くつく、リピーターが多く新規ファン開拓につながりにくい、騎手側が参加に消極的など。「数あるG1の中でもダービーと有馬記念だけは特別」と感じさせるイベントでもあっただけに、最初に中止を聞いたときは少し寂しい気がしていた。


 だが新たに行われる「開幕祭」は、競馬場に足を運んだファンにとっては、会場でやっていたときよりも近い位置で騎手の顔を見て、話を聞ける利点がある。騎手にとっても、基本的に唯一の休みである月曜日をつぶさなくていい分、出席しやすいメリットがある。ショーアップしすぎた感のあったフェスティバルよりも「騎手が主役」の催しとしては、今回の方がシンプルでいいかもしれない。


 競輪では大きなレースの際は、昼のレースの合間に決勝戦のメンバーがバンクに出てきてあいさつするパフォーマンスが慣例。騎乗数の多い競馬で同じことは難しいが、レース後でも、騎手の生の声を聞ける場があるのはファンにとっては楽しみなはずだ。


 せっかくだから期待したいのが、騎手には本音で話してほしい、もしくはオリジナリティーのあることを話してほしいということ。勝負師として「戦法は明かせない」というのも分かる。でも通り一遍の「頑張ります」ばかりでは飽きられる。


 勝ち負けにかかわらなくても、騎乗馬との思い出とか、プライベートのこととか…。マスコミとして困る面もあるが、紙面で読めないような話が出てこそ、来てくれたファンも満足すると思う。


 もっと言えば、思い切って騎手の3連単予想なんてのもファンは興味あるんじゃないか。もちろん「公正競馬」は第一。関係者の予想行為を禁止しているJRAとしては認められないだろうが、今の時代、騎手がそう言ったからって、その通り人為的な結果が出せるなんて思っているファンはいないだろう。


 そういえば、この前の国会の集中審議で小泉首相が何を聞かれても「適切に判断します」とだけ答えて終わりにしていた。それじゃわざわざ出てきてまで話す意味がない。


 話はズレたけど、「ダービーの日もまた競馬場に来たい」と思わせるジョッキーの話術に期待したい。

May 20, 2005 11:28 AM

2005年05月19日

若手登場が再建の鍵:横田和幸

 全日本女子プロレスが4月をもって解散した。日本最古の女子団体で、37年間の歴史があった。旗揚げの68年といえば、私が生まれた年で同級生のような親近感があった。解散原因は30億円という負債だった。


 中年男性なら女子プロレスに、自らの青春を重なり合わせる人が多い。70年代はビューティ・ペアが、リングだけでなく、歌手としてテレビ番組で人気を誇ったし、80年代はクラッシュギャルズが続いた。


 本屋では人気レスラーの写真集が並ぶ。健康的で、時には(セミ)ヌードといった刺激的なカットで、世間の男はとりこになった。


 記者が取材活動する大阪で唯一、その栄光の歴史を語れる人がいる。大阪プロレスで現在、営業など全般を任されたゼネラルマネジャーの白鳥(しらとり)智香子さん(31)だ。16歳だった91年3月に全女に入門し、吉本女子を経て、01年に現役を引退。女子最後の黄金時代となった90年代前半を駆け抜けてきた。


 個人的な意見で申し訳ない。白鳥さんは歴代の女子レスラーの中で最も美しい選手だった。リングネームのように、白鳥(はくちょう)のように白い肌でリングを舞う。モデルのような線の細い体でアジャ・コング、豊田真奈美らと団体を支えた。「孤高のヴィーナス」で歌手デビュー。写真集は3冊発売、テレビドラマにも出演した。


 その全女OGで伝説のアイドルに先日、女子プロ再建論を尋ねた。


 「団体が乱立したこともあるんですが、いつまでもベテランのレスラーが現役を続けていては、新しい選手が出てこられない。新陳代謝が必要です。若くてかわいいレスラーを発掘、育成しなければお客さんは戻ってきません」。


 この答えにムッ、とする大御所がいるかもしれないが「東京だとしがらみがあるけど、大阪なので大丈夫」とニコリ。


 白鳥さんの全女時代は「3禁=男・酒・たばこは厳禁」という戒律があった。ファンの幻想を破ることは許されなかった。1つでも破れば、会社から退団を迫られる。今では消滅した25歳定年制の規則もあり、必然的に厳選された芸能界並みのアイドルが育った。


 白鳥さんの元には当時、ファンから婚姻届を同封されて「僕と結婚して下さい」という手紙が届いたという。


 これらの3禁や定年制度が現代にマッチするかは分からない。しかし、偉大なるOGの意見に耳を傾けることは大切だ。白鳥さんは今、大阪プロの選手をメディアやイベントに売り込む仕事もしている。自らが味わった黄金時代を、彼らにも体験させてあげたいと願っている。


 私は無理は承知で「白鳥さんっ、現役復帰ないですか?」と聞いてみた。


 「ありません。世代交代を主張する私が復帰すれば、さっきの話はウソになりますからね」。大人になった白鳥さんの笑顔は天使のようだった。


 こんなレスラーが次々とデビューすればなぁ。取材後は、思わずため息が出た。

May 19, 2005 11:58 AM

2005年05月18日

道民の願い、札幌復活:上野耕太郎

 北海道のプロスポーツの先駆けでもあるコンサドーレ札幌に激震が走った。9日のことだ。運営する北海道フットボールクラブ(HFC)の取締役総務部長(46)が児童買春禁止法違反の疑いで札幌・中央署に逮捕された。1月にテレホンクラブで知り合った札幌市内の当時14歳と13歳の中学2年の女子生徒をホテルに連れ込み、現金1万円ずつを渡してわいせつな行為をしたという。


 ショックだった。97年、私はコンサドーレ札幌の担当だった。この総務部長は当時、サポーターの代表格で何度も取材した。03年6月にHFCに入社し、元銀行マンとして辣腕(らつわん)を振るっていた。経営が厳しいチーム再建のキーマンでもあった。


 事件が発覚した9日、私は現在担当する日本ハムの試合がなく休日だった。会社に忘れ物を取りに行くと編集部が何やら騒がしい。事件を知った。担当が出張中のため急きょ、謝罪会見に向かうことになった。会見に頭を丸めて臨んだ石水会長は「入社してくれないかと頼んだのは私、最も信頼していた。裏切られたというか、悔しい」と涙ながらに陳謝した。


 チームはここ数年、低迷している。昨年8月、当時20歳の選手が酒気帯び運転で交通事故を起こして現行犯逮捕され、解雇された。不祥事が続く。今回の事件後、石水会長も引責辞任し、教育関係の企業はスポンサーを降りた。


 本当にどん底の時だろう。


 私事だが、ちょっと思い出したことがある。数年前、仕事がうまくいかず、元妻からも愛想を尽かされた。食器を洗えば厚い皿が割れ、右手の親指が裂けた。病院で5針縫った後、通院に使った自転車が盗まれていた。踏んだり蹴ったりの1日だった。そんなとき「ここが最低。これ以上悪くなることはないよな」と思った。


