2005年04月27日
「感動願望」に戸惑う:永井孝昌
感動させてよ。
ってパワーがすごいッス。
24日、ヤクルト古田選手が史上32人目の2000本安打を達成した。大学-社会人を経てプロ入りした選手では史上初、といった記録だけでなく、客席に投げ入れた記念ボールを拾ったファンが試合後に「古田さんが持っていた方が…」とボールを返しにきた、などなどいい話も盛りだくさん。あと1本に迫っている巨人清原選手の500本塁打も、達成のあかつきには多くのエピソードが偉大な記録を彩るのだろう。
ただ今回は、記録に挑む2人が野球界を代表する選手で、しかも記録を目前に足踏みが続いたこともあるせいか、スタンドのメートルの上がりっぷりもなかなかすごい。
打席に入れば、選手の集中力などお構いなしにスタンドではカメラのフラッシュが光る光る。携帯電話のカメラももちろん少なくない。清原選手が安打を放っても、記録を待つ観客からはため息。あくまで想像ではあるが、客席では「オレが来た日に決めんかい」「お前の記録のために仕事も無理して来とんのじゃ」(こういう時はなぜか関西人じゃない人も関西弁を使っていそう、というのも想像)って声が飛び交っていそうな、記録への敬意や祝福とはちょっとズレた「歴史の証人になりたい願望」の圧力を感じる。
人間は誰しも「感動したい」という欲望を持っているもの。だが最近は「感動させてよ」「思い出をつくってよ」という、受動態でありながら能動的に感動を求める姿勢だったり、第3者でありながら無意識に自分をストーリーの主人公的に語るような傾向が強まっているように思う。
監督のコメントで「今日は選手が頑張った」ではなく「頑張ってくれた」と聞くと、(監督は第3者とはいえないかもしれないが)違和感がある。伝える側も同じで「○○監督の一言がこのピンチを救ってくれた」と書いたり、「○○選手がついにやってくれました」と言ったりする、主観と客観がないまぜになった感動ありきの言い回しに触れることも増えた。五輪やW杯のような大きなイベントがあれば、テレビからは「感動をありがとう!」なんてタイトルの番組も流れてくる。伝える側からしてそうなのだから、世の中全体が感動に対して「もっともっと」となるのも仕方のないことなのかもしれない。
感動を与えるのはプロの使命。それを伝えるのはメディアの仕事。そしてファンには感動を求める権利がある。ただ、感動させてよという前に、その記録や偉業、歴史的瞬間を迎えるまでの積み重ねも軽視しないでほしい。2000本目、500本目も偉大な歴史の1ページ。だがそこに至るまでの1本のヒットやホームランにも同じように価値があり、感動があり、そのどれかに立ち会った人にはそれぞれに思い出がある。
記録を誇るべきは、選手。それでも今日の巨人-ヤクルト戦で記録が生まれれば、福岡ドームはそこに居合わせた、という自慢の電話で携帯電話がつながりにくくなったりするんだろうな、多分。電話の前に拍手が起こり、その予想が外れれば、うれしい。
April 27, 2005 12:00 PM