 97年にコンサドーレを担当したときは勝ち続け、J1に昇格した。札幌市内をパレードした。ビールかけで祝勝した。北海道が沸いた。サッカーの楽しさ、プロスポーツの醍醐味(だいごみ)を北海道にもたらしてくれた。03年にJ2に転落し、昨年は最下位に低迷した。不祥事も続く。経営難もある。外国人を獲得せず、若手の大胆な起用で苦境をしのいでいる。必死にもがいている。


 ただ、もしチームが北海道に来ていなかったら…。札幌ドームもなく、もしかすると日本ハムの移転もなかったかもしれない。一部の若手経済人が誘致し、大きな運動となった。コンサドーレ札幌の移転は反対意見が多かったと聞く。プロスポーツの先駆けとして、切り開いてきた。その功績も大きい。


 事件についての是非は問わなければならない。ただし、ピーク時に比べ、少なくなったかもしれないが、必死に応援する「本物のサポーター」もいる。私も北海道に住む1人として、そのV字形の復活劇を期待したい。逆境をはねのけるチームの姿に自分を重ね合わせたいのだ。

May 18, 2005 10:50 AM

2005年05月17日

汚点だらけの日々:永井孝昌

 やせたいやせたぁい、と言っている人に限ってやせている、と言うのは太った人の虚言妄想と気付くのも遅過ぎて、先日病院で受けた健康診断の結果には「問題なし」を示す○のマークはまるでなく、アナタノカラダハフトリスギ、ハヤクヤセナキャシンジャイマス、とまで宣告(sentence)されなかったのはいいがDだEだと体操なら金メダルも夢じゃない判定の連発に慌てて摂生し始めたわけだが、そんな時に出張が回ってくるとなかなかつらいものがあり、例えば最近は大分に出張したが、街を歩けばやれ関サバだ関アジだ、何をおっしゃる今は城下カレイが旬なのよ、ちょっと待ってよ鶏の天ぷら忘れないでね、とあまたの誘惑が目に耳に飛び込んできて、摂生なんて言ってはいてもここまで自分を肥えさせた過剰な食欲と好奇心には勝てるはずもなく、フラリと寄った土産物店でカボスジュースの「かぼすちゃん」だの「関のさば寿し」だのを買い込んで、おいしいおいしいと食べてから「あぁ、なんてオレは意志が弱いんだ」と何万回思ったことか、2キロは落としたこれまでの努力は一瞬にして吹き飛んで、さぁて少しは反省しなきゃ、と思ったのもつかの間、なぜか「こりゃ食べずにはいられない」ってものを見つけちゃうのが不摂生者たるゆえん、思わず立ち止まったのが「ぷりんどら」なる豪快なのぼりで、こんな目立つものどうして今まで気付かなかった、なんだこれはとのぞきこめばまさにそのもの、どら焼きの生地の間にドスンとプリンがはさんであるだけの代物なのだが、こりゃどう考えてもマズいだろ、と笑う自分と、いやいやこれはイチゴ大福、アイスの天ぷらに匹敵する甘味革命かもしれない、と訳も分からず興奮する自分が心の中で大乱闘を繰り広げ、気が付けばサイフ開いて「1個だけください」と腹をへこませ背を丸め、小さい声で口にしている情けない自分がいたりするのだが、買ったもんは仕方ないでしょどれどれ味見してやろう、と思うころには周りの目もすっかり気にならなくなっており、パクリ、とほお張ればこれがまた、ここでは書けない味だったりするのが土産物の怖いところ、大分に行くことがあればぜひお試しを、口に合わなくても怒らないでね、とお茶を濁すのも意志の弱さだったりするわけで、結局、さあ水を飲めリンゴ食え、それでもダメならファスティングと手を替え品を替え延々と続くダイエットブームなんてものは自分のように意志の弱い人間が世の中にいかに多いか、ということを示しているだけで、究極のダイエットは「もっと意志を強く持て」という精神修行に行き着くわけだが、それでも健康のためにと我慢したばかりに「せめてぷりんどらが一口、食べたかった…」と言い残してあの世へ行ったら格好悪いことこの上ない、と言い訳している自分はトドのように、もとい、トドのつまり、ダイエットにはエンがなく、やせる自信はマルでなく、不摂生生活にピリオドを打つこともなく今年の夏もマルマル肥えて、こんな文(Sentence)を書いているうちは次の健康診断にもきっと○なんてどこにもない、ってことだよなぁ…。

May 17, 2005 12:29 PM

2005年05月16日

ジョニーからの伝言:栗原弘明

 ロッテのジョニーは、元気です。


 チームは貯金2ケタと開幕から1カ月以上たっても、大崩れしない。最大の要因は投手陣が安定していること。特に先発陣は清水、渡辺俊、小林宏、セラフィニ、小野、ルーキーの久保…というように他球団もうらやむ豊富さだ。あまりの充実ぶりに、出番がなくて登録抹消される投手が出るほどだ。


 4日には1軍で登板間隔のあいたベテラン小宮山が、イースタン(2軍)の試合に先発。デーゲームの2軍戦に出場してからナイターの1軍戦に臨むことは珍しくないが、4日はともにデーゲームだった。小宮山は1軍の試合にベンチ入り登録しながら、2軍戦で登板。投手陣の余裕を象徴する異例の出来事だった。


 その翌日の5日、イースタン湘南戦を見るために、ロッテ浦和球場に向かった。こどもの日ということもあって、球場は満員。試合前に目をグラウンド横のブルペンに向けると、大きな人垣ができていた。


 その中で、黒木知宏投手が入念に肩を作っていた。先発マウンドに上がると、ひときわ大きな歓声が起こった。直球の最速は140キロ。最近の右腕投手にはあまり見られない大きなカーブとのコンビネーションで、打ち取っていった。7回79球を投げて4安打無失点、2奪三振、四球1。やはり、巧みなピッチングだった。


 黒木「小宮山さんから『焦るなよ』って声を掛けられたんですよ。でも『楽しくやってますよ』と言った。ユニホームを着て先発できるというのは幸せ。本当に、投げられることが、楽しい」。


 そう言って、笑顔を見せた。昨年10月に右ひじを手術。年末にネットピッチを開始した。1歩、1歩、階段を上ってきた。


 黒木「もう違和感はない。でも痛みというものとは、うまく付き合っていかないといけない。痛みが出る時があるとすれば、それがいける痛みなのか、ダメな痛みなのか。対話しながらやっていかないといけないですね。今、調子が上がって来てるのは間違いない。100球を問題なく投げていければ。あと2、3試合かな」。


 好調なチームと2軍から復活にかけるジョニー。スポットライトがあたっている1軍昇格への思いは、どうなのだろうか。


 黒木「チームが苦しくなった時、必要とされる準備をしておきたい。ピッチャーというものはね、100球投げて、自分の思い描くボールのライン、軌道が100球の中にまったくないとへこむんですよ。100球の中に1球でも、それがあれば。今、そういうボールが増えて来ているから楽しみです。肩が完全にできてきて、体を強くして…。理想の軌道が出てくれば…。その時、黒木のボールが行くと思う」。


 盛り上がった背中。後ろから見た背番号54番は、力強かった。31歳。ベテランと呼ばれるにはまだ早い。ジョニーの力が必要になる時は、必ずやってくるだろう。

May 16, 2005 11:10 AM

2005年05月15日

胸痛む家族の苦しみ:中山知子

 イラクで、英国の警備会社に所属する斎藤昭彦さんが武装勢力に襲われ、拘束されていることが分かった。ただ、どんな状況にあるのか、まだ詳しい情報は分からない。


 斎藤さんの事件が起きるまでに5度、イラクで日本人が被害に遭っている。イラクに行った事情や背景や立場は、それぞれで違う。そんな事件が繰り返されるたびに、取材をしていてつらく思うのは、情報が分からずに時間だけが過ぎる中で、自分たちに何かできないか、とただ待ち続ける残された家族の話を聞く時だ。


 昨年春、女性ボランティアら3人が武装勢力に拉致された時、家族は当初、政府に自衛隊の一時撤退を求めた。「(政府と私たちとは)温度差がありすぎる」「お話にならない」。原点は自分の家族を救いたいという一点なのだろうが、焦る思いでの発言が、エキセントリックだ、と批判されたこともあった。中傷も受けた。「正直に言って、私たちでは国は動かせない」と、ぶつけどころがない声も聞いた。


 拘束が分かって解放されるまでの1週間、心労から倒れる人もいた。「何が何でも助けてほしい」というストレートな感情は、進展のない中でやがて口を重くさせた。追いつめられている様子が分かった。解放の一報がもたらされた時、ちょうど家族は会見を開いていた。言いたいことも言わず抑えていた感情から、喜びの歓声はまるで悲鳴のように聞こえた。


 言葉にできない気持ちを感じたこともある。03年11月に銃撃され命を落とした奥克彦大使、井ノ上正盛1等書記官の葬儀でのことだ。外交官として、国が決めた方針を現場で動かしている中の惨事だった。


 弔辞を読んだ小泉首相は「ご家族の誇りであると同時に日本国民の誇り」と、祭壇の遺影に語りかけた。祭壇の横には、2人の家族がいた。その後、参列者にあいさつを続ける家族の姿を見た。参列を終えた1人1人に頭を下げていた。涙を隠そうとしない人、必死につらさを押し殺した表情の人、悲しみのあまりに淡々とした表情の人…。両外交官の家族はいろんな思いがあったとしても、立場上、簡単に声を上げたり、悲しんだりすることはできなかっただろうと思う。その分、感情が押し込められていたように思えて、気分が重くなった。


 今、斎藤さんの弟は毎日、記者会見を開き心境を記者に説明している。兄とは10年以上音信がないと話していたが、会見で説明する前に、まず自分が今何が起きているか一番知りたいはずだろうが、気丈に振る舞う姿をみると、さらにこちらも胸が痛む。


 何もかも、日本とは制度も形も違う国で起きる考えられない事態だ。日本で待ち続ける家族には、何かしたくてもどうしようもできない歯がゆい思いばかりだろう。家族たちの心に残る痛みは、簡単に消すことはできないだろうと思う。

May 15, 2005 01:42 PM

2005年05月14日

俊輔のもう1つの敵:盧載鎭

 日本代表の司令塔・中村俊輔(26=レジーナ)。実は一時期、6月のW杯アジア最終予選のアウエー2連戦(3日のバーレーンと8日の北朝鮮)の出場が危ぶまれていた。過去にも、同様の負傷で3カ月以上も苦しんだことがある。当然、本人も相当悩んでいた。


 両股(こ)関節痛である。スポーツヘルニアとも言われるが、無理すれば足の付け根が痛み出す。神経を針で刺すような痛みで、とてもサッカーができる状態ではなくなる。


 横浜時代の01年、初めて痛みが走った。00年JリーグMVPを獲得した翌年。当然、チームでは欠かせない存在となり、代表にも徐々に定着していた。恵まれた身体ではない。常に極限の状態まで引き上げて勝負するしかない中村の体が、SOS信号を発信したのである。


 3カ月間、何もできなかった。上半身強化を図り、腹筋を鍛えようとしても足の付け根が痛み出す。焦る。やっとつかんだ代表の座が…。不安な気持ちを抑えるため、生まれて初めて横浜市内のお寺を訪れた。初めての座禅。ピッチに戻れるなら…。それほど、切実な思いだったのだ。


 昨年中村は、ジーコジャパンで欠かせない選手として存在感を示した。中田英寿のいないアジア杯、W杯1次予選では軸としてチームを引っ張った。今年はレジーナでも実績を残し、W杯最終予選などで厳しい日程を送った。所属チームのセリエA残留がほぼ決まり、残るは、最終予選2試合の戦い方さえ間違えなければ、W杯に出場できるところまできている。


 「結構ヤバいかも。かなりきてるね」。


 4年前の悪夢が再びよみがえる。3月30日のバーレーン戦が終わってイタリアに戻った後、忘れかけていたあの痛みが襲ってきた。不安が募る。いろんな思いが頭をよぎる。最悪の場合、バーレーン戦、北朝鮮戦はあきらめることになるかも。代表で、今のポジションにたどり着くため、必死で戦ってきたのに。一瞬にして水の泡になるかも。


 何としてもW杯予選は出たい。状態が同じなら、過去の経験から逆算すれば、徐々に調子が戻ってくるのは7月からとなる。それではアウエー2連戦には間に合わない。間に合ったとしても、調整不足は否めない。試合勘が戻るかも不安だし、いつものメンバーといっても連係の再確認なしで本番に臨むのは危険すぎる。


 油断はできないが、幸い4年前ほど深刻な状況ではなかった。痛みが引くたびに、声が明るくなる。今まで地道な努力で定着したトップ下のポジションを、ケガのせいで他の選手に明け渡すつもりはない。W杯の経験がないだけに、自らの力で日本をW杯へ導きたい気持ちは強い。


 運命の2連戦まで1カ月を切った。負傷の恐怖とも戦う日本のファンタジスタ。


 ピッチの中央で雄たけびを上げる瞬間を見届けたい。

May 14, 2005 11:35 AM

2005年05月13日

「継続」は素敵なこと:松田秀彦

 「継続は力なりです」。3人組ロックバンドTHE ALFEEの高見沢俊彦(51)の言葉には十分に説得力があった。メンバー3人は11日、8月下旬に行う野外ライブの発表会を都内で行った。今年でデビューから31年。キャリアは日本でもトップクラスだ。どんなに人気を獲得しても、10年足らずの活動で、解散を迎えるバンドも多い。そんな中、31年という歳月は、驚異的といえる。


 高見沢は「メンバー同士で火花散らすようにもめるなんてこと1回もなかったなあ」と、涼しい顔で振り返った。その余裕ぶりが、逆にメンバー同士の結び付きの強さを感じさせた。長く続けてこられた理由を聞いても「どうなんでしょうかね(笑い)」と素っ気ない。3人で活動していることがごく当たり前のことになっているのだろう。


 7年前、元チューリップの財津和夫(57)に取材した際、解散について語ってくれた。チューリップも学生時代の仲間で作ったグループだ。「初めは友達感覚で好きなことを言い合いながらやっていた。いつの間にか社会人になって、結婚もして、子供もできて、徐々に個人の環境が変わってくるに従ってその感覚がずれ始め、最後は若気の至りでいろんな暴言やら何かでもう…」。屈託のない言葉の掛け合いを楽しむ関係だったはずが、いつの間にかののしり合いに変わっていったという。そしてチューリップは解散という道を選択した。デビューから17年目のことだった。解散後もずっと精神的な確執は残っていたという。それほど傷つけ合ったのだ。


 THE ALFEEも、よく本音で物を言い合っているという。ところが、もめることはほとんどないという。よっぽど3人の性格のバランスがいいのだろう。


 バンドが解散する時に「音楽性の不一致」という言葉がよく使われる。メンバーの中で、目指す音楽がバラバラになってしまい、解散を選択するのだ。サザンオールスターズの桑田佳祐(49)は「バンドの解散も夫婦の離婚と同じ。要するに仲が悪くなったわけで。音楽性の不一致は性格の不一致と同じ。愛人ができたりケンカが絶えなくなるのと何ら変わらない」とエッセーにつづっている。サザンは今年27年目。そんな桑田が言うように「音楽性の不一致」は、まるで夫婦にとっての性格の不一致のように、埋めようのない深い溝になり得るのだ。バンドを続けていくことは、それほど難しいことなのだ。


 太く短くというスタイルもあるだろう。解散して“伝説”になる手もある。だが、高見沢は「いろいろなブームがありましたが、僕らは変わらずこうして続けてこられた。それだけでも結構すごいでしょ」と胸を張った。変わらず存在し続けることも立派なスタイルだと思う。


 サザンの桑田は「ローリング・ストーンズは続けることで、音楽はやめられないってことを表現している」とも語っている。50歳を超えても、息の合ったステージを提供し続けるTHE ALFEEにも、その言葉がぴたりと当てはまる。

May 13, 2005 11:47 AM

2005年05月12日

心地よい父娘げんか:鹿野芳博

 一体いつから「親子げんか」をしなくなっただろうか? 
 最後の「親子げんか」を思い出してみると、中学生のころだったか。小言を言う母親に「うるせー」と初めて口答えし、怒られたことぐらいしか思い出せない。


 私ももう36歳。いまさら「親子げんか」をする年でもない。最近、見ることすらなかった。ところが先日、目の当たりにした。あの、横峯さくら(19)と父良郎さん(45)親子だ。


 3日、女子ゴルフ・サロンパスワールドレディスの練習ラウンド取材で、東京よみうりCCに行った。約10年ぶりの女子ゴルフ取材で、生で横峯親子を見るのは初めてだった。


 わくわくしながら18番ホールグリーンで待っていると、さくらと良郎さんが上がってきた。グリーンを確認しながら、2人は何か小言を言い合っている。さくらは良郎さんを相手にしていないようだが、良郎さんはかまわず文句を言っていた。「こりゃ~新聞やテレビで見たまんまだ」。思わずうれしくなった。


 ホールアウト後、さくらと良郎さんが練習場に向かった。私も興味津々で付いて行くと、そこで面白い光景を目にした。


 関係者がさくらの握力測定を行っていた。さくらが最初に左手で計測すると23・3キロだった。関係者から「少ないね」といわれ「私はか弱い女の子なんです。でも、真剣ですって」と笑顔を見せた。続いて測った右は29・8キロ。周囲は和やかな雰囲気に包まれた。


 ところが、良郎さんがその空気を一変させた。「お父さんにもやらせてみろ」。良郎さんは顔を真っ赤にして握力計を握った。さくらには何が何でも負けられない、そんな感じ。結果は左右とも48キロジャスト。さくらは「すごーい」と小さな声をもらしたが、続けてこう言った。「私ももう1回やる」。さくらも負けられないのだ。


 良郎さんが「試合前だから無理するなよ」と声を掛けても、完全に無視していた。そして、先ほどより高数値の右32・6キロ、左31・5キロをマークした。それはまさに父への当て付けのようだった。


 それにしても、この「親子げんか」は見ていて心地よいものだった。父親は娘を刺激しようとわざと絡んでいく。娘もその意図を分かりながら、真剣に向き合っている。お互い思ったことをストレートに口にするのは、深い信頼関係があるからだ。核家族化でしらけた感じが広がる現在の社会で、この親子には、正直、温かみを感じた。


 会社に戻り、横峯親子の過去の「公開親子げんか」を調べた。その中に、傑作なものを見つけた。


 さくらが今年の4月17日、ツアー初優勝を飾り、翌日、睡眠時間を削ってテレビ出演、殺到する取材対応に追われたときのものだ。


 さくら「4時間しか寝てませんよ」。


 良郎氏「甘い。ピンク・レディーは1時間しか寝てなかったんだぞ」。


 さくら「私アイドルじゃないから」。


 この親子にはこれからも注目していきたい。

May 12, 2005 12:17 PM

2005年05月11日

交流戦機に連盟統合:飯島智則

 プロ野球の交流戦は予想以上に新鮮だった。開幕カードは横浜-ロッテを観戦した。横浜スタジアムの左翼席に、ロッテファンが着る黒と白のコントラストが映える。所変われば雰囲気も違うものだと感じた。


 6日の試合ではロッテが1点リードの9回表。横浜が左腕ホルツをマウンドに送ると、ロッテは左の李に代え右の大塚を代打に送った。ロッテの動き。横浜野村投手コーチは「李が代打を出される立場かどうか。なかなか判断がつかなかった」と言う。同一リーグならば、ある程度は相手ベンチの動きが読める。交流戦ではスコアラーが集めた豊富な資料が、まだ生きたデータになっていない。そんな戸惑いも実に面白い。

 同じ野球とはいえ、リーグ間には多くの差があったとあらためて思う。交流戦の実施に際し、リーグ間で異なるルールが統一された。例えば「危険球は即退場」「メガホンをベンチに持ち込んではいけない」など。昨年まで、ベンチ入り選手が示される出場登録名簿がセは縦書き、パは横書きだった。さあ、どちらにする? とも話し合われた。笑い話ではない。ちゃんと横書きに統一されている。


 4月26日の実行委員会では、出場停止選手の登録抹消について統一された。パのアグリーメントでは出場停止中の選手は「登録からの抹消は認められない」と明記されている。セは規定がなく球団の判断に任されていた。だが、今回、セ、パともに抹消は球団の判断だが、代替選手の登録は認められないと統一された。つまり出場停止選手が出たチームは1軍が28人のところ、27人で戦わなければならない。


 可能性はあるが、珍しいケースだろう…と思っていたら、交流戦開幕日の6日に中日ウッズが10試合の出場停止処分を受けた。いきなりの適用だった。


 また通常、処分は所属リーグ連盟会長から受けるが、交流戦では主催球団が所属する連盟によって処分が出されると確認されていた。これも早速の適用があった。西武カブレラが7日の広島戦(広島)で審判に暴言をはいたため、セ豊蔵会長から厳重注意と制裁金10万円の処分を受けた。何事も事前の準備が大切ということだ。


 交流戦を機として、多くの部分でリーグ間の統一がなされた。となれば連盟が分かれ、それぞれに会長が存在する意味は低くなる。


 大リーグでも以前は連盟が分かれ、ア・リーグ、ナ・リーグにそれぞれ会長がいた。ところが00年にリーグは統合され、大リーグ機構(MLB)が一括して組織を仕切っている。実は、4月に渡米した巨人清武代表らワーキングチームがMLBとの会談の際に「リーグ連盟を統一したメリット、デメリットは」という質問をしている。MLBの答えは「デメリットは見当たらない」だったという。


 誕生の歴史が異なるため、リーグとしての利益、発展を考える必要があったことは理解できる。だが、交流戦も実現した今、リーグよりも大きな「プロ野球」を単位として考えていくべき時になったと思う。ドラフトなど個々の制度を改革する前に、組織のあり方を検討すべきだろう。

May 11, 2005 12:28 PM

2005年05月10日

G1の夢へ「塾」開講:高木一成

 世間一般で塾通いの生徒が増えたのは相当前からだが、中央競馬の美浦トレセン内では最近になって初めて「塾」が開講された。講師は昨年騎手を引退した坂井千明氏(54)。現役時代はナリタブライアンが3冠に輝いた94年にダービー3着、菊花賞2着と奮闘したヤシマソブリンなどにまたがった。


 通称「千明塾」は、現在評論家として活動する坂井氏の「若手騎手を伸ばしたい」という思いから、半年ほど前にスタートした。毎週、水・木曜の午後に、前の週のレースDVDを見ながら個人ごとにポイントを指摘する。フリー参加の形だが、今では9人の若手騎手が顔を出す。


 「授業」現場に行ってみたが、さすがに内容は濃い。騎乗姿勢、コース取り、動き出しのタイミングなどなどポイントはさまざま。真剣にうなずく「生徒」の表情から相当勉強になることを指摘されているんだな、というのが伝わってくる。参加していたある騎手は「聞きたいことを聞けて、言いたいことを言いあえるので精神面でのリフレッシュにもつながっている」と話していた。


 「塾」と書いたが、月謝などを取っているわけではなく、あくまで競馬界の繁栄を願ってのボランティア。プロ野球、Jリーグなどはもちろん、ほとんどの競技で元選手が現役選手を指導・育成するシステムが確立しているが、騎手個人同士の戦いでもある競馬界にはそれがない。「やっぱり競馬が好きだし、この先も発展してほしい。でも10年後を考えるとどうか。今の競馬を引っ張る武豊がいつまで騎手をやっているかだって分からない。若手がもっと売り出してこないと競馬がダメになる」と、若手の伸び悩みを指摘する。


 競馬学校でみっちりとしごかれて、卒業までに基本的な技術を仕込まれるとはいえ、実戦はまったくの別物。試合形式の練習ができる他競技と違い、競馬はそうはいかない。騎乗馬が少ない若手騎手のレース経験はどうしても不足する。それでいてJRAの先輩騎手だけでなく、必死に勝ちに来ている地方のトップジョッキーや、一流の外国騎手とも同じ舞台で競わなければならない現状はかなり酷。騎手間の上下関係は昔の方が厳しかったと聞くが、こと乗りクラの確保などは最近の若手の方が厳しい環境にある。


 「若手にはハングリーさがない」。どの業界でも言われていることで、騎手もそういう傾向はあると思い込んでいたが「千明塾」の現場には「少しでもうまくなりたい」という気持ちがあふれていた。「技術は自分の目で盗むもの」「人に教えてもらうのは甘い」という考えもあるだろうが、どうすれば上達するか悩んでいた若手に道を示してあげたのは大きい。競馬学校の教官の誘いを断って、現場に近い位置にいることを選んだ坂井氏の試みは成功したと思う。


 実際、参加しているメンバーはみんな順調に成績を上げつつある。「あいつらローカル開催に行って勝っても、おれに土産ひとつ買ってこないんだ。信じられないだろ」と苦笑いする坂井氏だが、若手の成長はうれしい様子。いつかは門下生からG1勝ちの報告という、でっかい土産がもらえるはずだ。

May 10, 2005 04:04 PM

2005年05月09日

理想の継続サポート:横田和幸

 女子サッカーのLリーグはかつて、バブルの申し子と呼ばれていた。広告塔の役割を期待され、有力企業が運営に乗り出した。五輪で正式種目に採用された96年アトランタ大会が頂点だっただろうか。だが、90年代後半から日興証券、プリマハム、松下電器などの企業は、リストラ策で休・廃部に踏み切った。


 1チームの年間運営資金は2000万~7000万円(J1では二十数億円が最低基準)といわれる。それが00年シドニー五輪の出場を逃し、マスコミの露出も激減した。わずか数千万円の投資でさえ、企業内では許されなくなった。当時は仕事をしないプロ契約選手が主流も、今では沢穂希(日テレ)だけだ。


 女子の歴史を振り返っていて、あらためて気付いたことがある。Lリーグ(当初は日本リーグ)は89年の第1回大会から今年で17年目を迎えた。そこで唯一、最初から参加し続けている企業が、TASAKIペルーレFC(神戸市)を運営する宝飾チェーンの田崎真珠だった。


 昨年のアネテ五輪で5人の代表を輩出して、知名度は今でこそ高い。だが、リーグ初優勝は参戦15年目の03年だったし、アトランタ五輪に誰も派遣できなかった。93年に2部リーグに降格しているし、95年には阪神・淡路大震災に見舞われた。記者も関西で取材活動を重ねてきて、TASAKIは遠い存在だった。経営者にすれば、何度でも運営撤退の節目を迎えたはずだが、田崎真珠の創業者でTASAKI総監督の田崎俊作社長(76)は「一切考えなかった」という。


 「実際にやめていった企業が続出したが、私は挑戦を選んだ。サッカーを頑張ることで、選手の仕事にも好影響がある。(アテネ五輪で)先行投資額から、おつりがきたな。半永久に活動してくれたらいいよ」。


 この言葉に偽りがないのは、17年間の投資で証明されている。Jリーグの取材でも感じることは、現場は、我々が考える以上に出資企業の動向を気にしている。関西のJ1某クラブで数年前、メーンスポンサー撤退のうわさが流れた。関係者は水面下で撤退阻止の下交渉を続けた。当事者には精神衛生上、本当に良くない話題なのだ。


 現在のLリーグ1部8チームで、完全な企業運営はほかに東京電力だけ。主流は高槻、伊賀のような市民クラブの形態で、市民からの後援会費が命綱になっている。プロ野球でも企業撤退や吸収合併の話題は避けられなくなった。そう思えば、企業から完全サポートされているTASAKIは日本スポーツ界の理想郷なのかもしれない。


 4月末のLリーグ・日テレ戦の観戦に突然、田崎社長が神戸ユニバー記念競技場に現れ、サポーターに数百本の缶ビールを差し入れた。関係者は「典型的な、金は出すが口は出さない社長」と感謝している。北京五輪は3年後の夏。なでしこジャパンの成績は、ドイツ語で「真珠」を意味するペルーレが握っている。

May 9, 2005 10:43 AM

2005年05月08日

野球を愛したハムの父:上野耕太郎

 球団とたたき上げのオーナー。その蜜月というか、幸福な形を少しだけ見せてもらった。


 日本ハム球団の前オーナーで食肉業界最大手の日本ハム創業者、大社義規氏(享年90)が4月27日、心不全のため死去した。同29日のオリックス戦、選手たちは喪章を付け、試合に挑んだ。スタンドには「日本ハムの『父』のために絶対勝つ」との垂れ幕もあった。


 5月1日、札幌から大阪に向かった。本願寺津村別院で行われた前オーナーの葬儀を取材するためだ。27歳で独立し、日本ハム本社を1兆円企業にまでにした。02年8月、牛肉偽装問題で引責辞任し、第一線から身を引いたが、カリスマ経営者と呼ばれた。一方で熱狂的な野球好きとしても知られたオーナーだった。


 大阪は小雨が降っていた。祭壇には大きな遺影と棺(ひつぎ)が置かれていた。その上には背番号「100」のユニホームが飾られた。今年3月に前オーナー用に新調したものだ。背番号も永久欠番になるという。葬儀を終え、参列者が見守るなか霊きゅう車が出発した。その横には応援旗を振るファンの姿があった。


 29日の試合後だった。寡黙な小笠原がオーナーに対して追悼の言葉を取材陣から求められた。一言ずつ、選びながら目に涙がたまっていった。そんな小笠原の表情を見たことがなかった。大社前オーナーは「日本一球場に足を運ぶオーナー」と呼ばれた。自分が観戦すると負け試合が続いたことがあった。「選手が気にするといけないから」。後楽園球場を車で数度、回って球場を後にすることもあったという。


 確かに73年、球団買収をしたおかげで売り上げが倍増していった。石油危機の中での決断。73年7月決算では850億円だった売り上げが、翌74年に1091億円、75年に1262億円、76年に1650億円と加速度的に伸びた。オリックスが球団買収したときの参考例になったともいわれる。食肉の牧場横に工場を建てて、大都市圏に「肉」を加工して送り届けた。これが当時、新発想といわれ、日本人の体格に影響を与えたのではないか、とも思ってしまう。


 前オーナーの葬儀でふと思ったのは業績のことではない。そんな財界人が野球をこよなく愛した。選手やスタッフを大事にした。選手たちは一番、身近に熱狂的なファンというものをこの前オーナーに見たのではないか。引退後も車いすで野球を観戦した。キャンプ地にも訪れ、2軍の優勝時にも球場を訪れた。


 はて、酔った勢いで選手をくさす元オーナーもいる。成績が上がらないからと1カ月で人事を断行するオーナーも。昨年、選手会が球界再編劇の最中で訴えたのは「プロ野球を職業とする人たち、そして応援する人たちのプライド」だと思う。


 かつて、大社前オーナーは優勝したときに着ようとロッカーに背番号「100」のユニホームをしまっていたという。ニコニコしながら。故人に失礼だが、圧倒的な企業人のそんな子供っぽい姿に引かれる。そして選手たちは、今年こそ優勝をしたいと願うのだろう。人の気持ちは叱咤(しった)激励だけでは動かない。

May 8, 2005 12:52 PM

2005年05月07日

自省 急ぐ必要はない:永井孝昌

 上京したのは18歳の時だった。


 真っ先に驚いたのは、汽車の本数の多さだった。5分と待たずに次の汽車が現れる。しかもどこからわいてくるんだ、と思うくらい多くの客で込んでいる。すごいね、東京の汽車は、と友人に言ったら「キシャ? カッカッカッ」と笑われた。それまで、電車という言葉を日常会話で使ったことさえなかった。


 以来、都会の便利さを享受してきた。朝起きて、何も考えずに駅に行って、ただ、来た電車に乗ればいい。普段の生活から時刻表は消えた。電車に乗り遅れれば1時間待つのが当たり前、という生活から、なんだか都会人になったような気さえしていた。


 だが。


 今では。


 電車に乗り遅れれば、5分の待ち時間にじれる。目の前で扉が閉まれば「開けてくれよ」と腹が立つ。それを増長するように、ホームでは「線の内側にお下がりくださいっ!(って何度言わせんだバカヤロー、と言っているように聞こえる)」の絶叫が焦燥感を駆り立てる。慣れは怖い。いつからこんなに、時間に追われて生きるようになったんだろう。


 昨年出張したイタリアで、こんな笑い話を聞いた。「日本人は電車が1分遅れれば許せない。イタリア人は電車がくるだけでラッキーだと思う」。ダイヤの乱れは当たり前。アナウンスなしでのスト突入も珍しいことではないらしい。「最近の新車両には『きれいな電車はもっといい』と書いてあるんですが、みんな『時間に正確な電車はもっといい』と皮肉っていますよ」とイタリア在住の通信員が言っていた。わずか90秒の電車の遅れが100を超す人命を奪った、と聞けば、かの国の人々はどう思うのだろうか。


 尼崎市のJR脱線事故は今も原因究明作業が続いている。いくつか、事故の一因と思われるものも報道されている。速度超過。過密ダイヤ。定刻からの遅れに対する運転士の重圧。私鉄(国鉄が民営化した時点でその呼び方も形がい化しているが)との競争。でもその裏には、都市部への人口集中、土地や住宅の高騰、通勤負担の増大、高速道路の料金高や慢性的渋滞問題が引き起こした社会災害、という側面があるように思えてならない。電車を利用する1人1人の「生き急ぎ」さえもが遠因ではないか、という考えまで浮かぶ。


 90秒。長い人生から見れば瞬間にしかすぎない時間のために多数の犠牲者が出たのならば、切なすぎる。JRが民営化したのは業務だけで、罪のない犠牲者やその家族、周辺住民への対応がお役所仕事のままならば、同じ悲劇が繰り返されそうで怖い。


 せめて何もできない自分は、自省しよう。世の中から見れば、自分など1分1秒を生き急ぐ必要のない人間なのだと。1分1秒待たされたくらいで怒るほど忙しい人間ではないのだと。スローフードを楽しもう、って、レストランでゆっくり食事をする行為じゃないだろう。注文したものがなかなかサーブされなくても、ゆとりを持って、笑いながら食事できる気持ちと環境がなければ、そんなものには意味すらない。

May 7, 2005 12:10 PM

2005年05月06日

例えば嶋vs金村:栗原弘明

 6日から、いよいよプロ野球交流戦が始まる。昨年、激動した球界の動きの中で、何とかしようという意識の中から生まれた交流戦だ。今年は各球団とも改革元年と位置付け、人気復興へ努力している。交流戦でしか実現しなかった新たなカードが観客を球場へ戻す起爆剤になって欲しいとも思う。


 個人的に、楽しみにしている「対決」がある。


 広島嶋重宣外野手VS日本ハム金村暁投手。


 94年11月18日のドラフト会議のことだ。東北支社に勤務していた私は、宮城・東北高校野球部の合宿所にいた。ドラフト目玉選手の1人に挙げられていた嶋は、広島から2位指名を受けた。予想通りの球団、指名順位だった。おっとりしたマイペースは、今も当時も同じだった。「甲子園のマウンドとドラフトと、どちらが緊張した?」という問いに「そんなの甲子園に決まっているじゃないですか」とあっけなく答えたのが印象に残っている。


 だが、同じ宮城の仙台育英・金村が日本ハムから1位指名を受けたことを知らされると、表情が変わった。「そうなんですか」と無関心を装ったが、明らかに負けられないというライバル意識があった。金村も「自分が試合に先に出られるよう頑張る」と嶋を意識した発言をした。2人とも、東北の超高校級投手として騒がれていた。豪快な左腕の嶋はナタ、しなやかな右腕の金村はムチ、という表現がピッタリだった。


 それから11年がたった。入団時は「投手にこだわりたい」と語っていた嶋は打者に転向。なかなか芽が出ず、毎年、オフになると戦力外通告を受けるんじゃないかと気になっていたが、見事に打者として復活した。まさか赤ゴジラというニックネームがつくとは思わなかったが…。金村は、順調に投手として成長した。日本ハム担当として直接取材する機会にも恵まれた。嶋は首位打者、金村は最優秀防御率という勲章も手にした。


 昨年のオールスター戦。ともに選出された金村は、嶋との対戦を熱望していた。起用のタイミングもあって、それは実現しなかった。「本当にやりたかった。楽しみにしていたから、残念ですよ」と名残惜しそうな表情を見せ、球場を後にした。


 先日、言葉を交わす機会があった。交流戦で広島戦に登板した場合、嶋との対決を聞いてみた。「楽しみ? そういう気持ちは、今度は全くないですね。勝負を楽しむ余裕はなくなるでしょう。チームの勝ち負けにかかわる問題になりますから。真剣勝負。でも抑えて見せますよ」。その言葉には、迫力があった。11年前のライバル意識は消えてはいなかった。


 オールスターともわけが違う。交流戦でこそ実現する、幻だった対決がある。2人ともプロで苦労を重ね、チームの主力にまで成長した。今までの自分を振り返る、そういう対戦になるかも知れない。


 野球名鑑を手に「注目の対決」を自分なりに見つけだすことを、交流戦の新たな楽しみにしてはいかがだろうか。

May 6, 2005 11:29 AM

2005年05月05日

「10年戦争」結末は…:中山知子

 「ゆ」のひと言を聞くだけで、表情が変わるといわれる小泉純一郎首相(63)が「何としても今国会での成立を」と意気込むのが、郵政民営化関連法案。先月28日、法案を成立させるかどうか議論をするために、国会に提出された。それに先だって、自民党の最高意思決定機関の総務会で、党としての最後の調整が行われたが「反対勢力」が猛反発。了承されたのは法案の中身ではなく「法案を国会に出す」ことだった。それでも、強行突破に近いドタバタ劇だった。


 小泉首相は、大型連休前に国会に法案を提出するように指示を出していたので、この日がデッドライン。国会で取材をすると、当然ながら反対派のメンバーたちは、怒りが収まらなかった。「時間がないから(議論の)打ち切りは仕方ないとは何だ」「(反対派としての)私に1票を投じてくれた人に恥ずかしい行動はできない」。「少数の意見が通ってしまう。多数決ならぬ少数決だ」。


 「自分とは違う意見を許さないなんて、民主主義の中でとんでもないことだ」と言って、小泉首相の手法を批判する声もあった。


 聞いていて、似たようなフレーズを、10年前に小泉首相自身が口にしていたのを思い出した。


 小泉首相が初めて出馬した95年の自民党総裁選の出馬会見でのことだ。「違う意見を許さない、というのは自民党の一番悪い体質が出た」と話していた。小泉首相は既に郵政民営化を持論として掲げていた。自民党の中は既に猛反対の雰囲気だった。


 この時小泉首相は、出馬に必要な30人の推薦人を集められるかどうか、微妙な状況。何とかかき集めて、公示の受付を1時間半後に控えた午前7時半、出馬会見にこぎつけたが、絶対的な少数派。目を充血させ、郵政民営化に対する党内の厳しい空気を察し「『小泉つぶし』が強まるほど(総裁選に)出なければという思いが強くなった」と、ほえた。意見の違いから支持を得られないことを嘆くより、風当たりの強さに、やる気をみせていた。


 だが、この時は小泉首相は橋本龍太郎氏に負けて、総裁にはなれなかった。力のない少数だったのだ。


 それでも97年の行政改革推進会議で、郵政3事業のうち一部の民営化方針が決まり、その時に話を聞くと、小泉首相は「タブーを打ち破ったことに意義がある」と、勇んでいた。


 あれから10年。少数派だった小泉首相は自民党総裁、総理大臣になり、権力を握った。一時よりは下がったが、支持率は4割を確保して任期は残り1年あまり。持論の実現に並々ならぬ決意だ。


 一方で、郵政民営化法案に「反対」の議員の大半も、その思いを訴えながら選挙に勝ってきた。でも、権力を握った小泉首相を相手にすれば、数は多くても、かつてのポジションは逆転した。反対派の意見はなかなか通らない。


 ガチンコ勝負が思いもしない展開を見せるのか、やっぱり、自民党の中の争いで終わるのか。「10年戦争」の結末はもうすぐ出てくる。

May 5, 2005 01:06 PM

2005年05月04日

功労者は尊重すべき:盧載鎭

 2003年12月2日、鹿島クラブハウス内の一室。何ともいえない重苦しい空気が流れる。鹿島の鈴木満強化部長が、絞り出すような声で切り出した。「申し訳ない。これが今回、クラブが出した結論だから…。のんでくれ」。長年、鹿島の屋台骨を支えてきた功労者DF秋田豊への解雇通告だった。


 「彼はまだトップでできる選手だが、うちのチーム事情でもう雇えない。だからといって、安い年俸を提示するのは失礼に当たる」と同強化部長。04年度から世代交代を図ると決めていたため、秋田がベンチに座る頻度が増えるのは目に見えている。当然、秋田を残してスムーズに世代交代させた方がベストだとは分かっていたが、それではあまりにも功労者に失礼だ。


 「できれば、オレがいるうちに若手がオレを超えてほしかった」と鹿島に愛着がある秋田と、秋田に申し訳ない気持ちでいっぱいの鈴木強化部長。非情通告の場で2人は泣いた。泣き声が部屋の外に漏れていたが、気にしなかった。お互いを信頼していたから、男泣きできた。


 「今はつらいけど、この先、今の判断が正しかったと思える日が必ずくる」。鹿島の牛島洋社長は唇をかんだ。鹿島が年俸0円提示したことで、秋田は名古屋へ移籍金なしで移籍できた。1年かけて若返りに成功した鹿島は現在Jリーグ首位を走り、秋田の経験が加わった名古屋は2位につけている。冷たいと思われた決断が、1年以上の年月を経て最高の形として表れている。


 今回、また長年チームに貢献した功労者が1人チームを去ろうとしている。磐田MF藤田俊哉である。しかし、状況は秋田の時とかなり違う。今季、山本昌邦監督のスタメン構想から外れ、最初はベンチスタートが多かった。主力の負傷で最近は先発復帰しているが、すでに移籍を決意している。4チームからオファーを受け、悩みに悩んで自分のホームページに移籍先として2チームに絞ったことをファンに報告した。


 今までの功績を評価するなら、藤田の意向を尊重するのが筋だろう。磐田サイドが本人の意向を聞いて交渉を進めるチームとは段取りを付け、そうではないチームには丁重に断りを入れるのが普通だと、僕は思う。オファーが届いたのは藤田本人のところではなく、クラブなのだからだ。


 しかし磐田の鈴木政一強化部長は「4チームとも会うべきだ。オファーを出したチームに失礼だ」と一喝し、悩んだ末に出した藤田の結論をあっさり無視してしまった。若手ならともかく、33歳の妻子持ちのベテランで長年黄金期を支えてくれた選手への処遇とはとても思えない。


 結局藤田は、磐田の面目のため、自分の中ではすでに断っているはずの2チームとも会うことにした。お世話になった磐田へ、最後まで仁義を切るためだ。今回の移籍は、藤田だけに限らない。「明日は我が身…」。ほかの選手も当然、注目している。


 功労者への配慮と信頼を見せないクラブを、所属選手たちやサポーターがどう思うか、冷静に考えてみる必要がある。

May 4, 2005 10:42 AM

2005年05月03日

“大人”の窪塚に注目:松田秀彦

 取材受付を済ませると、後ろから足音が聞こえた。窪塚洋介(25)が入り口に向かって歩いていた。足取りはしっかりしていたが、表情はこわばっていた。無理もない。昨年6月、自宅マンションの9階から転落するも、奇跡的に一命をとりとめた。長い入院生活とリハビリを経た仕事復帰となる主演映画「同じ月を見ている」の製作発表だった。声を掛けると少し驚いたのか、目を見開いた。「あ、どうも」。落ち着いた表情だったが、大人びたのは顔つきだけではなかった。


 6年前から取材をしてきた。数多くの映画賞を獲得した映画「GO」。勢いある若手映画スター不在の中で存在感はまぶしかった。話を聞くといつも、一本気で純粋だと感じた。少し過激に聞こえた主張も「自分もかつてこんなこと思っていたっけ」と共感することもあった。1つ質問すれば自分の考えを分かってもらおうと、延々と言葉をつなぐ。まじめな若者だと思った。屈託もなかった。撮影現場でよく雑談した。役作りも本気で取り組んだ。役をきっちりつかもうと、参考になる本を読みあさり、関係者の話に熱心に耳を傾けた。のめり込むあまり、本や人間の主張をそのまま受け入れてしまうところがあった。純粋で、不器用だった。マスコミとの軋轢(あつれき)も、そんな性格が前面に出た結果だった。


 「大麻は環境問題を解決する」と主張して「奇行」と報じられた。有効な活用方法があるとしても、現状ではあまりに“過激”だ。女性週刊誌に「叶姉妹と海外旅行」と報じられると「クソテキトーなマスコミ」と書いたTシャツを着て敵意をむき出しにした。映画界に進出してから窪塚を支え続ける東映の遠藤茂行氏は「とてもピュアな男です。マスコミに対しても、なぜ自分が話したことが正確に伝わらないんだろうと本気で悩んでいました」と言う。


 大勢の前に出るとテンションが上がる。おちゃらけた言葉をよく口にした。「窪塚語」と揶揄(やゆ)された。ちょっとした受け狙いから出た物言いだと感じたが、確かに度が過ぎているときもあった。この日の製作発表では、落ち着いた口ぶりが印象的だったのか「窪塚語封印」とも報じられたが、もともときちんと話すことができる若者なので違和感はなかった。そんなことより“大人”として腹をくくったことを感じさせる言葉が印象的だった。


 「1%仕事、99%メッセージではなく、99%仕事、1%メッセージにした方が伝わるんだということもよく分かったつもりです」。


 誰もが認める仕事をすれば、主張に耳を傾ける人の態度もそれなりになってくる。自分の足元を見直すことができたのだろう。今回の配役についても原作を読んで「純粋でいい人」として描かれている役よりも「腹立たしくて相当むかつくんです」という別のキャラクターを選んだ。遠藤プロデューサーは「悪も善も併せ持つ人間ぽい複雑な役。昔の窪塚君なら選ばなかった。俳優として成長したいと強く願った結果でしょう」。


 自分を受け入れさせる圧倒的な強さを身に着ける決意をした窪塚の演技に注目したい。

May 3, 2005 11:22 AM

2005年05月02日

ローズと巨人に疑問:鹿野芳博

 それは、まるでプロレスのような出来事だった。


 26日、福岡ヤフードームの巨人対ヤクルトの試合終了直後のことだ。今季初の5連敗を喫した巨人選手を撮影するため、選手が引き揚げるベンチ裏の通路へ移動した。すると、密室の選手サロンから罵声(ばせい)が聞こえてきた。


 何を言っているか分からなかったが、興奮した声の主はローズ外野手であることが分かった。日本語交じりの英語で怒鳴り、乱闘を繰り広げているような感じだった。ただ事ではない様子に、私を含め報道陣に緊張感が走った。


 しばらくして、薄暗い通路にローズが出てきた。手には脱いだユニホームを持っていた。興奮しているようだったが、無言でカメラマンの前を通り過ぎた。我々は追いかけず、続いて出てくるであろう首脳陣、特に堀内監督を待った。


 すると、ローズの姿が見えなくなった通路のずっと先から、再び怒号が聞こえてきた。(ローズだ。ローズがまた切れたに違いない)。各社カメラマンは一斉に走った。私も全力疾走した。その距離約100メートル。ローズの姿を発見し、慌ててシャッターを押しまくった。


 ローズは速足で歩きながら、日本語でわめき散らしていた。「フ○○キン、ジャイアンツ。みんな書いていいよ。オレのせい(と)ヒロタさん言った。ジャイアンツ大嫌い。10年やった。尊敬ない。差別。ジャイアンツみんな下手くそ。大嫌い」。


 正直、これは野球でなくプロレスだと思った。別に面白がっているわけではないが、私の血も騒いだ。ローズがいい、悪いでなく、これはガチンコだと感じた。


 ローズの興奮は収まら